早すぎる憑依バレ② それぞれの誠実のかたち
「ナエさん、と呼んで構わないだろうか。その戸惑っていた齟齬というのは具体的には何に対してなのか、聞いても良いかな?」
「苗で構いません。わた……苗の生きていた国では、こちらの世界は創作物語の舞台だったんです。シュクルドリュージェ伯爵も伯爵夫人もセムラも、プラリネも、苗と苗の親友が大好きだった創作物語に出てくる登場人物でした。それで、伯爵と伯爵夫人は、苗の親友の両親に外見も性格も瓜二つなんです」
「齟齬の正体はそこなのね。ナエさんの実の両親の顔ではないどころか、前世の親友さんの両親にそっくりの外見をした私と夫がナエさんを娘と呼んだ。そしてその娘の名前はナエさんではなく、ナエさんにとって創作物語の登場人物と同じプラリネだった」
「その通りです。そしてプラリネは、物語に出てくる女性のなかで親友が一番好きだった登場人物でした。昨日の夜に声が出なかったのは、喉が腫れていたせいというよりも、二人の意識が異なり過ぎたせいで私の喉自体がどちらの意識の方を言葉にすればいいかわからなかったのかもしれないわ。『かつての世』で死んだ時の記憶はたしかに残っているので、プラリネの身体で目覚めたときにここが次の人生だということはだんだんわかりました。家具の家紋もインテリアも、『かつての世』で物語の設定資料集に載っていた絵のままだったから」
「経緯としてだけは、なんとか理解できた。だが、ナエさんの意識や思考までは、やはり私達には共感は難しいらしい。すまないね……」
「こんな内容をお父様とお母様に信じて頂けただけでも充分すぎます。あなたもよセムラ。ずっと私達の邪魔をしないように耐えてくれているでしょう。これもありがたくいただくわね」
伯爵と伯爵夫人が時間をかけて私の話をそれぞれの頭の中で整理するのを待ちながら、私は急がず焦らず淡々と説明を続けていく。長く話続けるうちに喉が乾いてきて、セムラが立ち上がりハーブティーを煎れてくれた。
カップから立ち上る香りは、お昼に飲んだローズヒップとハイビスカス。憑依後の苗にも馴染みのあるものを選んでくれたのだろう、自分こそこの状況に大いに戸惑っているはずなのにプラリネに対する態度と変わらぬ気遣いがありがたい。
何となく、三人の戸惑いの原因はわかっている。私が話している間、意識の主体がプラリネか苗かという境界線がさらに加速して曖昧になってきているのだ。それが私の言葉に如実に現れている。語尾も口癖も二人の特徴が混ざり合い、私と言うたびにその『私』がプラリネか苗かも、もはや私自身にも判断がつけにくいほどに絶えず変化し続けていく。
苗の記憶に残る現時点で蘇っている限りの「スイプリ」公式世界観設定の知識のみを、オタ活詳細を除いて打ち明けていく。説明はその後小一時間に及び、私も両親もセムラも生活や仕事とは全く異なる疲労感で満身創痍だ。フル稼働で酷使しきった脳にはやはり、淹れたてのローズヒップとハイビスカスティーの酸味がじんわりと沁み渡る。
「私からも、ナエ様にお聞きしてよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞセムラさん」
「ナエ様はプラリネ様に憑依する前は家庭教師を務めていらっしゃったとのことですが、ナエ様の第一言語であったというニホン語は、いったいどのような言語でしたか」
専属侍女と家庭教師を兼ねるほどに頭脳明晰なセムラでも、流石に色々ぶっとんだこれまでの話の内容は信じ切るにはファンタジーが過ぎるようだ。そちらの立場からすれば至極当然の反応であろう、むしろ信じてくれと責めるほうがおかしい。この際、私もとことん誠実を返そう。紙束とペンを持ってきてもらい、私はセムラの質問への回答兼ねて三人に図示と手本を交えた簡単な日本語レッスンを始めることにした。
動揺の余り部屋を飛び出していった時の記憶通りならば。恐らくセムラが憑依前のプラリネに教えた和国と和国語の知識は、言葉通り表面を掻い摘んでなぞる程度の紹介止まりであったはずだ。六歳のプラリネは『かつての世』で言うなら小学校一年生。幼稚園や保育園もしくは自宅での読み聞かせで親しんだ絵本に書かれていた平仮名の書き方と読み方を本格的に覚え始め、平仮名だけの短い話し言葉による文章筆記あたりからスタートする頃か。
