友達
熟睡していた感覚を覚える。あの男はまだ帰って来ていないのか。
まだ寝られそうな気がした僕は、再び瞼を閉じた。
インターホンの音で目が覚めた。時刻は十八時を過ぎていた。薄暗くなっていたリビングを歩き、玄関に向かう。ドアの外から、大きな笑い声が聞こえる。
「いやぁ、さっきの落書きの奴、どんな厄受けんだろうなっ!」
「んー、最新作のDVD借りたらそれを紛失して何日も見付からない、とか」
「だっはっはっ! 延滞料金すげぇ取られんなっ!」
魚眼レンズを覗くと、寿老人がいた。
そして、その隣には赤ジャージ姿でスキンヘッドの、同じく中年の男がいる。隣の男は誰なんだ……。
「あっ、開いてた」
ドアが開いた。
「あっ、ども」
赤ジャージは軽く一礼した。
「友達、連れて来ました。パトロール中に会ったもんで」
「お邪魔しまぁすっ!」
「ちょっ、ちょっと」
寿老人はリビングに上り、赤ジャージもそれに倣う。
「すごいですね、本の数」
赤ジャージがUber Eatsの配達員が背負っているリュックの様な四角く大きなそれを絨毯に置きながら、本棚を見て云った。
その時、僕は脳内で何かが破裂した様な感覚を覚えた。
「もう、出てって下さいっ!」
「ちょっ」
「おっと」
二人を玄関の外に押し込んだ僕は、寿老人のキャリーバッグも其処に放り投げ、勢い良くドアを閉めて施錠した。
「ちょっと、ちょっとぉっ!」
インターホンを何度も鳴らしたり、ドアを叩いたり、がちゃがちゃとドアノブを動かす。
借金取りかよ。
リビングに戻っても耳障りな声と音は止まない。再び、玄関に向かう。
寿老人が僕の名前を連呼している。
「ちょっと、もう、いい加減にして下さいよ、流石にっ!」
僕がドアを開けながら思わず声を荒げると、二人の男はびくっとなった。
「他人の家に勝手にくつろぐし、ビール何杯も飲んで酔っ払うし、ミルクレープも食べるし、ドラマの犯人勝手に云うし、勝手に一晩寝るし、勝手にもう一泊しようとするし、勝手に友達連れて来るしぃっ! そもそも貴方がこの家に泊まる事を許可してないのに何で友達連れて来るんですかっ! 何なんですか、もうっ! 少しは人の迷惑を考えたら、って云うか、常識を考えたらどうなんですかっ! もう、帰って下さいっ!」
「すみま、せん……」
寿老人と赤ジャージは解りやすく落胆しながら、踵を返す。
初めて人にブチ切れたが、意外にも効果は絶大だったらしい。
その時、思わず僕は玄関のドアを開け、走った。二人は想定よりもまだ近くにいた。
「あ、あのー……」
「は、はい」
二人は振り向く。
「やっぱ、どうぞ。ウチに」
それから空腹を訴えた寿老人が三人で飲みに行かないかと提案し、小説のネタの為に行くべきだと思い、リングにボールペンを掛けた小さなメモ帳を持って同行した。
二人は、店から真っ直ぐ帰る気がないのか、其々リビングにリュックを置いた。
「Bッ! 絶対Bッ! Bに決まってるっ!」
「いや、Aだろ、絶対っ! 絶対Aだねっ! 明らかにAだろっ!」
「霜降り見たら解んだろ、Bだ、Bッ! 一目瞭然だ、こんなもん」
「いや、絶対Aのやつが高級な肉だろっ! Bのなんかその辺のスーパーで売ってるやつだろ」
二人は個室のテレビに何やら白熱している。
赤ジャージも神様なのだろうか。
仮に神様ではないとしても、会った事のない他人の家に上がる程の変質者である上に〝神様の友達〟という肩書きを持ったこの男は小説のネタになるだろう。
と云うか、寿老人と友達になる人物など、同じく神様以外にいるのだろうか。この男も神様である可能性が高い。
「あの」
「Aだろっ! 絶対A絶対Aッ!」
「Bッ! Bッ! 絶対Bッ!」
「AAAッ!」
「BBBッ!」
二人の男は真剣な眼差しで画面を凝視している。
顔がアップになった女子アナに因って正解はCだと発表されると、揃って解りやすく落胆した。
「Cかよ、おいっ!」
「いや、Cはないと思ったわ」
女子アナが肉の解説をしている声は、悔しがっている二人の耳には一切入っていないらしい。
