第3話 初めての犠牲
窓際の光が遠くに感じられた。外に出れば自由になれる――そう思うだけで胸が高鳴る。
しかし、目の前には逃げられない現実が横たわっていた。
廊下を歩く私の視界の端で、影が微かに揺れる。床や壁の隅から、ひそやかに這い出す黒い塊。心臓が跳ね上がる。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息が浅くなる。
「⋯⋯逃げなきゃ⋯⋯」
小さく呟き、足を動かす。廊下の先には、藤堂辰一が立っていた。46歳、中学校の教師。短髪茶髪で体つきは逞しい。表情には疲労が滲むが、目は怯えていた。
突然、床がぬるりと震え、スライム状の異形がにゅるりと現れる。透明な水の塊に二つの顔が浮かび、ゆらゆらと辰一を押さえつける。奇妙な囁きが廊下に反響し、人間の声ではないが確かに言葉を発しているようだった。
「⋯⋯うわ⋯⋯」
息を飲む私。辰一は振り返り、私に目で助けを求める。
しかし、動く暇もなくスライムに呑み込まれ、全身が水状の体に溶けていく。
最後には呻き声だけが歪んで残り、床に滴る赤が現実の恐怖を示していた。
次に視界の端で、相模優志が立ち止まり、息を荒くしている。
黒髪に長四角の眼鏡、スーツ姿で冷静そうだが、その目は絶望に震えていた。
突如、包帯にぐるぐる巻きの異形が現れた。覗く瞳は赤く血の涙を流し、顔はどこか歪んで笑っている。
人間の悲鳴を真似るかのような声で、唸りながら包丁を振り回す。
「⋯⋯なっ⋯⋯!」
優志は後ずさる間もなく、異形の包帯が彼を絡め取り、動きを封じた。
包丁が不規則に振り下ろされ、逃げ場のない絶望。目の前で、優志の体が切り裂かれる音が響き、耳に突き刺さる。
血と肉の匂いが漂い、吐き気がこみ上げる。
「⋯⋯ここに⋯⋯窓があれば⋯⋯」
私は必死に思う。窓を見つければ逃げられるかもしれない。しかし、廊下はどこまでも続き、異形の気配は消えない。
窓の存在が希望の象徴でありながら、同時に逃げ切れない現実を突きつける。
背後でスライム状の異形が辰一を完全に呑み込み、跡形もなく消えた。
次の瞬間、赤い血の涙を流す包帯異形が優志を消し去る。全身を絡め取り、振り回される彼の姿は、もはや人間の形を留めていなかった。
「⋯⋯逃げなきゃ⋯⋯」
小さな声で呟く。足が震え、膝が折れそうになる。胸の奥で恐怖が渦巻き、全身が痙攣する。
私は必死で扉や窓を探し、窓の存在が生き延びる鍵であることを改めて痛感する。
南や真奈もいつ犠牲になるかわからない。周囲の廊下には、捕食された同胞の姿が影として残り、絶望の感覚を増幅させる。
視界に映る光景のひとつひとつが、私の心を引き裂く。
冷たい影が足元に忍び寄る。触れれば粘着質で、肌にまとわりつく感覚。
背筋に鳥肌が立ち、息が詰まる。生き残るには、窓を探すしかない――それだけが希望であり、逃げる手段だ。
恐怖と緊張が全身を支配する。
死の現実は、目の前の異形たちによって証明される。
生き延びるには、冷静さと瞬発力、そして窓という僅かな希望を信じて行動するしかない。
廊下を進むたび、胸の奥が張り裂けそうになり、背後の影の気配は消えない。
私はまだ生きている――でも、次に何が襲ってくるかは、誰にもわからない。