公式設定本の記憶によれば、セムラは歴史だけは長い貧乏伯爵家の末娘。家督相続権皆無という自由度の極めて高い立場ながら、相続権が遠すぎる大家族ゆえに自由に使える個人の財産に絶望的に乏しかった。将来の結婚のための持参金を出せる余裕はもちろん婚姻に繋がる人脈がすぐ上の姉までで尽きてしまったと両親に頭を下げられ、奉公に出ることが決まる。いっそ人生初の旅行と考えた結果、共国地図では対角に位置するほど故郷から離れ馴染みのないディヴァンドワーズ州を選んだ。幼い頃から知識欲旺盛な性格ゆえに様々な分野の貴族教育と教養を年の離れた兄姉や親戚から受け続けてきたセムラは心機一転、現実生活に則した学問を求め、農耕・畜産・酪農を実践的に学べるシュクルドリュージェ領へ移住する。
風土や領民の気質との相性から、未婚の身でありながらも帰化を目標に即決。帰化条件消化のために、それまで培った教養や異なる州出身という立場そのものを生かすべく家庭教師業を開始。
ちょうどその頃、財政立て直しや国土復興の雑務に追われ延期通知を繰り返されていた領主シュクルドリュージェ家の伯爵昇格がようやく決定した。年頃の一人娘の教育係を選ぶそうだとの噂を聞きつけ自ら専属家庭教師として必死な営業を屋敷に通い詰めて繰り返した末に、豪語するだけある教養の圧倒的幅広さと熱意を伯爵に見込まれ就職。多すぎる親戚の児童達を面倒見ることの多かった家庭事情と給与の増額という面から住み込みの専属侍女まで兼任することになり、気付けば適齢期を過ぎ婚活も持参金事情もそっちのけでプラリネへの溺愛を加速させていく……
おっと、いけない。今は長すぎる回想を一旦さておき、にほ……和国語教室の開催だ。
「死ぬ前の私……苗は、この世界とは違う世界で和国語と同じ可能性のある言語を第一言語に使う国で生まれ育ちました。専門的に学ぶために大学に進学し、言語学を学び教授資格を取得したんです。日本という国名だったから、言語名もそのまま『日本語』。私への授業依頼で一番多かったのは、その日本語のなかでも文章構築の形で自己を表現する技術を求められる『作文』『小論文』。次に、現代文と異なる文法で書かれていた古い時代の書物の読解や文法知識を問う『古典』『漢文』。前置きはこれくらいにして、今から教えるのはこの分野全てに共通して多用される『漢字』です。まず日本語には三種類の文字があり、それぞれに役割があります。それぞれ平仮名、片仮名、漢字と呼ばれる文字を用途により組合わせて使う言語です。他には公用語のアルファベットを使い仮名と同じ読みになるよう応用するローマ字というものもあり、ある意味ではそのローマ字は四種類目の文字ともいえます。そちらはいったん置いておいて、今からは漢字の話をしますね。そもそも漢字とは……」
セムラの不憫極まるキャラクター設定を鑑みると、疑惑を完全に払拭するには初級レベルでは生ぬるい。有機物や言語対話能力のない生物までに限定した転送術の使用が許されている中級魔導師の資格を持つセムラの漢字や和国語の知識は昼の件からして、恐らくは日常会話の範囲を出ないうえにさほど流暢でもないはずだ。
床上机をセムラにセッティングされ、プラリネの記憶と経験のままにペン先をインク瓶に浸す。基礎である平仮名や片仮名をすっ飛ばしていくつかの漢字を紙に書くと、セムラはいよいよ悪くなり始めた顔色を隠しきれない。
苗の方の私は、本格的に三人へ日本語を教え始めた。この際、疑惑が晴れようが晴れまいが関係ない。唸れ私の前世カテキョー経験、漢字教室入門編のはじまりはじまり。
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事の発端である朝刊を併用し、漢字について部首・音読み・訓読み・熟字訓までの基礎知識を軽くさらったところで、私はレッスンを終えた。日本語・外国語どちらも半端にしか使えない帰国子女の生徒を教えることも多かった『かつての世』で家庭教師として人気だった自負はある。三人それぞれ反応は違うものの「何もかもがちんぷんかんぷんの白旗」ではないのが言葉を介さずとも充分に伝わってくる。
