憑依翌日にして最大のやらかし① ライバル令嬢実家のおさらい
「スイプリ」と「かつての世」の記憶を記述し続けた私が疲れを感じた頃合いめがけ、ノック音が室内に響いた。内容が内容だけにノートを閉じてデスクの棚に立て掛け、家紋の周りに赤・青・黄色の小さな魔法石が装飾を兼ねて飾られたベルを一度鳴らす。入室の際のベルは一度鳴らせば可、二度鳴らせば不可。
私の返事を待って静かに入室してきたセムラは、普段通りにハーブティーとティーフードが用意されたワゴンを運び入れた。
「顔色が良くなりましたね」
「セムラやみんなのお陰よ。それと、お母様とお父様が選んで下さったお土産も」
「ええ、とてもお似合いでございます。中庭の薔薇と同じドレスがプラリネお嬢様のお肌をより美しく引き立てておりますわ」
「今の世」の私の記憶に違わぬセムラのべた褒めは、「かつての世」の記憶の私からすると何とも気恥ずかしい。そんなことないわと自身の容姿を謙遜することは貴族のマナーとして相手の審美眼を否定する無礼にあたるため、憑依する前のプラリネの記憶通りにありがとうと素直に答えた。
……実際にこのプラリネが美人なのだから仕方がないのだ。プラリネに憑依してしまったからには、プラリネ自身がこれまでに学んだ知識を決して無駄にしたくはない。うまく子供らしく笑えていたのならいいのだが。
「厨房番一同、お嬢様の好物に腕を奮っておりますわ。下段から白パンに黒オリーブとローストビーフのサンドイッチ、押し麦パンに豆ペーストと甘塩漬け卵黄のサンドイッチ。中段はピスタチオのタルト、干し山葡萄の蜂蜜漬けとチーズのクランブル、茄子ジャムのマーブルバターケーキ。上段は旦那様のお土産の棗とオレンジピールがぎっしり詰まったクッキーにパプリカのケークサレ、奥様が仕込んでいらっしゃった薔薇の砂糖漬け。本日のハーブティーはローズヒップとハイビスカスのブレンドです」
伯爵家といえど決して華美な贅沢を好んでいる訳ではないシュクルドリュージェ家は、記念日や州と共国の祝日でもない限りそれほど華やかなご馳走を口にはしない。普段の食生活は『かつての世』の実家を思わせる質素さだ。
しかしながら、決して貧しい訳では無い。自分の家の貯蔵庫よりも領民のために尽くした末の昇格という自負からくる余計な贅沢のない食生活だ。
土の黄色を王家の象徴色に持つディヴァンドワーズ州の中でも、我がシュクルドリュージェ家の治める領地は広大で肥沃な土質から州の農耕と畜産の大部分を担っている。州内だけでなく隣合う州を飢えから守るべく食料供給量で多大に貢献した功績を認められ戦後に男爵から昇格したため、伯爵家としての歴史自体は極めて浅い。領内から州、ひいては共国の万が一の事態が今後いつまた起こっても良いようにと農耕・畜産のほかには長期保管可能な加工食品の開発製造を主に自領を治めるシュクルドリュージェ家は、絢爛豪華の象徴のはずの中流貴族らしからぬモットー「模範たる倹約」を掲げている。
そんな我が家において、普段のアフタヌーンティーはそもそも三皿ですらない。サンドイッチもケーキも焼き菓子も一種類ずつ、皿洗いの手間すら惜しむべく一枚の大皿に寄せ盛りのワンプレートスタイルが常だ。その上クロテッドクリームとジャムをたっぷり添えるスコーンは週末のみのお楽しみ。品数が少ない代わりに充分な量こそあるものの、素朴なケーキの場合は一度に大量に焼いたものが数日続くことだって珍しくはない。そして一日二食の食事とその間を補うアフタヌーンティーは、伯爵家の一族も使用人も全員が同じものを食べている。他の州や領地の貴族とは異なり自分の家の畑や畜舎を兼業している使用人を多くシフト制で雇っている事情から、厨房番の負担を少しでも減らすためだ。伯爵家自体も自給自足補助目的で耕す私有の畑と畜舎の責任者として、洒落たコース料理形式の食事を摂る時間を惜しむほどに日々多忙を極めているという現状もある。
それが今日のアフタヌーンティーはこの華やかさ。加えてセムラがワゴン下段に設置された小型の炎魔法温蔵庫から別皿を取り出す。焼き立てのままで保たれていた大人の握り拳ほどのスコーン二つが三段のケーキスタンドの傍に置かれ、クロテッドクリームと山葡萄のジャム、ナッツの蜂蜜漬けを仕切りそれぞれに盛った小皿までもが隣に並ぶ。品数が多いアフタヌーンティーセットは先月、厨房番の一人の誕生日以来だ。
「こんなに贅沢に慣れたら、来週から寂しくなってしまいそうだわ」
「お嬢様の回復祝いと御屋敷全員の身体のためですから。お医者様のご助言ゆえでもありますので、今週一週間はいっそ開き直って貴族らしいご馳走を満喫いたしましょう。良いニュースもございます、来週からはスコーンが週二回に増えるそうですよ」
