第10話 隠しきれない
昼休みの中庭。
いつもの場所で、僕は味のしないパンを齧っていた。
視界の端で、嫌な予感が形になる。
――バスケ部の先輩たちだ。
橘さんが囲まれている。周囲には大勢の生徒がいるのに、誰もが「関わりたくない」と目を逸らし、透明な壁を作っている。
「ねえ、もう一回だけさ。話聞けって」
先輩の、粘りつくような声。
「……ですから、前にもお断りしました」
橘さんの声は凛としているようで、指先がわずかに震えているのを、僕は見逃さなかった。
パンを握る手に、力がこもる。
駅前で、あるいはバイト先で彼女を助けた「俺」なら迷わず動けるのに。
学校という檻の中の僕は、分厚い眼鏡の裏で、臆病に縮こまっている。
「なんで分かってくれないかなぁ。調子乗ってんの?」
先輩が威圧的に一歩、距離を詰める。
橘さんが、たじろいで一歩、下がる。
その瞬間――橘さんの視線が、縋るようにこちらを向いた。
目が、合った。
助けて、という悲鳴ではない。
でも、その瞳に宿った絶望と、微かな期待が、僕の胸の奥を真っ赤に焼き尽くした。
「……っ」
気づけば、足が勝手にコンクリートを蹴っていた。
「橘さん!!」
自分でも驚くほど低く、鋭い声が出た。
橘さんが弾かれたようにこちらを見、先輩が不機嫌そうに振り返る。
中庭のざわめきが一瞬で消え、冷たい視線が僕に集中した。
心臓がうるさい。
耳の奥で警鐘が鳴っている。
でも、もう止まる気はなかった。
「……用事、あったよね。行こうか」
僕は橘さんの隣に立ち、まっすぐ先輩を見据えた。
「あ……うん。そうだね、ごめん。忘れてた」
橘さんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに僕の意図を汲んで頷いた。
「んだ、お前。邪魔すんなよ。陰キャが」
先輩が苛立ちを隠さず、僕の胸元を軽く小突く。
周囲の視線が刺さる。
でも、今の僕にはそれすら遠い世界の出来事のように思えた。
僕は眼鏡を直すふりをして、指先でフレームを強く押し込んだ。
「同じクラスです。……それに、彼女を待たせてるんで」
僕はあえて、いつものボソボソとした喋り方をやめた。
背筋を伸ばし、先輩の視線を真っ向から受け止める。
イケメンモードのような華やかさはない。
けれど、一歩も引かないその「圧」に、先輩がわずかに気圧されたのがわかった。
「……何だよ。……チッ、しらけた。行くぞ」
吐き捨てるように言って、先輩たちは舌打ちを残して去っていった。
僕は、まだ小刻みに震えている橘さんの手首を、そっと、でも確かな強さで取った。
「……行こう」
「あ……。うん、ありがとう。白石くん」
消え入りそうな声が、僕の胸を締め付ける。
中庭を抜け、人気の少ない北校舎の廊下まで出たところで、僕は足を止めた。 橘さんが、ふっと力を抜いて手を離す。
「……白石くん」
「……何?」
「白石くん、だよね。……やっぱり」
橘さんが、一歩踏み込んで僕の顔を覗き込んできた。
俺は思わず視線を逸らそうとしたが、彼女の真っ直ぐな瞳に逃げ道を塞がれた。
「眼鏡を外さなくても、わかるよ。……声も、話し方も、私のピンチに駆けつけてくれるその立ち方も」
「…………」
「駅前で助けてくれた人も、バイト先にいたあの人も……。全部、白石くんだったんだね」
もう、誤魔化すことはできなかった。
僕は長く、重い溜息を吐き出して、自分から眼鏡を外した。
レンズ越しではない、剥き出しの視線が彼女とぶつかる。
「……ごめん。ずっと、隠してた」
「どうして? なんでそこまでして、別人になろうとしてたの?」
橘さんの問いに、僕は喉元まで出かかった「理由」を飲み込んだ。
中学の時のこと、俺のせいで誰かが傷ついたこと。
それを話すには、今はまだ心が重すぎる。
「……ごめん。理由は、まだ言えないんだ。……ただ、学校では目立ちたくなくて。誰とも関わらずに、静かに過ごしたかった」
僕の情けない答えに、橘さんはしばらく黙っていた。
嫌われたかな。
それとも、呆れられただろうか。
けれど、少しの沈黙の後、彼女は小さく笑った。
「……ふふっ、馬鹿みたい。そんなの、理由になってないよ」
「え?」
「白石くんがどんな理由で隠してても、私が嬉しかったのは本当だもん。駅前でも、バイト先でも、今も。……助けてもらうたび、私、ずっと確信してたんだから」
橘さんが、悪戯っぽく、でも慈しむような瞳で僕を見上げる。
「声も、立ち方も、隠しきれてないんだもん。だから、私の方から確かめたくて、わざと近づいたりしちゃった」
「……完敗だよ、橘さん。……気づいてたんだな」
「うん。……でも、受け入れてるよ。あなたがどんな姿をしてても、中身は優しい白石くんなんでしょ?」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「学校では、今まで通り『地味な白石くん』でいていいよ。秘密は、私と二人だけのものにしよう?」
彼女は少しだけ頬を染め、僕にだけ見えるように内緒話のポーズをした。
「……ありがとう、橘さん」
「ううん。……助けてくれて、ありがとう」
学校での僕は、明日もまた眼鏡をかけて、目立たずに過ごすだろう。
でも、そのレンズの裏側にある本当の俺を、彼女だけは知っている。
変わり始めた世界の中で、彼女の手の温もりだけが、痛いくらいにリアルだった。
本日も読んでいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「面白かった」と思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると執筆の励みになります!
どうぞよろしくお願いします。