三人の様子を改めて一通り観察する限り、もう『六歳の愛娘がいつのまにここまでの和国語を学んだのか』と考えてはいない。『和国語を第一言語とし教授レベルまで知識を極めた別人格が娘の身体を借りて話した内容である』と認めるしかない、という戸惑いで荒れ狂う頭を落ち着かせるのに必死なことは明らかだ。
「セムラ、どうだ」
「私がお嬢様に和国語を紹介した際、和国語には『複数の文字がある』としか教えませんでした。文字が三種類、ある意味四種類とまではお伝えしておりません。それ以上突っ込んで興味を持たれると私では対応しきれないと判断してのことです。お嬢様がご自身の成長に合わせて知識を重ねていけるよう、図書館の中を週に一度巡り、全ての棚の中からまだ早いと判断できる書物には認識拒否魔法を重ね掛けしてきました。間違いありません、私達に漢字を教えて下さったのはプラリネ様ではなくナエ様です。プラリネ様のお身体の中にいま、プラリネ様とナエ様がいらっしゃいます」
身を乗り出すほど真剣に漢字レッスンを受けてくれていた三人は、ベッドの上の机に広がる紙を手に取る。書かれた内容を読み返しながらもう何回分逃がしたかわからない幸せに別れを告げ、お父様は空いた片手で口元を覆い項垂れるばかりだ。
「今この瞬間の君は、プラリネとナエさんのどちらだろうか」
「両方です。恐らくこのままだと、苗の享年と同じ二十六歳になった頃には、プラリネの身体には『教授資格レベルの和国語を生まれつき備え、かつ六歳から二十年の間に共通の身体で公用語もネイティブレベルに学んだバイリンガルの苗』と『生まれてから変わらず第一言語として公用語を使い続け、かつ六歳から二十年の間にネイティブレベルの和国語を身につけたバイリンガルのプラリネ』が共存しているということになります」
「かなり複雑だけれど、興味深いわね。つまり、ナエさんの意識と記憶から日常的に和国語に触れ続けていくうちに、身体の内側にいるプラリネも成長とともに公用語と和国語の両方を教授レベルに読み書きできるようになるということでしょう? 逆に、プラリネの意識と記憶と身体を介してこの世界で続く人生は、ナエさんの公用語のスキルを年齢相応の速度で上げていく」
「そしてこれからの人生経験は完全に漏れのない共通のもの。二人のアイデンティティの境界線が無に等しくなるのは時間の問題、そういうことなのだな」
「その通りです。公用語の呪文の絵より難しいと漢字に戸惑っているプラリネも、確かに難しい言語よねこんな大変なものにこの幼さで触れさせてごめんと思う苗も、どちらも全く同じ『私』です。なんだろう……トマトクリームっていうのかな。ひとつに混ざりあっている中間色のソースだけど食べたらトマトの味もクリームの濃厚さも両方の良さが両立してる、でも既にソースになってしまったので元のトマトと生クリームの状態には戻れない……みたいな感じ、です」
伝わるわけが無い。何せ本当にどう説明すればいいのかわからないのだこの感覚は。どちらかが目覚めている場合はどちらかが眠っている二重人格とは異なり、かといって争いの末に片方の精神をもう片方が屈服させ乗っ取っている訳でもない。
これだけ長い時間を苗の意識を主体としたままで『かつての世』の記憶の説明や漢字レッスンに費やせたのは、『かつての世』において二十年多く生きた分に比例して教養や人生経験を身につけた苗の自我の方がプラリネよりも強く確立しているからだろう。『彼女』がイタリアンで一番得意だったトマトクリームのパスタの記憶は、少しでも三人を納得させるのに役立ってくれていればいいのだが。
長く続く沈黙を切り裂いたのは、伯爵夫人の声だった。
「ナエさんは、この先どうしたいの?」
「私、ですか」
「あなたの前世での人生が波瀾万丈だったことは聞いたわ。ひどい両親の元に生まれ、適齢期の幸せ盛りに元お相手からの卑劣な裏切りから全てを失って。親友さんとその御家族の存在がなければあなたの心は間違いなく壊れてしまっていた。けれどこの『来世』は全く違うわ。あなたが望むならこのまま、前の世界で指針にしていた親友さんのように周りから当たり前に愛された人生をやり直せる。あなたはその権利を得たのよ」
