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第6話 ウェイズとバート

ウェイズに理解できることは少なかった。

魔女の能力はいかなるものか、トレスはなぜ錯乱したのか、隊は今どれほどが生き残っているのか、なにもわからない。

しかし、唯一彼女に理解できたのは、この場にいてはいけないということであった。

聖人と一般人の差は運や小手先で埋められるものではない。

聖人たるトレスが虫けらのように殺された以上、自分たちがこの場に留まったところで後を追う以外にないことは明白であった。


「…終わりだ…終わりだ…殺されるぅ」


いよいよバートは頭を抱えて泣きだしてしまった。

バートは確かに臆病でだらしのない人間であったが、この状況で平静を保っていられないのはごく普通のことといえたであろう。

ウェイズもその実今にも絶望で動けなくなりそうであったが、ただ彼を守らねばならないという想いだけが、彼女の脚を支えていた。


「とにかくここはダメ。逃げるわよバート!」


もはや部隊は壊走状態。

隊長も死亡した今、命令などなくとも一目散に逃げるより他に選択肢など無かった。

バートの手を引きなんとか来た道を帰ろうとした、その時であった。


「あら、うっかりしてしまったわ。森の中で燃やしてしまっては伝書鳩にした意味がないものね。」


気配の全く無かったはずの背後から、女の声が聞こえる。

静かに、しかしいやにはっきりと。

全身の筋肉が硬直しそうになるのを必死に抑えながら、ゆっくりと後ろを振り向いたウェイズは、開ききった瞳孔にそれの存在を捉えた。


緑髪の女。

黒を基調とした控えめなドレスに身を包み、胸元にはあの炎と同じ色をした八面体の石が怪しく光を放っている。

こんな森の奥深くでそのような装いをしている人間が異質でないはずがなく、青白い肌にどこか虚ろな灰色の瞳をした彼女の姿は、まさに想像する()()そのものであった。


ウェイズは咄嗟に、固まって声も出せないバートを半ば放り投げるようにして自身の後ろへと引っ張った。

呼吸が、鼓動が、全身がけたたましく警鐘を鳴らしている。

ほんの一挙が次の瞬間の死に直結し得ると、そう本能が彼女に告げていた。

しかし、自分だけ逃げる訳にはいかない。

命乞いが通用する相手とも思えない。

彼女には、それしか選択肢がなかった。


「あら、勇敢なのね。」


魔女は剣を抜いたウェイズを見て、ほんの少し口の端を上げた。

ウェイズは必死で剣を構える。

魔女は丸腰なうえに、立ち姿も完全に素人のそれであった。

だというのに、ウェイズは彼女のどこにも隙を感じることができない。

まるで得体の知れない何かに水底に引き摺り込まれていくような、そんな息苦しい重圧がウェイズの身体を縛り付ける。



数秒、対峙が続いた。

魔女はふっと小さく笑って、ウェイズの瞳を初めてしっかりと見つめた。


「いいわ。貴女あなたたち2人、一緒に外へ帰してあげましょう。その代わり、私の伝書鳩になって?」


窺うように小さく首を傾げながら小さく笑みをつくった魔女は、その実彼らに選択肢など与えてはいない。

いや、これでも彼女は彼らに十分な選択肢を与えたつもりなのであろう。

今死ぬか、後で死ぬか。

これはそういう類の問いであった。

そして、トレスの死を間近で見たウェイズはそれをよく理解している。


「…貴女、頭がおかしいって言われない?」


軽口、というには過剰な緊張感を伴う声が、言外に魔女の問いを拒絶する。


「弱い犬ほどよく吠えるとは言うけれど」


ウェイズが魔女の動作を認識した時には、既に細い指が彼女の顔面を捉えていた。

とてつもない速度で頭から投げ飛ばされたウェイズの身体は、小石のように勢いよく地面を跳ねて転がる。


「この状況で吠えられるのは貴女の強さの証だと、私は思うわ。」


木にぶつかってようやく止まったウェイズは口から血を吐いて這い蹲る。

骨も臓器も、身体中のあちこちが絶叫を上げていた。

そんな彼女をよそに、魔女は相変わらず何がそんなに愉快なのか、あるいは不愉快なのか、ただただ小さく微笑むのであった。



視界が明滅し、血液が気道を塞いで満足に呼吸ができない。

人より多少大きな恩寵を宿す程度のウェイズでは、到底治癒できない重傷であった。

もはやどこが痛いのかもわからない中で、それでもウェイズは決して意識を手放さない。

彼女が無力化された後で、次にどこへ魔女の矛先が向くのかは明らかであるからだ。

