14、地獄の電話
「着信……29件」
夏希は風呂上がりに携帯を開き、唖然としていた。
「メール……158件……」
さらに唖然とした。
そして、背筋に悪寒がはしった。
夏希は今、花葉家のリビングにいた。お昼ご飯をご馳走してもらえるようだ。
大きなフカフカのソファーに座っている夏希の膝の上には、桜が満足した表情をしながら、夏希の膝を枕にして猫みたいに寝転がっていた。
「ブーッ、夏兄ぃ、さっきから携帯いじってばっかり!」
「あ、ゴメン……ちょっと気になっただけだから……」
夏希は着信とメールの主を確かめずに、携帯をポケットに入れた。
「いいなぁ……携帯」
「そう?」
「桜も欲しいなぁ」
桜はまだ携帯を持つことを、許されてなかった。
「おかーさーん!」
桜は起き上がり、台所にいる紅葉に叫んだ。
「何なのー?」
ダイニングキッチンなので、紅葉の姿がよく見える。
「桜も携帯が欲しい!」
「ダメなのー。まだ桜は中学生、携帯を持つのはまだ早いのー」
「でも、友達は皆持ってるんだよ!?」
「他所は他所、家は家なのー」
「何それ!? 古いよ! 携帯があれば、夏兄ぃと離れてても話せるのに……」
「……離れてても……なの?」
ピカッと、紅葉の目が光ったように思えた。
「分かりましたの。桜に携帯を買ってあげますの」
「ホントっ!? やったぁ!」
桜は両手を挙げて喜んだ。
「そんなに簡単に許していいんですか……?」
夏希は台所にいる紅葉に訪ねる。
「娘を影から応援するのは、親の役目なの」
「は……はぁ……?」
夏希は意味が分からず、しかし、紅葉が桜の事を大切に想っているのは、分かった。
「携帯買ってもらったら、夏兄ぃの連絡先を最初に登録するんだー」
再び夏希の膝の上で甘えだした桜。夏希は優しく微笑み、桜の頭を撫でる。
「うん。桜ちゃんが買うの、楽しみに待ってるからね」
「えへへ……待っててね」
夏希の手をとり、優しく握った。
桜は幸せそうに微笑み、目を閉じた。
「待つ? いいえ、待たせないの」
ドンッと、テーブルに、お昼ご飯の乗ったぼんを置いた。
今日のお昼ご飯は、サンドイッチだった。
「今日、買いに行くの」
唖然としている夏希と桜を見下ろし、目を光らせて言った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「も……もしもし……はい……ごめんなさい……」
夏希は今、自分の部屋にいた。
今は昼の1時30分過ぎ。
桜と紅葉は、携帯を買いに行く予定が急遽出来たので、お昼ご飯が終わってからすぐに、携帯ショップへと出掛けた。
夏希も一緒に行こうと言われたが、さすがに遠慮した。
行く場所も無くなったので、家に戻ってきた。
そして……何故かベッドの上で正座をしながら、電話をしていた。
鬼のように電話やメールをしてきた犯人に、先程ようやく連絡を返した夏希。
犯人は、美魅だった。
『私が電話したのに、出ないってどういうことかしら!?』
「ごめんなさい……気づきませんでした……」
『ごめんなさいぃ!? それだけで済むと思っているのかしら!?』
「お……思いたいです」
『バカッ! 私がどれだけ心配したと思ってんのよ……夏希のバカ……』
「っっ……!?」
突然美魅の言葉が震えた。
まるで、泣きかけているような声だった。
夏希は、そんな美魅の様子に少し困惑していた。
『責任……』
「へっ?」
『私をこんなに心配させた責任……とってよ』
「責任って……どんな?」
『……デート』
「えっ……」
『今すぐ私とデートしなさい!』
電話の向こうの美魅は、どんな顔をしているのか分からない夏希だが、何故か美魅の不安そうな顔が思い浮かんだ。
「……いいですよ」
『えっ!? い、いいの……? 嫌じゃない……?』
夏希の心の中で思ったとおり、美魅が弱くなってしまった。
「美魅ちゃんが、喜んでくれるなら、ボクは嬉しいですよ」
『っっ……な、何よそれ! 夏希のクセに生意気!』
「えへへ」
夏希は、美魅が恥ずかしがっている声を聞いて、何故かニヤニヤしてしまった。
『っっ……悔しい……。夏希が私よりも優位になるなんて……屈辱』
ブツブツと言った後、美魅は急に笑い出した。
『クスッ……アハハッ……そうよ、そうだわ……私が夏希の弱味を握ったらいいのよ……なぁんだ……簡単じゃない』
「み、美魅ちゃん……?」
久しぶりに、夏希は美魅に恐怖を覚える。首筋に鳥肌が立つ。
そして、美魅は勝ち誇ったような声で言った。
『今から夏希の家に行く』
「えっ!? ボクの家に……?」
『行くったら行くの! 夏希の家でデートするの!』
「わ、分かりました……。別にいいですけど……」
『決まりね。じゃあ、今すぐ駅まで迎えに来なさい』
「えっ!? 今すぐ……?」
『家に居ても暇だから、今駅前を1人でブラブラしているのよ』
「……」
美魅を家に呼んで、一緒に遊ぼう、一緒にいてあげようと、夏希は決心した。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「思ったより、狭いのね」
「この狭さが、ちょうどいいんですよ」
美魅は、布団の上に座り、部屋をキョロキョロ見ている。
夏希は台所にいて、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出していた。
「ねー……夏希」
「何ですか?」
美魅は夏希の枕を抱き締めながら、麦茶の入ったペットボトルを机に置いた夏希を見つめている。