「あぁ、悪かった悪かったっ! 出すの忘れてた」
寿老人はそう云いながらポケットから亀(鹿)を取り出し、ジョッキの傍に置いた。
「あっ! 私もすっかり忘れてたっ!」
赤ジャージは、カブトムシをジョッキの傍に置いた。
カブトムシ。やはりこの男も、神様なのだろうか。
「いや、絶対Bだろ、Bッ! 絶対Bの方がいい肉だろっ! 何でCなんだよっ! あっ、次の問題いってるわ」
「あの」
再び二人に声を掛けた。
「今度はワインか」
「ワインは解んねぇわ。見ただけじゃ」
「あのー」
二人はテレビに釘付けだ。
「あのっ!」
びくっと肩を動かした二人の視線は僕の方に移った。
「ちゃんと、教えてくれませんか。あるんですよね? ホントの目的。いくら神様でも、事情も説明しないで赤の他人の家に寝泊まりするなんて、ただの変質者ですっ! だから、ちゃんと説明して下さいっ! 続いてるんですよね、優しさテスト」
思わず捲し立てた。
「解りました。事情を説明します」
寿老人が口を開いた直後、赤ジャージが「えっ!」と、大声を出した。
「貴方、今何て?」
「はい?」
どの時点から云い直せばいいのだろう。
「え、あの、『僕の家に泊まる理由は何ですか』と」
「いや、その後です」
「その後、ですか。えっと、『優しさテストはまだ続いてるんですか』って」
「いや、その前です」
「あの、とりあえず、要点はその二点なんですけど」
「いや、神様がどうのこうのって」
その時、「あっ」と、小さく声を発した寿老人の目はかなり泳いでいる気がした。神様ではない赤ジャージの前での神様発言はマズかったのか、それとも、この男の正体を僕が知っている事を同じく神様である赤ジャージに知られたのがマズいのか、どっちだろう。
「何でこの方、私達が七福神って事知ってんのっ!」
僕と寿老人を何度も交互に見ながら声を荒げた赤ジャージは、どうやら後者らしい。そして、この男は墓穴を掘った自分に気付いていないらしい。
「人間さんなの? 人間さんなんだよね、この人」
寿老人は下を向いたまま、「すまん」と云った。
「え、何、え、マジッ? マジで云っちゃたの?」
「すまん……」
赤ジャージはぴくっと眉間に皺を寄せた。
「人間さんに私達の正体バラすのって御法度でしょ」
「すまん……」
「滅茶苦茶御法度でしょ」
「すまん……」
「もう、超御法度でしょ」
「すまん……」
「てか、スーパー御法度でしょ」
「すまん……」
「え、何で云っちゃたわけぇ? ねぇ、何で云わなきゃいけなかったの。どうしても云わなきゃいけない状況って何だったの」
「え、いや、何か……」
「このとんまがぁっ! 何考えてんだ、お前はぁっ!」
「ちょっ、ちょっと……」
目の前で赤の他人が赤の他人に怒鳴っているという状況に困惑した僕は思わず云ったが、小説のネタの為にとりあえず引っ込んで少しこの様子を観察する事にした。
「お前さぁ! この際だから云うけどよぅ! 前に貸した本、勝手にルビ振ってんじゃねぇよっ! こないだ読み返してたらたまげたわっ! 大体、〝羞恥心〟くらい読めろやっ! お前が羞恥心持てっ! 蛍光ペンでアンダーライン引きやがってようっ! どれもこれも全然キーワードじゃねぇんだよっ! 〝バイトリーダー〟だの、〝ゴルゴンゾーラ〟だの、〝手当たり次第〟だの、アンダーライン引く意味が解んねぇよっ! しかも人の本にっ! ルビとアンダーラインだらけにしやがってようっ! あと、手汗で全ページよれよれで返って来たしようっ! ふざけんなっ!」
もう話変えんのかよ。
「訳解んねぇオリジナルの演歌歌うしっ! それから、うちでマリオカートやった時、お前コントローラー壊したろっ! Zボタンが沈んで戻んねぇんだよっ! お前、気合い入れ過ぎなんだよっ! 途中から全然アイテム使わねぇなと思ったわっ! あと、急に大人しくなったと思ったわっ! 完全に気付いた上で黙ってたろっ! 私がまだ観てないコナン映画の犯人云うしようっ! 毎回じゃねぇかよっ!」
自分が七福神である事を人間に云うのは、然程問題ではないのだろうか。
