驚愕
「貴方、今、面倒臭くて嘘ついたでしょ」
全身が寒気に覆われた。
「あの…… 、どうして……、僕が犬を助けた事を知ってるんですかっ! どうして、この場所が解ったんですかっ! どうして、冷蔵庫にまだビールがある事とか、僕の名前、知ってるんですかっ!」
恐る恐るだが、思わず全ての疑問をぶつけると、男はふふっと笑った。
「じゃあ、云っちゃおうかな。全ての質問にお答えします」
緊張が走った。黙って、男を見る。
「どうして貴方がこの鹿を助けてくれ、あぁ! いやっ! 鹿じゃない鹿じゃないっ! 犬ですねっ! どうして貴方がこの犬を助けてくれた事を私は知っているのか。どうして、私はこの場所が解ったのか。どうして、私は冷蔵庫にまだビールがあるのを知っているのか。どうして、私は貴方の名前を知っているのか。それは全て、私が神だからです」
「はい?」
真面目に答えろよ。
「今、真面目に答えろよって思ったでしょ? でもね、ホントなんですよ。ホントにホントなんです」
やはりこの男は相当な変質者だ。
「信じてませんよね? ホントに神なんですよ、私。〝ジュロウジン〟っていう神なんです。あのー、ほら、七福神って聞いた事ありますよね? それの一人です」
僕がスウェットのズボンからスマホを取り出そうとすると、男は「あぁっ!ちょっ、ちょっとっ!」と、慌てながら立ち上がった。
「警察は勘弁して下さいよっ! あ、そうだっ! 証拠を見せましょう。私が神だという証拠。見てて下さい」
そう云った男は、柴犬の真上で手を激しく擦り始めた。
すると、数秒間そうした手の隙間から、白く濃い大量の煙が漂い出た。
「うわっ! えっ、ちょっ、なっ、煙ぃっ!」
煙は柴犬を完全に覆い隠した。
「えっ、えっ!」
ゆっくりと露になった姿に、言葉を失い、思わず尻餅を着いた。
「しっ、鹿っ! 鹿っ! 鹿ぁっ!」
信じられない。
だが、確かに鹿だ。
何故、鹿が此処にいる。
柴犬は、何処に消えたのだろうか。
まさかこの男は、柴犬を鹿の姿に変えたのだろうか。
「では、私も真の姿をお見せしましょう」
男はそれから今度は自分の頭で手を数秒間擦った。
すると、再びその手から漂い出た煙が、男を覆い隠した。
そして、ゆっくりと露になったのは、柴犬が鹿になったのと同様に、面影が一切ない姿だった。
うぐいす色の頭巾と束帯を身に着けた、一メートルもなさそうなかなり小さな躰。
真っ白な長い髭。
紐で巻物が吊るされた木の杖。
絶句したまま、老人と鹿を交互に見る。
「これで、私が神だと証明出来ましたかね」
この男は、僕が柴犬を助けた事や、この家の場所、そして、僕の名前を知っていた。
そして、柴犬と自分の姿を一瞬にして変えた。
確かに、神様でもなければそんな事はあり得ない。
だが、神様などあり得ない。
確かに、神様を絵に描いた様な見た目で、あり得ない程背が低く、あり得ない程頭が長いが、神様などあり得ない。
神様など、あり得ない。
神様など、絶対にあり得ない。
「我々、七福神は普段、人間さんに化けて生活しています。世を忍ぶ、仮の姿ってやつです」
男はあぐらをかきながら続ける。
「我々、七福神は六つの特殊能力を持っています。やたらと多いなって思いますよね? SF映画とかでも特殊能力って大体一人一つですもんね。まず一つ目の特殊能力は、自分や動物を他の姿に変えられる能力。二つ目は、人間さんに運を与える能力。半径十キロ範囲内にいる人間さんなら離れていても運を与える事が出来るのです。いい運を〝僥倖〟、悪い運を〝厄〟と呼んでいるんですけど、僥倖は神ごとに分野が異なっていて、寿老人である私は、家庭円満、延命長寿、身体健全、などです。で、三つ目は、〝千里眼〟です。〝千里眼〟とは、人間さんの心を視たり半径十キロ以内の出来事を感知出来る能力の事です。心を視れば、その人間さんがした良い事や悪い事が解るのです。あと、〝千里眼〟を使うと、その人間さんの名前が解るのです。四つ目は、不老不死。あと、我々は神ごとに異なる能力を持っています。私の場合、動物と話せる能力です。まぁ、他の六人と比べて私のが一番、神っぽいかと、個人的には思っています。あれ、あと何だったっけ? 六つ目は何だったっけなぁ。あれ、六つ目、何だっけなぁ…… 、六つ目。まぁ、いいや」
七福神。
寿老人。
変化。
特殊能力。
千里眼。
不老不死。
男の言葉が、頭の中にこびり付いている。
「そして、良い行いをした人間さんには僥倖を、悪い行いをした人間さんには厄を与えるのが、我々七福神の役目なのです。良い行いをした後に嬉しい事が起こったり、悪い行いをした後に嫌な事が起こったりするのは、もしかすると、何処かに潜んでいる、我々七福神の仕業かもしれませんよ。まぁ、勿論、必ずしもそうとは限らないですけど」
少し息苦しさを覚えた。
あまりにも非現実的過ぎる積み重なりに対する拒否反応だろうか。
「因みに私は普段、サラリーマンをやっています」
男は袖から一枚の名刺を出した腕を、僕の方に伸ばした。
茫然と冷蔵庫の前で立っていた僕は近付き、受け取る。
会社名と〝営業部 尾張 元〟の文字。
「〝オワリハジメ〟っていうのは、私が今使っている仮名です」
思わず名刺を凝視する。
「あと、此方にお邪魔してから貴方にちょっとしたテストをさせてもらっていました」