夏希はコップやお菓子を並べながら、様子がおかしい美魅を見てキョトンとしていた。
「夏希の部屋に……さ」
「はい?」
「エロ本って無いの?」
「……っぶっ! あ、あるわけないですよ! 何を言ってるんですか!?」
夏希は美魅の前に立ち、顔を真っ赤にさせて、否定した。
「えーっ……つまんなーい」
美魅は、ブーブーっと口を尖らせて布団に寝転んだ。
「夏希の“おかず”が何なのか知りたかったのになぁ」
「おかず?」
また夏希はキョトンした。
「ん? あ、そうか……夏希はチェリーボーイ、お子さまだもんねー……」
「何を言ってるんですか? 何かバカにされた気がするんですが……」
「クスッ……バカになんかしてないよ。ただ、これ以上変な虫がつかないように、マーキングしておかないと……」
「へっ……? 美魅ちゃ……」
美魅は、夏希の腕を引っ張り、布団へと誘った。
「ふぐっ……」
夏希は一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、すぐに理解した。
また夏希は、告白された時のように、美魅に押し倒されていたのだ。
「いい眺め……」
「み、美魅ちゃん……?」
夏希のお腹の下あたりに、馬乗りになっている美魅。少し息があらい。
「まったくバカね、夏希は……。家で私と遊ぶってことは、“大人の遊び”ってことよ?」
艶かしく笑う美魅。
その笑顔を見て固まる夏希。
「今日は逃がさない……。変な女より、私のほうがいいに決まってる。男は男にしか分からない」
美魅は、グググと夏希の顔へと近づく。口づけをする気だ。
「ま、待って美魅ちゃん! 意味が分かんないです!」
夏希は、わたわたと手を振り、混乱している。
「意味? 意味なんて簡単に決まってるじゃない……私は貴方を愛している……ただそれだけよ……」
「っ……」
美魅の目をまともに見てしまった夏希。その目からは、美魅の想いが一つ残らず流れ込んできた。
“愛している”
このようなことになってしまった理由はそれだけで十分である。
「黙秘は、肯定とみなすからね? ……クスッ、怯えちゃって……可愛い」
ニッコリと、嬉しそうに笑う美魅。そして……そのまま夏希の唇を奪った。
セミの鳴き声も聞こえず、扇風機の音が心地よく響く蒸し暑い部屋で……夏希と美魅の、お互いの唾液が舌を使って混ざりあう音が響いていた。
しかしその行為は、美魅からの一方通行である。
嬉しさも一方通行。
楽しさも一方通行。
気持ちよさも一方通行。
愛も……一方通行。
「んっ……そういえば」
美魅は、ゆっくり夏希を味わい、唇を離した。
そして、顔を近づけたまま言った。
「この前言ってたよね? いきなりキスしたら、今度は本気で怒るんだったよね? ね、怒らないの?」
クスクスと笑い、虚ろな目をした夏希をからかう。
しかし夏希は、頭の中がグチャグチャで、息が切れたような声しか出ない。
「夏希って、本当に可愛いー……」
美魅は優しく夏希の頬を撫でる。フニフニしていて、柔らかい。
「食べちゃいたい……ううん、食べちゃおうっと」
ペロッと、自分の唇を舐める美魅。目が本気である。
……男の目だ。
「っ――!?」
声にならない声で叫び、美魅を拒否するが……無駄だ。止まらない。
「夏希、愛してる……」
「っ……――」
美魅が、夏希のTシャツを脱がそうとしたときだった――。
ピリリリ――っと、携帯の着信音が、鳴った。
「ちっ……いいところだったのに……誰よ」
着信音は、美魅の携帯電話からだった。
イライラしながら、美魅は携帯電話をポケットから取り出した。
「――えっ……」
美魅は、携帯電話のディスプレイを見て、固まった。
着信音の正体は、電話。
電話の相手は……“ミサト”。
「なん……で」
美魅は震える手で、通話のボタンを押した。
「もし……もし? ミサト……?」
美魅の声も身体も震えていた。
ミサトからの電話が、まるでこの世の地獄かのような。
「……ご、ごめんなさい……そんなつもりじゃないから。……ちがっ! 違うって……! そんなわけないでしょ! “約束”なら覚えてるから……ちゃんと覚えてる」
夏希は、いつもと様子が一気に変わった美魅を、心配そうに見つめている。
「うん……分かった。今すぐ帰るから……そんなに怒らないで……。……だから違うって! 私は今……“1人”だから……」
美魅は、静かに夏希から離れて、布団からも離れた。
「……私は、ミサトだけの“モノ”だから……」
そう言って、美魅は電話を切った。
「美魅ちゃん?」
夏希は先ほどまでの気持ちはどこへやら、心配そうな顔で美魅に近寄る。
「……急用ができちゃった。もう帰るね……バイバイ」
「えっ……」
「フフッ、何で不満そうな顔してんのよ? そんなに私とエッチしたかったの?」
「なっ!? ち、違います!」
「フフッ……そうよね、夏希は違うもんね……」
美魅は、一瞬暗い顔をして、また笑顔に戻った。それは、どこか悲しい表情を思わせる笑顔だった。
「ありがとう夏希。だーいすき!」
「あっ……!」
美魅は逃げるように、夏希の部屋から出ていった。
夏希は出ていく美魅を追いかけようとしたが、体が動かず、ただボーッと見ているだけしかできなかった。
「美魅ちゃん……」
何故か、胸の奥がズキッと痛んだ夏希。それは、竜也を想うときと同じ痛みだった。
しかし、今の夏希には、この痛みの正体が何なのか分からなかった。理解出来なかった。
モヤモヤした気持ちだけが、胸の中を蹂躙する。