「お前、何を……」
「ごめんなさい、あなたもセムラもお願いだから留まって。ナエさん、よく考えて。あなたが亡くなった後でも前世で人の営みは変わらず続いているはずでしょう。あなたを実の両親よりも慈しんで実の息子娘と同じく大切にしてくれた、親友さんの御家族の皆様もそう。あなたを娘さんの目覚めよりも前に亡くしたことをどれだけ悲しんでいらっしゃることか。そしてあなたの実のご両親が改心していたとしたら。あなた自身がこの来世で、今度こそ誰からも惜しみなく愛を注がれ尊重されることが当たり前な人生を送ることが彼らの救いになるのよ」
民のためなら時に家族の犠牲も厭わない。家族や自分のために民の犠牲を見過ごす。そのどちらも『貴族』のあり方だ。下々の領民は領主のあり方を受け入れその中で人生をやりくりしていくだけだ、住んでいるその土地こそが領主からの借り物なのだから。
家名の誇りを汚さぬよう決して後者を選ぶまいと揺るぎない決意が伯爵夫人から伝わってくる。清濁併せ呑む役割を決して民の誰にも背負わせないという前者貴族の誇りを、いち母親として愛娘の精神を失う恐怖よりも優先してくれている。娘の身体を借りている精神だけの存在でしかない保志野 苗を、一人の領民として受け入れてくれているということだ。
「私は母親という責任の重さを知る一人の女して、『かつて一人の娘であった』ナエさんの前世の無念をこのまま見過ごしたくはないの」
「奥様……」
「リーネは充分に強くて心優しい子に育ったわ。私がこのままどちらか片方のために片方を一方的に諦めたら、その選択に苦しむ未来自体をリーネはきっと悲しむはずよ。領政が豊かになるために助けてもらい税を徴収する代わりに、誰一人としてこぼさず幸福な人生を送ってもらうために生涯をかけて尽力する。それが領主であり貴族である私たちの役目の本質でしょう。ナエさんはシュクルドリュージェの民よ、ただ前世の記憶ごと引越してきた先がプラリネの身体だっただけ。ナエさんにはナエさんの新しい人生をナエさん自身の望みで選ぶ権利がある、そうでしょう?」
最愛の夫にこれ以上葛藤を負わせないよう、自分たちよりも長くプラリネの傍に仕え続けてきたセムラが寂しさの落とし所を失い苦しむことのないよう、二人の憤りの矛先に自分を据えようとしているのだ。
これが『誠実』だ。『かつての私』が親友とその御家族から受けた愛と同じものを軸に据えたうえで更に強く鍛錬し磨き上げられた、何にも変え難く尊いもの。その尊さを保つためにたいへんな自制心を伴う、儚さも脆さも許されない、厳しくもあり何よりも強いもの。
「こんなに長い時間、私達に向き合ってくれてありがとう。もう寝ましょう。明日一日、夫と私は今日と明日の分の仕事を果たさなければならないの。どうせ勉強もお医者様に止められているのだし、ゆっくりと休むべきだわ。あなたもよセムラ。こんな時でもなければ休もうとしないでしょう。他の侍女達が食事時以外に全然話せないと寂しがっているし、たまには街に降りて一緒に遊んできなさいな。ナエさん、リーネ、明後日のディナーに五人で会いましょう。これからどうしていきたいか、ゆっくり考えてちょうだい」
伯爵夫人は私の手をもう一度握る。愛娘を失うかも知れないというこんな時にまで、彼女の手は何一つ葛藤を見せまいと揺るぎなくあたたかい。まだ落ち着けていないのが当然なのに、伯爵も最後まで私の憑依に何一つの八つ当たりもせず、伯爵夫人の手が離れてすぐの私の手を包み込むように握ってくれた。
子供の身体に酷を極める深夜、意識しないように耐えていた抗えない眠気で瞼が降り始める。セムラが慣れた様子で私の肩を抱き支え、ゆっくりと枕へと傾けてくれる。プラリネの記憶と何一つ違わない優しく穏やかな所作に泣きたくなった。大切なお嬢様の身体に入り込んだ邪魔者と私を責めることなく、プラリネの記憶そのままの穏やかな笑顔でおやすみなさいませと私の肩まで布団をかけて一礼し、伯爵夫妻の後をついて部屋を出ていく。
三人の足音が遠ざかり、聞こえなくなる。
静寂にあって、誰の金切り声も泣き声も聞こえてこないまま。私の意識はゆっくりと眠りの世界に落ちた。