執筆
男のいびきがうるさい中、久し振りにパソコンを開き、昨夜の出来事を文字に起こした。
どうせこの事を誰かに話したところで信用出来る訳がない。
それに、そもそも話す相手がいない。
ならば、小説にしてしまおう。
そして何より、これはかなりいいネタだ。
タイトルはどうしよう。
保存して新たな白紙のページを開いて文字を大きくした。
【寿老人観察日記】
【あまりにも図々し過ぎる神様と出逢った話】
【柴犬を助けたある日、神様は突然家に来た】
【寿老人と名乗る男と、作家志望の僕】
【なかなか帰らない寿老人】
幾つかの案を出し、少し考え、とりあえずタイトルは保留する事にした。
それから、男が説教じみた愚痴を長々とこぼしていると、間違えて与えられたらしい〝厄〟とやらのせいで気絶した場面までを、一気に書いた。
この快感は、相当懐かしい。
「あの、すみません、おかわりあります?」
寿老人がマグカップを揺らしながら云った。
「あ、はい」
台所のコーヒーメーカーに設置された魔法瓶を取りに行き、寿老人が持っているマグカップにコーヒーを注ぐと、寿老人は再び大袈裟な音を立ててそれを啜りながら、野球解説者が選手のプレーを興奮した状態で称賛しているらしい情報番組に、視線を戻す。
「今度、同僚と飲みに行かないとなぁ」
寿老人は独り言風に呟いたが、同僚の事を〝同僚〟と呼んでいる訳がない。僕に何かしらのレスポンスを求めているのだろうか。その話に興味を持たなくてはならないのだろうか。結局僕は、何と云えばいいのか解らず、独り言とみなす事にした。
「あの」
「はい?」と、寿老人は僕の方を向きながら、マグカップを持つ手を止めた。
「もしかして、優しさテストって、まだ続いてます?」
「へ? 優しさテスト? 何ですか、それ」
酔っていて覚えていないのか。未だに帰る素振りがないのは、僕の優しさをテストしているのではなく、単にこの男本来の常軌を逸した図々しさらしい。
「あっ、いや、すみません、何でもないです」
寿老人はCMが流れているテレビを眺めながらコーヒーを啜り、「原田知世さんは綺麗だなぁ」と呟くと、「私ねぇ、好きな映画があるんです」と続けた。
「何だったっけなぁ、名前。思い出せないなぁ。あれって、何て名前の映画でしたっけ?」
解る訳ないだろ。
「あぁっ! 思い出したぁっ!」
CMが明けて女子アナが交通事故のニュースを伝えていると、寿老人は突然大声を出した。
「〝タイタニック〟だぁっ! いやぁ、すっきりぃ!」
原田知世は無関係だったらしい。
「〝タイタニック〟だ〝タイタニック〟ッ! 〝タイタニック〟ッ!」
寿老人は嬉しそうに連呼すると、それの感想を語り始めた。
独り言なのか僕に向けられているのか迷ったが、特に同調を求めて来なかったため、前者と判断し、引き続き反応しない事にした。
「あの、ちょっと、いいですか」
「はい。何ですか」
「ちょっと、云いにくい事なんですけど……」
「じゃあ、〝千里眼〟使いますね」
「あっ、はい」
寿老人は僕の胸の辺りを凝視し始めた。
常に人の心や遠くの出来事が解る訳ではなく、ONとOFFを切り替えられるらしい。
早く帰ってくれ。
強く、念じる。
「あれ、私、間違って厄あげちゃったんですか。あんまり覚えてないけど、その節は大ぃー変っ、失礼致しましたぁ。あっ、思い出したっ! 昨日間違って〝厄〟あげちゃったから慌てて〝解除〟したんだったぁ。〝解除〟っていうのは、間違って〝厄〟をあげちゃった場合に同じレベルの〝僥倖〟をあげると取り消しになるんですけど、確かに〝解除〟しただけだと結果的に変わらないですよね。ちなみに、〝僥倖〟をあげた後に同じレベルの〝厄〟をあげた場合も取り消しになります」
もう一度〝僥倖〟とやらをくれないとプラマイゼロになったままである事が少し引っ掛かってはいたが、そっちを読み取られたらしい。
いや、帰って欲しいという思いの方は無視した可能性もある。
「でも、二十四時間の間で同じ人物に運を与えられるのは二回までなんですよ」
寿老人はコーヒーを啜る。
「つまり昨日、私が貴方に間違ってあげた厄を解除した時間にならないと〝僥倖〟をあげられないんです。すみません」
「はっ、はぁ」
「あの」
「はい」
昨年のM-1グランプリで優勝したお笑いコンビが自分達のゆかりの街を女子アナと歩いている様子を眺めていた寿老人は僕の方を向いた。
「いつまで、いらっしゃるん、ですか」
僕は思い切って云った。
「あっ、昨夜酔い潰れて寝ちゃって、すみませんねぇ。こいつの迎えに来たつもりが、つい一泊しちゃいましたねぇ」
いや、だから、いつ帰るんだよ。寿老人は再びテレビに視線を戻す。
「私からも質問してもいいですか」
「あっ、はい」
「じゃあ、質問タイムって事で」
寿老人はそう云うと、腕を組んだ。
ブックマーク、評価、そして、拡散をお願い致します。