第5話 終末の序章 後編
全身に絡みつく影の感触を必死に振りほどこうとするが、力はすぐに吸い取られる。
まるで私の意志ごと影が吸い込んでしまうかのようだ。
足元に広がる血の匂い、破壊された机や椅子の残骸、床に散らばる濃い赤――全てが私を押し潰す。
「琉依⋯⋯もう逃げられないよ」
「い、いや!」
耳元で囁かれる声は、甘く、しかし恐怖の温度を持っている。
体を締めつける影の触手は冷たく、粘着質で、皮膚にじわじわと張り付く。
全身を巻き取られ、宙に浮くような感覚。意識が薄れるようで、呼吸もまともにできない。だが、絶望の中で、まだかすかな生への意志が残っている。
影は私の体を宙に浮かせながら、ゆっくりと廊下を滑り、南と真奈の残酷な最期を見せつける。
南の体が棘の棍棒で打ち砕かれる音、真奈の体が蜘蛛のような手足に絡め取られ、引き裂かれる音。
叫び声は耳の奥でこだまする。
心が張り裂けそうだ。
目の前で起きる現実が、恐怖と嫌悪と奇妙な興奮を同時に押し寄せる。
「⋯⋯なぜ⋯⋯私だけ⋯⋯?」
声が震え、涙がこぼれる。影の触手が私の腕や足を絡め、体をゆっくりねじ曲げる。
痛みよりも、逃げられない絶望が全身を支配する。ここで立ち止まったら、私もあの二人のように――いや、それ以上に酷い結末が待っていることを理解していた。
背後の囁きが耳に届く。
「俺は⋯⋯君を特別に愛しているんだ⋯⋯」
湊の異形は、シルクハットの下で微笑むような影を作り出す。
その冷たさと甘さに、思わず体が硬直する。
意識が揺らぎ、理性が溶けるような感覚に襲われる。
絶望と、逃れられない束縛の感触が、皮膚を伝って骨の奥まで染み込む。
影に絡め取られたまま、私は廊下の隅へと運ばれる。窓の外に夕日が落ち、長く伸びる影が校舎を覆う時間帯――まさに湊の力が最大になる瞬間だ。
廊下の光は赤く染まり、影の黒さが際立つ。恐怖の景色が、私の視界を覆い尽くす。
⋯⋯もう⋯⋯逃げられない⋯⋯
心の底からの絶望が、体中に広がる。だが、微かな希望がまだ残っていた。
「まだ、窓⋯⋯まだ外に⋯⋯」
意識を必死に保ちながら、影の束縛の隙間を探す。だが、湊の目は全てを見透かしているかのようで、逃げられる気配はない。
突然、影が一瞬緩み、地面に体を落とされた。
腕も脚も震え、床に残る冷たさは、触手の余韻だ。湊の声が耳元で囁く。
「⋯⋯そうだったね、あと1日。その日の午後6時に、迎えに行く。」
わずかな猶予を与えられたものの、恐怖は全く薄れない。胸の奥に刻まれた絶望と、南と真奈の最期の光景が、頭から離れない。
私は恐怖で膝をつき、呼吸を整える。
体中に残る影の感触、心に刻まれた恐怖、逃げ切れない未来。
残酷な現実を前にして、目の前の窓の光に希望を見出そうとする。
――あと一日。生き延びるために、最後の力を振り絞らなければならない。
だが、背後の廊下は、沈黙を保ちながらも、確実に私の一歩一歩を追っている。
影は待っている――確実に、絶対に、私を再び捕えるために。
胸の奥で、震える決意が芽生える。どんなに恐ろしくても、逃げ延びなければならない。二日後、私は――生き延びることができるのだろうか。




