制覇
翌日。
仕事からの帰り道を歩いていると、LINEが来た。
〝飲むに行きか〟という、大黒天からのものだった。
僅か六文字である上に、昨日僕に送った〝飲みに行くか〟というメッセージが予測変換に残っている筈にも関わらず二箇所の誤字があるが、また飲みに誘われたらしい。
何故、この男はブチ切れて帰った翌日に何事もなかったかの様に飲みに誘うのだろう。
いや、もしかすると、今度こそ説教をされるかもしれない。
そう過りつつも思わず承諾してしまった。
それから、最寄りの駅の二つ先のそれで待ち合わせ事になった。
十数分遅れて来た大黒天は、昨日と同様、店に行く前のパトロールを始めた。
どうやら、昨日の事には怒っていないらしい。
一切それには触れず、野球選手の駄目出しをしている。
忘れたのだろうか。
何か質問をしなくては。
話を国会議員の駄目出しにシフトさせ、「あんなの俺は議員と認めない」、「議員の資格がない」、「あんなのが議員でいいなら議員は誰でも出来る」などと云っている大黒天に、「お子さんはいらっしゃるんですか」と訊いてみた。
「子供? んー、もしかしたらもう生きてないかもな。最後に子供産まれたの、確か二〇〇年ぐらい前だからな」
「お子さんに運を与える能力や千里眼が遺伝する事はあるんですか」
「だぁっはっはっ! おめ、そんなの遺伝する訳ねぇじゃねぇかっ! だぁっはっは!」
その時、十数メートル向こうから近付く中年の女の右手からチワワが離れ、リードごと逃走した。
「ああっ! ちょっ、駄目ぇっ! すみません、捕まえて下さぁいっ!」
リードを引き摺ったチワワが向かって来る。
「おっ、ちょっ!」
両手を広げて腰を下げた態勢を取ると、チワワは車が行き交う車道の方に曲がった。
「ちょっ! 駄目ぇっ!」
飼い主らしい中年の女は、止まる気配のないチワワに向かって、何処の国の言葉か解らない妙な名前を必死で連呼している。
その時、大黒天がぼろぼろのシューズを履いた右足の爪先を、とんとんと、地面に落とした。
すると、目の前の光景に、言葉を失った。
「あっ、あれっ! 何でぇっ!」
女は何故か自分の右手に戻っていたリードと、それに繋がれたチワワを何度も交互に見ている。
一体、どういう事だ。
これが、大黒天の特殊能力なのか。
混乱した様子の女を思わず凝視しながら横切る。
「あの、今のは――」
「あっ、あったあった」
大黒天の視線の先には、古びた居酒屋がある。
「この店、こないだテレビで映ってたわけよ。隠れ家的名店特集みたいので」
大黒天はそう云いながら店に向かった。
「もう来てたのか」
店に入った大黒天がカウンターで一人飲みをしていた男に声を掛けると、白いポロシャツ姿のその男は、振り向きながらハンチングのつばをくいっと上げ、「おっ、早かったねぇ。もう終わったのかい」と、笑みを浮かべた。
人と待ち合わせてたんなら云えよ。
一瞬ムカついたが、この男が恵比寿の可能性がある。
隣の席に座って緑茶ハイを注文した大黒天に僕は倣った。
「どうなんだい、最近は」
ポロシャツは枝豆を摘みながら云った。
「しょっちゅう逢ってんだろ」と返した大黒天は、自分の前に置かれた緑茶ハイとお通しらしいオクラが載った一口サイズの冷奴を其々口に運んだ。
「云われてみれば、先週も逢ってねぇ」
この男は、七福神の最後の砦、恵比寿なのだろうか。
「あの此方は」と、隣の大黒天に小声で訊いたが、「何であそこで振るかね。スクイズしてたら勝てたのによ」という彼の某野球選手に対する愚痴に掻き消された。
「いやぁ、こないだの試合は惜しかったねぇ。アンティの人達は七人共キャッチング決めたけど、レイダーの人のキャントが何回も途切れちゃったもんねぇ」
ポロシャツがそう云うと大黒天は、「満塁の時に限って打てねぇんだよなぁ。バントも下手だし」と、再び某野球選手の愚痴を云った。
「こないだ出てたジャマーの女の人すごったなぁ。最初ゆっくりだったけど、どんどんスピード上げってって、相手のブロッカー、五人全員追い抜いちゃったもんなぁ」
大黒天は「あれじゃあ、今年はこのまま最下位確定だな。打てる奴はいねぇし、守れる奴はいねぇし、監督は見る目ねぇし」と、某野球チームの愚痴を云った。
「こないだノーズライディングした選手すごかったなぁ。ドロップインしちゃったけど」
ポロシャツは違うスポーツの話をしているのではないだろうか。
しかし、何のスポーツなのか、皆目見当がつかない。
「こないだコンビニ行ったら、店員の女性が珍しい苗字でねぇ」
ポロシャツは徳利をお猪口に傾けながらその苗字を云った。
「初めて聞く苗字だな。そんな苗字があったのか。どうやって書くんだよ」
「えっ、鉛筆じゃないかい?」
「いや、そういう事じゃねぇよ」
「でも、何だかんだでボールペンが多いか」
「ちげぇよ。漢字だよ漢字。どういう字なのかを訊いてんだよ」
「あっ、漢字ね」
「当たり前だろ」
「漢字は忘れた」
