僥倖
「あっ、あいつ、リュック忘れてる」
自分と鹿を元の姿に戻した寿老人は、赤ジャージのリュックを見てそう云いながら絨毯に腰を降ろした。
「あっ! ちょっ、ちょっとっ! 靴下脱がないで下さいっ!」
僕は靴下を脱ごうとする寿老人に思わず大声を出した。
「足には汗と菌が滅茶苦茶付着してるんですっ! だから、靴下脱がないで下さいっ!」
「嫌ですよ。暑苦しい」
「じゃあ、脱いでもいいので、シャワー浴びてからにして下さい」
「じゃあ、シャワー浴びるので、湯船にお湯溜めて下さい。シャワーだけだと寒いんで。ちゃんと湯船にお湯溜めてくれたら足も躰も念入りに洗う事を保証しますから。ちゃんとお湯溜めてくれる事がシャワーを浴びる条件です。お湯の温度は四十五度で」
暑苦しいやら寒いやら、この男は本当にわがままだ。
何が、ちゃんとだよ。
何が、条件だよ。
何が、四十五度だよ。
「お湯溜めてくれないと絶対シャワー浴びません。お風呂は湯船のお湯があってなんぼなんで。もう、お湯溜めてくれないと、こうですから」
「ちょっ、やめて下さいっ!」
素早く靴下を脱いだ足を絨毯に近付けながらにやっとした表情を向けた寿老人に、思わず叫んだ。
「はい、ごぉーおっ! よぉーんっ!」
「あぁっ! ちょっ、ちょっとっ!」
寿老人の素足が少しずつ絨毯に近付く。
「さぁーんっ! にぃーぃっ! うぃーちっ!」
「ぎゃあっ! わっ、解りましたっ! お湯っ! お湯溜めますからっ! 靴下履いて下さいっ!」
僕は浴室に急いだ。
思わずあの男に従ってしまった。
僕の方が条件を突き付ける側なのに。
僕が作家志望で相手が七福神でなければとっくに通報している。
そう思いながら、普段より二度高い四十五度に設定したお湯を湯船に出す。
浴室のバーに掛かったナイロンタオルと、脱衣場のラックに積み上げたバスタオル。
これ等は絶対に使われたくない。あの男が自分用に持って来ている可能性に賭けよう。
リビングに戻ると、寿老人はスタンバイOKとでも云う様に、リュックから取り出したらしい着替えを足に載せて待っていた。
「〝シャカシャカ〟ってあります?」
「〝シャカシャカ〟?」
「あの、躰洗う」
腕を擦る寿老人の動作に因って〝シャカシャカ〟がナイロンタオルを指しているらしい事が解った。
「えっ、あっ、はい。あの、バスタオルは」
「いや、持って来てないですよ。お借りするつもりだったんで」
想定内の期待外れの言葉が返って来た。
何か代用出来る物はないだろうか。納戸を開けて探す。
ナイロンタオルとバスタオルの代わり。
上段の日用品ゾーンを見回すと、トイレットペーパーとティッシュボックスの後ろに、いつ、誰から貰ったのか定かではなくなった粗品のタオルが数枚あるのが目に留まった。
よし、次は、ナイロンタオルだ。
あの男なら手にボディソープを付けて躰を洗っていそうだが、そうではないらしい。
下段の掃除グッズゾーンの隅に積み重ねている未使用の布巾を一枚取って拡げてみる。
流石にこれは駄目だ。
間違いなくこれはナイロンタオル代わりとして採用されないだろう。
やはりナイロンタオル代わりになる物はないのだろうかと、半ば諦めながら掃除グッズを掻き分けていると、しわしわのレジ袋越しに白とオレンジのボーダー柄が見え、一人暮らしを始めて間もない頃に祖母から届いた大量のアクリルたわしが奥に眠っていた事を思い出した。よし、出揃った。
「躰洗うのはこれで、躰拭くタオルはこれです」
「え、何ですか、それ」
アクリルたわしに目を丸くした寿老人に、「アクリルたわしです」と答えた。
「へぇー。ワクリンたわしかぁ」
寿老人は受け取りながら呟いた。
「え、これで躰洗うんですか?」
「そうです」と答え、寿老人が「ワクリンたわしねぇ。初めて聞いたなぁ。ワクリンたわし」などと呟きながらまじまじと眺めている時、念の為、ナイロンタオルとバスタオルを納戸に隠した。
「めぇ~がねの度ぉ~を変ぁ~えつぅ~まよぉ~りおぉ~前が好ぅ~きと気ぃ~付く晴ぁ~れぇ~た夏の~そ~ら~」
反響した寿老人の歌声が浴室から聞こえる。
「が~いは~んぼ~しのお~前と~痛ぅ~風ぅ~予ぉ~備軍のお~れが~並んで歩く木ぉ~漏れ日のぉ~れぇ~んがぁ~道ぃ~」
やたら声がでかい。
