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第10話 只人

靴音がひとつ、小さく響く。

日常から全ての所作が洗練されたエリシアにしては珍しいことであった。

不意の物音で旋律に終止線が引かれる。

ラピアは驚いてエリシアの方を振り向いた。


「すまない、邪魔をしてしまった。」


寝衣に身を包んでいるにも関わらず、ラピアの瞳に映るエリシアの立ち姿からは非人間的なまでに洗練された品格が漂っていた。


「も、申し訳…ございません。」


つい先ほどまで美しい音色を奏でていたのと同じ喉から出たとは思えないみっともない声で、ラピアは謝罪を述べる。


「何を謝ることがある?けいが自室でどう過ごそうと卿の自由だ。」


「…だ、だけど、お耳、汚しを…」


ラピアは完全に縮こまってしまって、今にも泣き出しそうな調子である。

エリシアはしばらくラピアをひたと見据えて立ち止まっていたが、ひとつ小さく息を吐くと彼女へと歩み寄った。


「…歌は、好きか?」


窓の外に広がる星空を見ながら呟くように言ったエリシアの横顔を、ラピアは美しいと思った。

しかし、食事の際に会った彼女とはどこか別人のような気がした。


「あ、あの…はい。」


「そうか。」


ラピアはエリシアが何を言いたいのかわからなかった。

困惑とともにエリシアの表情を見つめると、彼女は何か重大な決断をする前のように目を閉じて思案を巡らせている様子だった。


「自分のことが、嫌いか?」


それはラピアにとって最も恐ろしい指摘であった。

目を見開いて固まる彼女に、エリシアは答えを急かそうとはしなかった。

ラピアの小さな肩は弱々しく震え、俯くようにして首を縦に振る。

美しく聡明なエリシアはまるで天上の使者のようで、愚かで矮小な醜い自分を糾弾されているような深い絶望が、ラピアに降り注いだ。

そして使者の口が軽く開き、今まさに下等な虫けらに審判を告げる。


「…美しい、と思った。」


ラピアは耳を疑った。

浴びせられるはずだった侮蔑と嘲笑の代わりに鼓膜を揺らしたのは、まさにその言葉を体現するに相応しい者からの賛辞であった。

唖然として反応できないラピアに、エリシアはもう一度言葉を重ねる。


「卿の歌声は美しい。王宮の抱える楽団にも卿ほどの歌い手は見たことがない。」


「あ、や、その…でも…」


それは、ラピアが受け取ってはならない賛辞であった。

彼女には決して許されない望みであった。

なぜなら


「自分は出来損ない、か?」


それが彼女の根源であった。

拭いたくても拭えない、どこまでも残酷な現実。

世界でいちばん認められたい人に与えられた、死の烙印であった。


「剣が苦手か?弓が苦手か?馬術が苦手か?学問が苦手か?社交が苦手か?踊りが苦手か?作法が苦手か?」


自分の非をこれでもかと列挙され、しかしラピアはその全てを厳然たる事実として受け止める。


「…だから何だ?卿にはその歌声がある。それで十分だ、違うか?」


あまりにも甘美な囁き。

しかし、ラピアはそれに縋れない。

心の奥深くに焼き付いた烙印が、彼女に決して手を伸ばさせない。


「で、でも…歌は何にもお役に立たなくて、だから私は、私は…」


「シエルダ伯爵の娘として失格。」


エリシアの澄んだ声が、処刑宣告のようにラピアの胸を抉る。


「しかし、シエルダ伯爵の娘として理想的であることが卿の人生の全てなのか?」


違う、とは思えなかった。

それが世界の真理でないとわかっていても、ラピアにとっては全てだったから。


「卿に武芸は向かぬのだろう。あるいは血の滲む努力を重ねたところで、聖女でない卿には限界がある。学問も社交技術も、何にしても才能の壁というのはあるものだ。努力すれば必ずいつか報われると、必ずいつか父に認めてもらえると無責任に言うことはできない。」


