第4話 影の接触 前編
夕方の光が廊下を染める。影が長く伸びる時間帯――その異様さに、胸の奥がざわついた。
足音が自分のものだけでないことに気付く。心臓がぎゅっと締め付けられ、背筋が凍る。
「⋯⋯誰かいるの?」
私は小さな声を漏らす。答えは返ってこない。
ただ、長く伸びた黒い影が、壁に沿って、廊下の先へと滑るように動いていた。
あの日、刺されたはずの痛みを思い出す。会社の上司――セクハラしてきたあの男の顔が脳裏をよぎる。
もしかして、あの人がここに? 直感的に、そう思った。息を整え、私は廊下の角を曲がった。
その瞬間、視界の端で白いシルクハットに赤いリボンと白の燕尾服の影がぬっと現れた。
懐中時計を手に持ち顔は烏のような仮面で真っ黒。目に見えぬはずの視線を、確かに感じる。
体が凍る。
「琉依⋯⋯逃げるのかい?」
低く、滑るような声。間違いない――あの上司の声に似ている。背後から聞こえ、体が自然と硬直した。
影が床から伸び、私の足を絡め取ろうとする。触れれば冷たい、いや、生きているかのような力がある。
必死に引き剥がそうとするが、絡みつく黒い影は意志を持つかのように逃がさない。
「君は俺のものだ」
声は耳元で囁くように響き、背筋に鳥肌が立つ。恐怖と嫌悪、混乱が胸を締め付ける。
触手のように絡む影が、私の体を押さえ、逃げ場を奪う。上司の狂気、いや、この存在の異常さに息が詰まる。
視界の端で、他の生存者たちの声がかすかに聞こえた。だが、距離感が歪んでいて、彼らの存在は届かない。
まるで私だけが、異形に捕まっているかのような孤独感。心理的な恐怖が、肉体の恐怖と混ざり合う。
「覚えてる?
あのクマのぬいぐるみ⋯⋯君が大事にしていたやつ」
囁かれ、胸が締め付けられた。
こんなこと、上司が知るはずがない――。
混乱と恐怖が交錯し、頭が真っ白になる。
影は緩めず、じわじわと圧をかけてくる。体が縛られる感覚――逃げられない。
叫ぼうにも声が上ずり、震える手は触手に絡め取られたままだ。
そのとき、微かな感触が心を貫いた――この存在は、単なる上司ではない。けれど、答えはまだ見えない。
ただ、黒い影と赤いリボンのシルクハットが、私を確実に捕らえている。絶望的な安心感のなさ。
息をするたび、影の冷たさが身に染みる。
「3日だけ⋯⋯生かしてあげる。午後6時には必ず迎えに行くから」
囁きが、闇に溶ける。解放されたようで、まだ重苦しい恐怖が残る。
逃げられる時間は短い。けれど、わずかな希望にすがり、私は再び歩き出すしかなかった。
影は遠ざかる。だが、胸の奥に刻まれた声と、絡め取られた感覚は消えない。
教室の扉を開け、机と椅子の列を見て深呼吸する。窓の向こうの夕陽が、冷たく光る。
――3日後、午後6時。あの黒い影が再び現れる。
絶望の淵に立ちながらも、最後の望みをかけて「窓」を探す決意が胸に芽生えた。