だから彼女は、自らの末路を理解していながらも決して絶望する訳にはいかない。


「…バァ…ト…逃げ…」


言葉にならなくともいい。

ただ伝えなくてはならない。

守らなくてはならない。


バートは相も変わらず固まっていたが、その理由は先ほどまでとはまるで違った。


「…ウェイズ?」


もはや喘鳴が無ければ遺骸と見分けが付かぬほど傷ついたウェイズの姿が、彼の理解を強烈に拒んでいる。


「本当に強いのね。その強さの根源は、これなのかしら?」


バートの背後に、黒いドレスが揺れる。


「や…め…」


魔女は、いっそう穏やかな微笑みと、色の抜け落ちた視線をバートへ向けた。


「…ぁぁあああ!!!」


それは、魔女にとっても不意打ちであっただろう。

バートは突然、それまでの硬直が嘘であったかのように素早く身を捻った。

身体の回転を利用して勢いよく引き抜かれた剣が、魔女へと襲いかかる。

この世で最も大切な存在を傷つけられた、その怒りだけが恐怖に支配されていた彼の身体を動かしたのである。


そして、剣は地に落ちた。


バートの右腕がぐしゃりと嫌な音を立てて踏み付けられる。


「っぁあ!」


苦痛にバートの顔が歪んだ。


「今のは少し驚いたわ。でも、それは強さとはいえないわね。」


胸元の石が、きらりと光った。


「やめろぉおおお!」


絶叫とともに、ひしゃげた身体でウェイズが突っ込んでくる。

あらゆる関節から血を吹き出しながら、それでも彼女は止まらない。

自分の状態も、相手が誰かも関係のないことであった。

彼を害させはしない。

彼女にとっては、それだけが命よりも大切なただひとつの想いであった。


「素晴らしい。私は貴女を心から尊敬します。だから、敬意をもってきっちりと。」


「ぉぉぉあああ!」


ほとんど断末魔のような叫びを上げて、ウェイズは魔女に迫りーーー


そして、明緑の閃光がほとばしる。

消えぬ炎が彼女の身体を灰へと変えるのに、そう時間は掛からなかった。


「…ウェ…イズ?、あぇ?…ウェイ、え?…」


バートは状況を受け入れられず、しかし肉の焼けた嫌な匂いが、彼に動かしようのない現実を教えていた。


「あぁ、仕方のないことね。伝書鳩は諦めましょう。今ここで、2人一緒にしてあげないと可哀想だものね。」


それは魔女の慈悲であった。

彼らが森へと分け入った時点で、生きて帰す選択肢などなかったのである。

そうであれば、この場で2人とも葬ってやるというのが彼女なりの優しさであった。

ウェイズによって中断された作業を、再開する。

灰色の瞳がバートを覗き、そして直ぐに彼から意識が逸れた。


「…これは…厄介なのを呼び寄せてしまったようね。」


そう言った彼女は微笑を崩さず、しかしどこか今までとは雰囲気が違っているようであった。


「1度退いたほうがいいようね、不本意だけれど。」


言い終わる頃には、既に魔女の姿は消えていた。




バートはただ嗚咽していた。

今の彼には全てがどうでもよいことであった。

魔女が自分を殺そうとしていたことも、直前で自分の死が回避されたことも、彼にとっては何の意味も持たない。

ただ、どうにもならないと頭でわかっていながら、小さく積もった灰が散ってしまわないように、抱きしめるように、縋りつくように、必死に左腕で掻き集め、大事に胸に抱えた。



数分ほど、そうしていたであろうか。


「誰かいるのか!?」


薄暗い森に、男の声が響く。

男はバートの姿を見つけて駆け寄った。


「生存者がいたとは…」


男はここまでの道中で幾度も目にした灰の山をバートの傍に認めて、大方の事情を察した。


「右腕が折れているのか。すまない、私がもう少し早く来ていれば。」


バートは虚ろな目をゆっくりと男の方へ向けた。


「私はクレイ・スキンズ。このようなことを言えた立場ではないが、助けに来た。もう……大丈夫だ。」


英雄の言葉が、異様な静けさに包まれた森の中で空虚に響いた。






この日、南東諸国と聖教会の思惑によって森へと入った120名の兵士たちは、1名を除いて全員が行方不明となり、後に死亡と断定された。


クレイがバートを連れ帰ることができたのは、発見から半日以上が経過した後であった。

バートが彼女の元を決して離れなかったようとしなかったためである。

涙は枯れ、言葉を発することもなく、それでもただ頑なに、彼はその場を動かなかった。

いつまでも。


いつまでも。


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