幾度となく突き付けられてきた現実が、ラピアの心を深く沈めてゆく。


「だが、卿にしかできないこともある。」


静かに、しかし確かにエリシアの声に芯が通る。

ラピアは迷える咎人とがびとのように、僅かな光を求めて瞳を彷徨わせた。


「私にしか、できないこと?」


「そうだ。この世は弱者で溢れている。力なき者、病める者、貧しい者。どれもひどく矮小で、己が才覚のみで活路を拓くこと能わぬ弱者だ。何者にもなれぬ只人だ。ゆえに、彼らは強者に頼らざるを得ない。どれほどの屈辱であろう。どれほどの羞恥であろう。しかし自らと大切な者の命を、生活を守るために、彼らはその誇りや時に尊厳すらもかなぐり捨てて強者の足下に縋り付く。強きが弱きを守り導く、そう言えばなるほど聞こえはよいのかもしれない。だが、そうまでして彼らの縋る強者は、真に彼らを救うことはない。できないのだ。一時いっとき力を振るって危険を退けてやることは造作もないだろう。しかし、それが一体どれほどの救いになる?それで皆が前を向き、希望を持って明日を生きていけるようになるのか?否だ。そんなことはあり得ない。たとえ強者が弱者を真に思いやり、彼らの心を救おうとしても。なぜか?説得力がないからだ。才ある者が、貴い者が、富める者が遥か高みから言葉をかけたところで、彼らには憐憫にしか映らない。同じ底まで降りてくる気もない者が、どうして彼らの心に寄り添えよう。」


それは世界に対する糾弾か、あるいは無力な己への自嘲か、エリシアは苦々しそうに言葉を紡いだ。

すぅと息を吸い、今度は穏やかな、しかし力の込もった眼差しでラピアを見つめる。


「だがラピア、卿は違う。卿は只人だ。父の期待にすら満足に応えられぬ紛れもない弱者だ。だからこそ、卿の歌声は人々の胸を打つ。同じく弱く、同じく恥と憂いに満ちた生を送る卿だからこそ、持たざる者たちの今日を支え、明日の希望を与えてやることができる。卿の歌が、多くの弱者を救うのだ。これはどんなに高名な聖人にもできぬ、卿にしかできぬことだ。だからもう俯くな。前を向け。弱くともよい、醜くともよい、誰かに滑稽だと笑われようと構わない。それでも歌い続けろ。どんなことがあっても、救いを求める弱者がいる限り。」


陰鬱な日々を送ってきたラピアにとって、それは神の啓示のように響いた。

心が光を掴もうともがき始める。

烙印がずきりとうずいた。


「私の歌に、そんな、力は…」


「ある。」


「でも、だって」


「ある。必ずある。」


「どうして!」


ラピアは顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。

家格に恥じぬ淑女たろうと努めてきた。

死した兄の代わりになろうと足掻いてきた。

そして、諦めた。

父に見放された。

母は見て見ぬ振りをした。

愛されず、認められず、ただ静かな絶望の中で過ごした日々が、涙となって溢れ出る。


「なんで、貴女あなたにそんなことっ!」


「私も」


ラピアの時間が止まる。

エリシアの表情が変わったからだ。

どこが変わったかと言って説明できるほどの変化ではない。

笑っても泣いても怒ってもいない。

ただ、そこにいるのが王国第3王女にして傑赫七聖けっかしちせい第4席たる世界で最も尊い存在のひとりであることを疑いたくなるような、そんな表情であった。


「私も卿の歌声に胸を打たれた只人のひとりだからだ。」


そんな筈がない。

誰もがそう言うであろう。

しかし、ラピアにはわかった。

それで十分であった。

ラピアは泣き続けた、涙が枯れるまで。

エリシアは黙って傍に立ち続けた。

そうして泣き終わった時、彼女の瞳には確かに明日が映っていた。


「互いにそう夜更かしをするものではないな。」


そう言ってエリシアはラピアの部屋を出る。


「あ、あの!…ありがとう、ございました!」


懸命に声を張ったラピアの感謝を無言で受けたエリシアの背中は、既に完全無欠の聖女へと戻っていた。



エリシアが部屋を出ると、クロイスが廊下にもたれかかって待っていた。

結局後から付いてきたようである。


「珍しいですね。」


彼が何のことを言っているのか、問い返すまでもなかった。


「あの才能は特別だ。国力とは経済や軍事だけではない。あれほどの文化的才能を埋もれさせておくことは看過できない。ただそれだけのことだ。」


いつもの調子で語るエリシアにクロイスはまだ何か言いたげであったが、それ以上は無粋になると判断したのだろう、彼は僅かに口角を上げてみせただけだった。


「戻りましょうか。」


「ああ。」


壁掛けの燭台が薄く照らす廊下を、エリシアは黙々と歩く。

彼女の頭の中にはラピアの歌っていた旋律が流れていた。

クロイスに言ったことに一切の虚偽はない。

しかし、仮にそれ以外にも理由があるとすれば、その旋律がかつて()()のよく口ずさんでいたものだったからだろうか。

あの日失われたものを、無意識に希求していたのかもしれない。

その答えは、エリシア自身にもわからないことである。






エリシアの去った部屋で、ラピアは静かに窓の外を見つめる。


「私、歌があってよかった。貴女が教えてくれた歌が私を救ってくれた。ありがとう、ハンナさん。」


夜が更けていた。

次話よりいよいよ魔女討伐です。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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