第2話 迷宮の影
教室の奥で、私は床に手をつきながら息を整えていた。
冷たい空気が肺に突き刺さる。だが、立ち止まってはいけない。
「⋯⋯行こう。ここにいても、また来る」
自分に言い聞かせるように呟き、私たちは廊下へと踏み出した。
廊下の窓から差し込む夕陽は、どこか作り物めいていた。外に広がるのは校庭や街並みに見えるのに、目を凝らすと奇妙に歪んでいる。まるで絵画を切り貼りしたような、偽物の景色。
「これ⋯⋯全部、嘘?」
紫原南が震える声で呟く。エプロンの裾を握る手が小さく震えていた。
「窓は出口なんかじゃない。きっと、罠だ」
相模が吐き捨てるように言う。鋭い視線の裏に苛立ちが滲む。だが、その瞳の奥に浮かぶのは恐怖ではなく、別の何か――過去の後悔を思い出しているように見えた。
「俺⋯⋯またこんな場所で試されるのかよ」
藤堂が苦笑する。軽口を叩いているが、声が上ずっている。彼の額を伝う汗は、単なる恐怖だけではない。二股や裏切り、誰かを泣かせた記憶――そんなものが、彼の背中に重くのしかかっていた。
中里真奈は無言でフードを深くかぶり、壁際を歩いていた。唇を噛みしめる姿は痛々しい。彼女が抱えるもの――自分を責め続けてきた罪の意識が、この場所に彼女を呼び込んだのだろう。
その時だった。
――カツン。
乾いた足音が、廊下の角から響いた。
私たちは息を呑み、音の方向を見る。薄暗い光の中、床に黒い染みのような影がじわりと広がっていく。
「⋯⋯あれ、動いてる?」
真奈が小声で言った瞬間、影が壁から剥がれるように立ち上がった。
それは人の形をしているのに、顔も手も曖昧で、ただ黒い塊が揺れているだけだった。
影の異形――。
「っ、逃げろ!」
相模が叫んだ瞬間、空気が破裂するような音を立てて、影が触手のように伸びてきた。
私たちは散り散りに走る。足音が重なり、悲鳴が廊下に響いた。
振り返れば、影は誰かを狙うように形を変え、細い腕を壁沿いに伸ばしている。
「やだ⋯⋯やだ、来ないで!」
南が叫び、涙声になる。その姿に影がぴたりと動きを止めた。まるで彼女の恐怖を味わうかのように――。
「くそっ、こっちだ!」
藤堂が勇気を振り絞り、影の前に飛び出す。しかし、その足元から黒い手が生え、彼の足首を掴んだ。
「うわああっ!」
彼は必死に振り払う。その時、影の顔がかすかに揺れ、歪んだ笑みを浮かべたように見えた。
「藤堂さん!!」
思わず叫ぶ私。胸が張り裂けそうになる。
だが、次の瞬間――。
キーンコーン⋯カーンコーン⋯
チャイムの音が鳴り響いた。
夕方を告げるその音に、影は動きを止め、溶けるように床へと沈んでいった。
私たちはしばらくその場に立ち尽くし、誰も声を出せなかった。心臓の鼓動がうるさいほど響いて、息ができない。
「⋯⋯今の、何⋯⋯?」
南がかすれる声で尋ねる。
「異形⋯⋯でも、何で⋯⋯今、消えた?」
相模が荒い呼吸のまま呟く。
私たちはわからないまま、ただ逃げ延びた事実だけを胸に刻み込んだ。
だが、この校舎がただの学校ではないこと、そして影が本物の死を運んでくる存在だということを――全員が痛いほど理解してしまった。
「⋯⋯先に進もう」
私が震える声でそう言うと、誰も反論しなかった。
廊下の奥にはまだ見ぬ部屋、そして偽りの窓が待ち受けている。
迷宮のようなこの学校で、次に誰が狙われるのかもわからないまま――。