男は僕が持っていた名刺を取り、袖に戻しながら云った。名刺はくれる訳ではなかったら
しい。
「〝優しさテスト〟とでも云いましょうかね。実は貴方の優しさをテストさせてもらっていました。ずっと、私の事変な奴だと思ってたでしょ? あれ、全部嘘ですから。演技ですから。で、テストの、うるせぇよ、お前黙れよっ! いつもはあんなんじゃねぇだろ! 失敬。テストの結果、貴方は本当に優しい方だと判断したので、僥倖を送らせて戴きます」
男は左の掌を胸元に持っていき、それに文字を書く様に人差し指を動かしている。
「オンバザラユセイソワカッ!」
念仏か何かを唱え出した男は、筒にした左手の中に息を吹いた。
「今、〝僥倖〟を送らせて戴きました。指で掌に対象者のお名前と、運のランクを記すと、運を送る事が出来るのです。運のランクは、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸の十段階あって、貴方には〝辛レベル〟の〝僥倖〟を送らせて戴きました。左手に書くと〝僥倖〟で、右手だと〝厄〟が現れるのです」
いつの間にかこの男が神様だと認めている自分に気付いた。神様だと、認めざるを得ない。
「こないだ、電車降りてホームを歩いてたら、後ろからサラリーマンの方がものすごい必死に全力疾走して来たんですよ。五十代くらいでしたかね。そのサラリーマンの方を二人の女子高生が追い掛けていたんです。『待てー!』とか、『あの人、痴漢ですっ!』って云いながら。サラリーマンの方は痴漢なんかやってなくて、女子高生二人は示談金の為に冤罪を企んでる事が解ったんです。〝千里眼〟で。何とかしよう思っていたら幸いにもサラリーマンの方は逃げ切れたんです。で、その後、女子高生二人に丙クラスの〝厄〟をお見舞いしてやったら、一人はバイト中に立ちくらみがして、一人は恋人とのデート中に吐き気に見舞われたんです。まぁ、未遂なのでそれくらいにしといてやる事にしました」
男は捲し立てる。
「とは云え、ムカつきますよね。痴漢で訴えられて無罪勝ち取るのってものすごく難しいらしいですからね。他にもねぇ、店とかマンションの外壁に落書きしたり、人の家の花壇の花を切り裂いたり、駐輪場の自転車のタイヤをナイフでパンクさせたりする奴がいたんですよっ! そんな連中にはね、ゴールデンウィーク初日に盲腸にさせたり、好きな歌手のコンサートを観てる最中に腹痛にさせたり、バスケの試合中に目眩させてやったんですよっ! そういう連中はねぇ、腹立つ事があったり、むしゃくしゃしたら悪さするんですよっ! そういう連中が抱えてるストレスなんてねぇ、何百年って生きてる私からしたら全然大した事ないですからっ! そういう連中に限って大したストレス抱えてないですから。まぁ、仮に大したストレスだとしても悪さしていい権利なんか誰にもないんですけどねっ! もうね、こんなにストレス抱えてる自分は不幸だから、これくらい許されるだろって思ってんすよっ!」
男はどんどんヒートアップしていく。
「自分の周りにある幸せとか、自分が生きてる奇跡に気付いてないんですよっ! 私ね、そういう連中、大っ嫌いですよっ! 生きてる事がそもそも幸せな事だし、奇跡なんですよっ! だから理論上、不幸な人間なんて存在しないんですよっ! 大体、たかが何十年かしか生きてないくせに自分を解った気になってんじゃないよっ!たかが何十年でねぇ、自分の人生を決め付けるなって話ですよっ! もうね、自分だけ特別だって思ってんじゃねぇよって話ですよっ! あと、そういう連中って、悪さしてる自分、カッコいいとかって思ってるんですよっ! むしろダサい事ですからっ! 真面目に、精一杯に、一生懸命に生きている人の方がカッコいいに決まってますからっ! こないだだってねぇっ、電車降りたら、五十代くらいのサラリーマンの方がものすごい必死に走っていたんですよ。で、そのサラリーマンの方を二人の女子高生が、『待てー!』とか、『あの人、痴漢でーす!』って云いながら追い掛けていたんです。で、何か怪しいなと思って〝千里眼〟使ったら、サラリーマンの方は痴漢なんかやってないって事が解ったんですっ! 冤罪ですよ、冤ざぁいっ! それで、何とかしようと思ってたらサラリーマンの方は逃げ切れたんです。その後、女子高生二人に丙クラスの〝厄〟をお見舞いしてやったら、一人はバイト中に立ちくらみがして、一人は恋人とのデート中に吐き気に見舞われて―― 」
この男は酔っ払っているらしい。
男の話は、三周目に突入した。
その時、突然、胸が強く締め付けられる様な感覚を覚えた。
頭が重い。
強い吐き気がする。
右足、左足、右腕、左腕と、覆われていく様に痺れ出した。
気付くと、上体は倒れていた。
眼球と舌も痺れ出した。
躰も、口も、一切動かす事が出来ない。
モザイクが、視界を一気に覆った。
「ちょっ、ちょっとっ! 大丈夫ですかぁ!」
意識が遠退いていく。
「べくっしょいっ! だっくしゃいっ! ばぁくしゅっ! あっ! もしかしてっ! 逆だったっ! ごめんなさいっ! 逆だったっ! 左手は〝厄〟だったっ! 今、〝解除〟しますからっ!」
くしゃみをした男は慌てると、再びあの儀式をすると、瞬く間に体調が戻っていった。
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