「助けてくれたんだよ。こいつが事故りそうになってるトコを」
寿老人は亀(鹿)を指差して云った。
「こいつが、事故りそうになったのか」
「ああ」
「で、助けてもらったのか」
「ああ」
「本当か」
「ああ」
「そうか。それならそうと早く云えよ」
「この女優って名前何だっけ」
寿老人はテレビを観て云った。
「んと……、何だっけ、あれ……、何だっけ、名前。何だっけなぁ……」
赤ジャージは寿老人に助け船を出す素振りが一切なく、黙々とあんかけ焼きそばを食べている。
赤ジャージは暫く咀嚼していた食べ物をごくんと飲み込み、口を開いた。
「話変わるけど、思い切ってスイッチ買ってみようと思ってんだよ」
話変えるのかよ。せめて何か一言くらい返してやれよ。
「スイッチ? 何の?」
「いや、ゲームだよ、ゲーム。ゲームのスイッチだよ。任天堂のやつだよ。スイッチだけ別売りしてねぇだろ、普通」
「あ、あのスイッチか。買えばいいじゃねぇか。ロクヨンからの飛び級が半端ないなっ!」
「まぁ、そうだなっ! 久々にあれは欲しいと思ったっ! で、話変わんねぇけど、最初は何のカセットにしようか迷ってるわけよ」
話変わらないならわざわざ云う必要がないだろ。
スマホで〝七福神〟とググり、様々なページを見てみる。赤ジャージは、一体、他の六人の中の誰なのだろう。
「思うんだけどよう、頭洗ってる時に後ろから視線感じる事ってよくあるよな。あれ何なんだろうな」
個人名をこの場に書くのは本人達の名誉の為に控えるが、「絶対最近顔イジったよなぁ」、「何であんな売れてるわけ? 魅力が解んねぇんだよ、全然。何が評価されてるわけ? 演技で売れてんの? 可愛いで売れてんの?」、「あの演技はマジでないよな。棒読みだし、やけに早口だし、いかにも台詞云ってます感満載だし、動きもぎこちないしよう」などと、二人が数人の女優の悪口で暫く盛り上がった後、赤ジャージは云った。
「解るわぁ」と、寿老人は返した。
「あと、ティッシュって一枚目滅茶苦茶取りにくいよな」
「解るわぁ」
「コンビニで可愛い店員がいるレジに並ぼうとしたら隣のレジにいるオバちゃんの店員に〝此方へどうぞー〟って云われる、みたいな」
赤ジャージが更にそう続けると、寿老人は「わぁっかるわぁー。何で俺だけに云うんだよって時あるよなっ!」と、返した。
「足の爪切ってたら切ったやつが何処行ったか解んなくなる、みたいな。で、忘れた頃に踏んで足に刺さる、みたいな」
「解る解る。洋服屋で話し掛けられたくない時に限って店員に話し掛けられる、とか」
「確かに。あと、テレビ観てて二つのチャンネルで同時に同じCMやってたら、何回も交互に観る、みたいな」
「映画館で端っこの席座ってたら隣の人に肘掛け取られる、とか」
何故かあるあるネタを披露し合う流れが始まったが、何れも割とベタなものだ。
「自販機で同時に二つのボタン押してみる、みたいな」
「横断歩道の白いトコだけ踏んで歩く、とか」
「カラオケで歌ってる時に店員が来たら声が小さくなる、みたいな」
「トイレットペーパーが縦半分切れてて何周か遅れてる、とか」
「冷やし中華をフーフーしちゃう、みたいな」
「ニトリに置いてあるベッドで熟睡しちゃって店員に起こされる、とか」
寿老人の言葉に、それはあるあるじゃないだろと思ったと同時に、この男ならやりかねないなと思った。
「散髪屋で顔剃ってもらってる時に限って面白い事思い出しちゃって笑いそうになる、みたいな」
「間違ってモスバーガーでスマイル注文しちゃう、とか」
「朝、乾布摩擦すると、ヨーグルトが食べたくなる、みたいな」
どんどんあるあるから遠ざかっているじゃないか。
「外で可愛い娘がティッシュ配りしてたらティッシュ貰った後適当に周り一周してはまた貰うっていうのを五、六回繰り返す、とか」
それもあるあるじゃないだろ。
「外歩いてて滅茶苦茶可愛い娘の後ろ姿だと思って追い越して振り返ってみたら大体ロン毛の男、みたいな」
それも絶対あるあるじゃない。
「ズワイガニ食ってると何故か口数増えてずっと喋ってる、とか」