「雑誌に載ぉ~ているせぇ~いざうぅ~らないを見ぃ~ながぁ~らぁ~たぁ~そがれにぃ~ふとおまぁ~えをおぉ~もぉ~うぅ~」
寿老人はもう、一時間以上浴室で熱唱している。
「んも~ぉ腸やぁ~ってはぁ~くいすぅ~がたのお前のわぁ~らい顔見ぃ~てぇ~患う恋のぉ~やぁ~まいぃ~ナぁ~スコぉ~ルれぇ~んだして婦長におぉ~こられたぁ~うぅ~しみぃ~つ時ぃ~」
うるさいな。
「お前とドッジボールをしぃ~てぇ~はぁ~なぢが止ぉ~まらないぃ~夕ぅ~暮れぇ~かぁ~なぁ~」
いつまで入ってんだよ。
「やっぱスマホにしなきゃ駄目かなぁ」
青いチェック柄のパジャマ姿の寿老人は勝手に冷蔵庫から缶ビールを取り出し、呟きながら腰を下ろした。
「そんなにいいんですか? スマホってやつは」
「ええ、まぁ」
プルタブを開けながらCMを観て、「米倉涼子さんは綺麗だなぁ」と呟いた寿老人は、「あっ、そうだった。お前に云われなかったらまた飲んじゃうトコだったわ」と、ビールを口に入れようとしていた手を止めた。
「すみません、今、〝僥倖〟を送らせて戴きます」
ビールを飲む前に僕に〝僥倖〟を送るよう、鹿に促されたらしい。
〝僥倖〟とやらを与えられるとどうなるのだろう。
何が起こるのだろう。
好奇心と緊張が一気に込み上げる。
右の掌を見ながら「右手右手。〝僥倖〟は右手」と、力強い口調で自分に云い聞かせた寿老人は、それに左の指で文字を書いた。
「オンバザラユセイソワカッ!」
寿老人は筒にした右手の中に息を吹いた。
思わず閉じた瞼を開け、掌を見下ろす。
「ひっくっ!」
寿老人はしゃっくりをした。
「あの、僕は一体、どうなったんでしょうか」
僕は恐る恐る、寿老人に訊いた。
「ひっくっ! じゅ、ひっくっ! 寿命を、延ばさせて戴きました」
「寿命、です、か」
「ええ。寿命です。貴方の寿命を、十年延ばさせて戴きました」
「寿命、です、か……」
「えっ、不満ですか」
「いや、不満というか……」
「えっ、だって、寿命ですよ? 十年ですよ?」
「いや、でも、何か……」
「何ですか?」
「何か、実感がないというか、証拠がないというか……」
「証拠? 証拠ならありますよ? 千里眼で視れば寿命はすぐに解りますから。えっと、貴方の寿命はですねぇ……」
「あぁっ! 駄目駄目っ! 云っちゃ駄目ぇっ! 云っちゃ駄目ですっ! 絶対駄目ですっ! 自分の寿
命なんか絶対知りたくないですからっ! 絶対云わないで下さいっ!」
「えっ、あっ、はい」
寿老人はきょとんとした表情だ。
どんだけデリカシーがない男なんだ。
大体、寿命を云われてもそれが延びたという証拠にはならないし、ビフォーとアフターを比較出来なければ意味がないだろ。
「何か、思ってた感じと違ったなぁ。もっと喜ばれると思ってたんだけどなぁ」
寿老人はこめかみをぽりぽりと掻きながら呟いた。
「あの、さっきの方も、七福神なんですよね?」
「ええ、そうです。あっ、でも、あの、云わないで下さいね、誰にも。私の正体もあいつの正体も。七福神の存在を色んな人間さんに知られるとマズいというか……」
赤ジャージまで神様である事が僕に知られ、急に怖くなったらしい。
「なので、貴方が私達の正体を知っている事を、万が一、他の七福神に知られたらマズいというか……、貴方が私とあいつの話をしたとして……、その相手が実は七福神の誰かという可能性もありますしぃ」
「何ていう名前の神様なんですか」
「彼は、〝フクロクジュ〟っていう名前の神です。あの、ホント、云わないで下さいよっ、絶対、誰にも。私、あの、バレたらホントに」
「何の神様なんですか」
「いや、あの、ちがっ、違いますよ違います。七福神じゃないですから。違いすから。私もあいつも、七福神じゃないですから」
「お二人はどれくらいの頻度で会うんですか。他の七福神の方にも会ったりするんですか」
「ですから、七福神じゃないんですっ! 七福神じゃないですからっ! 違いますっ!」
寿老人は自分を黒ジャージの男に、鹿を亀の姿に変え、すぐに玄関に走った。
「えっ、いやっ、ちょっと」
寿老人は勢い良くドアを閉めて出て行った。
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