酒場
次の日の二十時過ぎ。
布袋が駅の改札口から現れた。
「すみません、遅れて。五十メートル毎にファンの娘から声掛けられちゃって」
昨日の衝撃に搔き消されていたこの男の面倒臭さを思い出した。
「私ね、すごく女性にモテるんですよー」
「は、はぁ」
「私のファンクラブ、全世界にありますから。ユーラシア大陸は五十二、だったかな。バチカン市国の成人女性の約八割は私のファンクラブの会員ですからね。もうね、付き合った事ない女性の方が珍しいぐらいですから。〝モテ男〟ってググったら私の画像出て来ますから。どんなにスクロールしても私の画像ばっかりですから。と云うか、私の画像しか出て来ませんから」
「は、はぁ」
怠い……。しんどい……。
「じゃあ、行きましょうか、早速」
布袋がそう云うと、パトロールが始まった。
「私ねぇ、今度映画の主演をするんですよ。タイトルは〝ローマの出勤日〟っていうんです。もう毎日、映画やらドラマやら舞台やらCMやらで大忙しで、あっ、しっ! 静かにっ!」
さっきから自分しか喋ってないだろ。
布袋は慌てた様子で角を曲がった。
それに倣うと、組まれている途中鉄筋コンクリートの前できょろきょろと辺りを見渡す布袋の後ろ姿があった。
数メートル向こうを歩いていたスーツ姿の若い男に、運を与えるのだろうか。
布袋は、街灯に照らされた仮設トイレに入った。
「オンマイタレイヤソワカッ!」
トイレから出て来た布袋は何やら眉間と顎に皺を寄せた表情だ。
「さっきのあの男、二、三ヶ月前に結婚したばっかりなのにもう不倫してんすよっ! もうって云うか、いつでも駄目なんだけど、不倫は。しかも相手は妊娠してんすよっ! 奥さんまだ妊娠しないのにっ! 普通、奥さんが先だろっ! まぁ、先でも後でも駄目だけどようっ! 不倫しないのが普通なんだけどようっ!」
不倫をしたあの男はどんな厄を与えられるのだろう。
布袋が三回くしゃみするのが楽しみだ。
「良かったら、酒場にでも行きません? もうちょっと行った所に私の掛かりつけがあるんで。って、行きつけだろってねっ! 病院かよってねっ! だっはっはっ!」
数十分のパトロールの後、そう云った布袋は車道沿いを少し歩き、タクシーに向かって手を上げた。
運転手に店の場所を伝えた布袋は、タクシーが動き出したと同時に「何か、車酔いしてきたなぁ。って、まだ走り出したばっかだろってねっ!」と云って笑い出した。
それから、「まつたけが獲れるのを、まつたけっ!」やら、「クラムチャウダーと比べちゃうんだぁっ!」やら、「四天王は何してんのーっ!」やら、何の脈絡のないダジャレを車内で連発し、その度に自ら大笑いする布袋に、しんどさを覚える。
髭を蓄えたオールバックのバーテンダーの背後を埋める無数のワインボトル。
カウンターテーブルに並ぶアロマキャンドル。
天井のあちこちに吊るされた裸電球。
煉瓦の壁。
此処がバーか。
ぼったくられるイメージの怖さ故に未知である、アンティーク調の薄暗い空間を、思わず見渡す。
ドラマに出てきそうだ。
「人生ってさぁ」
カウンターテーブルに肘を置いてゆっくりと口に傾けていたグラスを空にした布袋が、注文以来初めて言葉を発した。
「全部の試合に勝つ必要はないし、勝とうと思う必要もないと思うんだよねぇ。これだけは負けたくないと思える試合を見付けられたら、それだけで立派だと思うんだよなぁ。だから、人生で一試合でも勝てたら、その人生は勝ちなんじゃないかなぁ。自分自身が誇れると思ったら勝ちな訳よ。その誇れるものはさぁ、例えば、優しさとかでもいいと思うのよ。優しさって、何処でも通用する武器だからさ」
布袋は再びウィスキーを注文した。
その横顔は突然雰囲気が変わり、何処となく渋さの様なものが加わった様に見える。
「あとさぁ」
バーテンダーが布袋の前にウィスキーを置いた。
「辛い時期とか、憂鬱な時期とか、自分がいる状況にムカつく時期って、誰にでもある訳よ。その分いい事があると信じ続けてれば抜け出せるって仕組みなんじゃないかなぁ、世の中って。暗い場所から見た幸せって、何かでかく見えるけど、暗い場所を抜け出すと、ちょっとした幸せを幸せと感じられる、そんなもんなんじゃないかなぁと思うんだよねぇ」
布袋は持ったグラスを揺らして氷の音を鳴らすと、それをゆっくりと口に傾けた。
「でも、自分を変えられるのは、結局自分だけなんだよねぇ。自分が変わるのを待ってたって変われっこないんだよなぁ。自分を変える努力をしないと変われない訳よ。だから、成長した自分に気付けた時の達成感とか、面白い事を自分で見付けられた時の喜びが人生の醍醐味のなんじゃないかなぁ」
布袋はしみじみとした口調で云うと、再びグラスを口に傾けた。
冗談を云っては自ら大笑いしていた布袋とはまるで別人だ。
バーの雰囲気がそうさせているのだろうか。
「それからゴジラとも戦いましたよ。これはもう、凄まじい対決でしたよ。滅茶苦茶長期戦でしたから。で、何とか私が勝ったんです。ただ、誰も見てなくて映像がないから映画になってないんですよねぇ。だから、幻の戦いなんですよ、私とゴジラのオセロ対決。って、オセロかよってねっ! だっはっはっ!」
バーを出た途端、布袋はいつもの調子に戻った。
何とも不思議な特性だ。
その時、自ら課した大事なミッションが残っていたのを思い出した。
「あっ、タクシー来たっ!」
「あの、良かったら」という僕の声を搔き消した布袋はタクシーに乗り、「車酔いしちゃったっ! って、まだ走ってないだろってねっ! だっはっはっ!」と大笑いすると、駅の名前を運転手に告げた。
「あの、布袋さん」
運転手という第三者がいるためスマホに打った〝僕の家で布袋さんの真の姿を見せてもらえませんか〟という文章を布袋に見せた。
「ん、何ですか? 『僕の』――」
「あっ、声出さないで下さい。黙読で」
画面に表示された文字を目で追った布袋は、ズボンのポケットから取り出したスマホに文字を打ち、僕に見せた。
その画面には〝いやです〟と表示されている。
それは普通に云えばいいだろと思いながら「お願いします、何とか」と食い下がると、布袋は「じゃあ、そんなに云うなら。って、一回しか云ってないだろってねっ! だっはっはっ!」と、大笑いした。
とりあえず承諾を得られたらしい。
運転手に行き先を変更してほしい旨を伝えた布袋はその後も、「あの信号を右」やら、「あのスタンドを左」やら、あたかも自分の家かの様に詳しく説明していく。
それから、僕の自宅の近所にある公園が見えた頃、布袋は「何か船酔いしちゃったなぁ。って、船じゃねぇだろってねっ! だっはっはっ!」と大笑いし出した。
しんどい。
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