「何でだよ。逆に何で読み方は覚えてんだよ。てか、ちょっとは考えろよ」
その時、大黒天が足の爪先をとんとんと落とした瞬間、何故か彼は手に一本の焼き鳥を持っていた。
「あっ、私の焼き鳥っ!」
よく見ると、ポロシャツの前に置かれていた筈の焼き鳥が消えている。
「君、また時間止め—―」
「しっ!」と、大黒天は口の前で人差し指を立てた。
「あぁ、失敬。いや、失敬じゃないよ。失敬はそっちだよ。被害者だよ、こっちはぁ」
「まぁ、落ち着けよ。気持ちは解るけど」
「あぁたがやったんじゃないかぁ」
大黒天は大笑いすると、トイレに行った。
恵比寿かもしれない男と、二人になった。
ポロシャツは日本酒をくいっと飲んだ。
そして、僕の方を向いた。
「今日は、どれぐらい僥倖を送ったんです?」
「あっ、いえ、あの」
僕も七福神の一人だと勘違いしているらしい。
やはり普段、大黒天が人間を連れて歩く事はないのだろうか。
いや、それより、七福神の存在を知っているという事は、やはりこの男も七福神である可能性が高い。
「あっ、そうだ。名刺渡してなかった。一応渡しときますね」
ポロシャツは枝豆の傍に置かれたワニ革の長財布を開き、取り出した名刺を僕に渡した。
ボールペンで〝清掃員 江戸 武士〟という文字とその下に電話番号が書かれている。
「職業柄、名刺がなくて、あと、私パソコンが出来ないんで、こんな感じで悪いんですけど、私今、〝エドタケシ〟って名前なんです」
名刺をわざわざ手書きで作るというエキセントリックさがいかにも七福神だ。
「あの、恵比寿さん、なんですよね」
「勿論」
その言葉が、僕を達成感に包んだ。
この男はやはり、恵比寿だったのか。
この男が、七福神の最後の砦、恵比寿。
改めて緊張が走る。
「来週、神社の祭りやるらしいぞ」
トイレから戻って来た大黒天はそう云ってやみつきキャベツを箸で摘まんだ。
「来週かぁ。そう云えば、あれ食べたいんだよなぁ。あれ名前何だっけ。中のチーズがびよーんって伸びるやつ」
「ああ、ホットドッグみたいなやつか」
「いや、違う違う」
「いや、そうだろ。祭りの屋台にあってチーズが伸びるやつだろ? あのホットドッグみたいなやつだろ?」
「いやいや、ホットドッグみたいなやつじゃないよ。私見たのはパンに挟まってなかったもの」
「パン? いや、パンじゃねぇよ」
「えっ、パンじゃないの? ホットドッグみたいなのにパンじゃないの?」
「衣ついた串のやつだろ?」
「そうそう。私見たのも衣ついた串の、アメリカンドックみたいなやつ」
大黒天は少し間を置き、「そうか」と、野太い声を出した。
「でも、あぁたが云ってるのは何なんだろう。お祭りの屋台にあって、チーズが伸びて、ホットみたいだけどパンじゃなくて、衣ついた串のやつって。そんなのあったっけな」
「うっさいなぁっ!」
顔をしかめながら舌打ちをした大黒天は大声を出した。
「昔はそう云ってたんだよっ!」
「えっ、そうなの? じゃあ、アメリカンドッグがホットドッグで、ホットドッグがアメリカンドッグだったって事?」
これまで自分が云っていた〝アメリカンドッグ〟がホットドッグの誤りだと気付いたが、それを認めたくないらしい大黒天が清々しい程の逆ギレをしながら提供した明らかなガセ情報に、恵比寿は目を丸くした。
大黒天は財布から取り出した聖徳太子の肖像画が描かれた千円札をテーブルに叩き付け、席を立った。
またぞろマニアックな紙幣だ。
「ん? もう帰るのかい?」
大黒天の機嫌が悪くなった事にも気付いていないらしい恵比寿の問いに、返答はなかった。
「あっ、あぁたの連絡先教えてもらってもいいです? こないだスマホを川に水没させちゃって」
恵比寿は、店を出て行った大黒天を気にする素振りもなく云った。
まさか今日、恵比寿と連絡先を交換出来るとは。予想外の収穫だ。
ジーンズのポケットに手を入れた恵比寿は、取り出すのに苦戦している様子だ。
「あぁっ! またやっちゃたぁっ! 間違ってテレビのリモコン持って来ちゃったぁっ!」
電卓を握る恵比寿に、電話番号を書いた紙を渡した。
「私、この時間は毎日この店にいるんで、飲みたくなったらいつでも来て下さい。この店、私の行きつけなんです。今日から」
今日からかよ。行きつけでも何でもないじゃないか。
日本酒をもう一杯飲んだ恵比寿が「おあいそ」と云うと、店員が威勢のいい返事をした。
「あっ〝王様のブランチ〟、観ましたよ」
「そうですか。ありがとうございます」
店員にそれを云うと割引になるキャンペーンが実施されているから云った訳ではなく、ただの報告だったらしい。
それから恵比寿はポケットから取り出した茶色の折りたたみ財布を開いた。
「あの、現金って使えます?」
使えるだろ。
その時、恵比寿は突然、「あっ!」と、大声を出した。
「思い出したっ! チーズハッドグだっ!」
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