口数が減るのはよく聞くが、何でむしろ口数が増えるんだよ。普通減るだろ。あと、何でズワイ限定なんだよ。
「コンビニの外で飼い主待ってる犬は大体ベルジアン・シェパード・ドッグ・グローネンダール、みたいな」
やたらと長い名前だが、犬種なのだろうか。何れにせよ、恐らくあるあるではない。
「期限切れの牛乳飲んだら滅茶苦茶腹壊す、とか」
それは当たり前だろ。
「じゃあ、そろそろお開きにしますか」
「うん。そうだな。じゃあ、割り勘でいいか」
赤ジャージがそう云うと、寿老人は「ごめん。私、家に財布忘れて来た」と返した。
赤ジャージを連れて来るなら財布を持って来るべきじゃないだろうか。
「ところで、此方の青年が鹿助けてくれたんだろ? 何の運あげたんだよ」
タクシーを探しながら帰り道を歩いていると、赤ジャージが僕に掌を向けながら寿老人に訊いた。
「それがよう、間違って〝厄〟あげちまって、慌てて解除してよう、あっ、九時過ぎてる。もういいんじゃないか」
「このとんまがぁっ!」
赤ジャージは再び寿老人に怒号を浴びせた。
「またか、お前はぁっ! またお前、あれだろ、酔っ払ってたんだろっ! 酔っ払ってる時に運あげんなって何回云わせたら気ぃ済むんだぁっ! 大体、いい加減スマホにしろよっ! 効率悪いんだよっ! 一人だけLINEじゃないからっ! こないだなんか夜中にお前からメール来て、何事かと思えば〝アドレス変更しました〟って、ふざけてんのかぁっ! 二時だぞ二時ぃ! 何でそんな時間にアドレス変えようと思ったんだよっ! 何きっかけだよっ! 非常識極まりねぇよっ! 大体、今時アドレス変えんのお前ぐらいだかんなっ! てか、そもそもメール寄越すのがお前ぐらいなんだよっ! 何の脈絡もない意味不明な絵文字使うしようっ! インド人みたいな人の顔のやつだの、なまはげだの、何かの星座のマークだの、モアイ像だの、トイレのマークだの、やたら出てくるけど全然文と関係ねぇんだよっ! 私がまだ観てないコナン映画の犯人云うしようっ!」
どうやらこの男は怒るとすぐに脱線する習性があるらしい。
「そんなんだから、アパートの大家のばぁちゃんに追い出されんだよっ!」
「ちげぇーよっ! 追い出されたんじゃなくて、出てったんだよっ! 自主的にっ!」
「そんなんどっちでもいいわっ! 大家のばぁちゃんと喧嘩して家がないって、七福神の恥だぞ、恥ぃっ! せめて、あいつみたいにホテル転々としろよっ! 七福神がネットカフェ難民って何かイメージ的に何か、あれだろ」
その時、黒電話の音が鳴った。やたら音量が大きいそれの正体は、赤ジャージがズボンのポケットから取り出したスマホらしい。
「やっばっ」
見開いた目が画面に照らされている。
「誰」
「だ、大黒天さん。今日、会うんだった……」
「あっちゃー」
赤ジャージは恐る恐るスマホを耳に当てた。
「申し訳ありませんすみませんごめんなさいっ! あの……、今タクシーでそっちに向かってるトコなんですっ! 何か、渋滞してるみたいでっ! すみま……、はいっ! すみ、はいっ! すっ……、はいっ! あっ、いや、決してそんな事はっ!」
電話の相手の怒号が赤ジャージのスマホから聞こえてくる。今の今まで人に説教をしていた男が逆の立場になっているのが、何だか面白いなと思った。
「あっ、タクシー!」
十数メートル先の角からタクシーが現れ、乗客がいないらしいそれに向かって赤ジャージが手を挙げた。
「あっ、いや、違いますっ! そうじゃなくて、何か、タクシー乗ってるって実感したというか……」
嘘のぼろが出てしまい、更に激しい怒号が聞こえた。
通話を切られたらしい赤ジャージの泣きそうな表情が街灯に照らされている。
「あっ、私、こういう者です」
赤ジャージは財布から取り出した名刺を僕に渡し、タクシーに乗った。
何故、このタイミングで渡したのだろう。
「じゃ、また」
タクシーは暗闇に消えていった。
溜口圭護。介護施設の所長らしい。
ブックマーク、評価、そして、拡散をお願い致します。