恐怖
「はい」
「あの、そちらで預かって戴いている鹿を迎えに参りました」
「鹿?」
相手は中年の男らしい。
「あっ、あぁ、いやいや、違う違う。じゃなくてじゃなくて、犬だっ! 犬だった、犬だったっ! 柴犬だった。間違いです。鹿じゃないです、犬です、すみません。犬です、犬ですっ! 間違えました、ごめんなさいっ!」
慌て過ぎだろ。てか、どんな間違いだよ。
待てよ…… 。何故、この男は此処に柴犬がいる事を知っているのだろう。
疑問が生じたのは、玄関の鍵を回してしまったのと同時だった。
不気味に思い、再び鍵を閉めようとしたが、それよりも先に勢い良くドアが開けられた。
そして、黒いニット帽と黒ジャージ姿の男が勢い良く入って来た。
「ちょっ、ちょっとっ! ちょっ、な、ちょっ、ちょっとぉっ!」
マズい。この恰好はマズい。完全に強盗や空き巣のイメージのそれだ。
アルピニストやバックパッカーが背負う様な大きなリュックを背負ったその男は、乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てると、玄関とリビングを隔てているドアを開けた。
其処に待ち構えていた柴犬が男を見上げている。
「お前、勝手に一人でどっか行くなっていっつも云ってんだろっ!お陰で気付かないでずっと一人で喋ってたじゃねぇかっ! 恥ずかしいじゃねぇかよっ! いつからいなくなってたんだよっ! タピオカミルクティーのくだりからかっ! それとも、あれか、ミストサウナのくだりからかっ! あと、車には気を付けろっていっつもいっつも云ってるだろっ! 『死ぬかと思ったぁ』じゃないよ、全くっ! 今度また勝手にどっか行ったら、ネットカフェとかに入る時だけじゃなくて、外出る時は毎回、亀にするからなっ!『亀は勘弁してくれぇ』じゃないよ、全くっ!それか、リード付けるぞ、リードッ! 今時いねぇよっ!リード付けないで歩いてる犬なんてよぉっ!」
男はそれから、僕の方を向いた。
「この度はうちの鹿を助けて戴いて本当にありがとうございましたっ! あっ、今、また鹿って云いました? 鹿じゃないです鹿じゃないですっ! ごめんなさい、また鹿って云っちゃったっ! 鹿じゃないですね、犬ですね。柴犬ですね。申し訳ございません。また間違えました。すみません」と、深々と頭を下げた男は再び大袈裟に慌てると、「すごいですねぇ、本の数」と、小説で埋まった本棚を見て云いながらリュックをフローリングの隅に置き、あぐらをかき始めた。
「あ、すみません、何か飲み物ありませんか。何か喉乾いちゃった」
この男、居座る気か。
「あの、出来れば、ビールとかがいいんですけど」
オーダーまでしてくるとは。
リビングの奥にある冷蔵庫を開けた時、背後からの声に度肝を抜かれたが、この変質者に対する防衛本能がそうさせたのか、思わず缶ビールを取り出し、渡した。
男は、一気に飲んだ缶ビールを潰した。
「あ、すみません、もう一杯」
僕が再び缶ビールを渡すと、男は再びそれを一気に飲み、潰した。
「それ、何ですか」
男はテーブルの上のミルクレープを見て云った。
「えっ…… 、ミルクレープ、ですけど…… 」
「美味しそうだなぁ。何か、お腹空いたなぁ…… 」
この男は一体、何者なんだ。恐怖が増していく。
「あの、申し訳ないんですけど、一口食べてもいいですか?ホントに、一口でいいので」
嫌な予感が的中してしまった。
「えっ、あっ、はい。全部、どうぞ…… 」
「いいんですか。じゃ、すみません、戴きます」
男はすぐにミルクレープを自分の方に引っ張り、フォークを刺したそれを口に入れた。
「んー! 美味いっ! 最高っ!」
何故、僕が柴犬を助けた事を知っているのだろう。
何故、この場所が解ったのだろう。
何故、居座っているのだろう。
男はミルクレープを次々と頬張る。
「ホントにお前は馬鹿だなっ! まぁ、確かに〝馬鹿〟って字には〝鹿〟って字が入ってるけどよぉ」
「はい?」
「いやいやいやいやっ! 失敬っ! こいつに云ってるんです。こいつです、こいつ」
突然の大声に思わず反応すると、男は慌てた様子で柴犬を指差した。
何なんだよ、この男。気味が悪い。
「何だよ、ホントの事じゃねぇかよ。何回云っても分からない馬鹿じゃねえかよ。あ、ビールもう一杯下さい」
再び僕が渡した缶ビールを一気に飲んで潰した男は、黙ってテレビを凝視し始めた。
「あれ、こないだのやつだ。再放送ですか、これ」
「いえ、録画です……」
「録画かぁ。面白いですよね、このドラマ。私、毎週観てますよ」
知らねぇよ。帰れよ。
「いやぁ、でも、まさか、この人が犯人だったとはなぁ。びっくりだったなぁ」
最悪だ。この男、犯人を云いやがった。
「あ、ビール、もう一杯いいですか」
まだ飲むのかよ。男は僕が再び渡した缶ビールを再び一気に飲み、潰した。
「すみません、もう一杯」
またかよ。
「檀れいさんは綺麗だなぁ」
テレビに映るCMを観て呟いた男は、五本目の缶ビールも一気に飲み、潰した。
云うな。
云うな。
もう云うな。
必死で念じる。
「あ、もう一杯戴けますか」
マジかよ。もう、何なんだよ、この男。いい加減帰ってくれよ。
「いや、もう、ないんですけど」
「えっ、冷蔵庫にまだあと三本ありますよね?」
真っ白になった頭の中には、男の言葉だけが残っている。
男の位置から冷蔵庫の中は死角の筈だが、確かに缶ビールは冷蔵庫にまだあと三本入っている。
それから男は、僕の苗字を呼んだ。
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