「本当? わかった、第二チーズ工場の設立許可がやっと降りたのね!」
「左様でございます。その他、領内の四大ジャム工房は全て倍の敷地に拡大しての大型改築工事が来月から始まります。従来の王家御用達のジャムのほか、シロップ漬け瓶詰めのラインも新設するとのことです」
「乳製品の加工工場にずっと遅れを取っていたものね、やっと婦人会の皆の努力が実るわ……! 雇用も増やせるし、スラム街の規模も縮小していけるはずよ。良かった!」
「嬉しいお話はまずはお召し上がりになってからに致しましょう、せっかくのスコーンが冷めてしまいます」
セムラが白胡麻のスコーンを半分に割り、クロテッドクリームと蜂蜜をたっぷり塗りつけ取り皿に置いてくれた。ひとくち噛み締めればバターと擦り胡麻の香ばしい香りが鼻へ抜け、さっくりほろほろのスコーン生地が濃厚なクリームと蜂蜜に混ざり合い口の中でゆっくりとろけていく。
高熱でうなされる数日間ほとんど何も食べられなかったが故の空腹には、病み上がりを考慮してのパン粥と柔らかいフルーツだけの朝食では到底足りなかったのだ。表情に出さずに務めていたつもりだったが、長く傍に仕えるセムラには気付かれていたのだろう。貴族の模範を考えれば大口でかぶりつくなどもってのほかと承知の上だが、私の家庭教師を兼任しているはずのセムラは視線を逸らし穏やかに微笑む。
人格者の両親に恵まれているとはいえ、貴族としてのしきたりゆえのストレスや教育の疲れに沈むときはどうしたってあるものだ。セムラはいつも、そんな時のプラリネの傍から離れないながらもそっと目を閉じるか逸らしてくれる。歴史の長い伯爵家出身の末娘でありながら新興伯爵であるシュクルドリュージェ家を見下すことなく、侍女であり教育者でもある心穏やかな彼女はいつも、プラリネのどうしようもない不調の時にだけ静かに甘やかしてくれるのだ。
ひと口またひと口と食べ進めているはずなのに満たされないお腹は、絶食直後だけある苦痛を代弁するかのように大きな音を立てた。流石にセムラも吹き出すが、やはりからかいや嘲笑の様子ではなく、微笑ましいと言わんばかりの温かさだ。ゲームの公式設定本に一ページだけ載っていたプロフィールで知っていたつもりのセムラの面倒見の良さと優しさは、こうして実際に仕えられることでより親近感を感じさせる。
『かつての世』で職場の同僚達から受けた嘲笑の記憶に、静かに蓋をしよう。私はもう、かつての私からかけ離れた新しい人生を歩んでしまっている。『彼女』の両親に瓜二つの新しい両親、その両親に似て快活で嫌味のない人ばかりが集まるお屋敷の使用人たち、そしてセムラ。この世界で、私は『彼女』が私を大切に思ってくれたように私自身を好きになれるのかもしれない。
『彼女』の居場所を奪ってしまった何とも言えないモヤのかかる罪悪感はきっと、私自身の弱さからくるものだ。もう人の優しさをはなから疑って自分で作った壁の高さに勝手に疲れるような自滅に等しい生き方はしたくない。失う恐怖の記憶に縛られて心身を病むのは嫌だ。せっかくの第二の人生を、私も『彼女』のようになりたい。『彼女』がかつて褒めてくれた私の長所を疑うことなく、自分自身で心から認めたい。胸を張って「私は私よ」と誇れる自分になりたい。
「いいのですよプラリネお嬢様、旦那様も奥様もいらっしゃいません。こんな時くらい、何も気にせずに思いきり頬張ってしまっても罰は当たりませんわ」
「いいの。甘えてばかりでは社交界でいつ隙を作ってしまってもおかしくないわ。こんな時だからこそちゃんと上品に食べなきゃね」
「……お嬢様、まだお身体がお辛いでしょう」
「そこまで無理に我慢している訳じゃないの。セムラの教育への感謝は、身につけた姿でしか示していけないでしょう。大丈夫よ、ひどい高熱で苦しかっただけ。時々思い出すのが遅れることはあるけど、セムラの教えは、少なくともティータイムのマナーはちゃんと覚えてる。大丈夫よ」
本当は、セムラの言ってくれたように大口開けてこのご馳走を頬張りたい。けれどもここは厳格な階級社会における貴族の家で、私はその長女。妹か弟が生まれない限り家督相続権はまだ私だけ。幼い時期からこそ、日頃から徹底的に身につけておかなければこの先の社交界で必ず綻びが出る。我が家を揶揄の意味で「固結び」と嘲笑う心無い貴族は決してゼロではないのだから。
『かつての世』ならばひと口で終わる小さなサンドイッチの一切れを取り皿に乗せ、更に四等分に切り分けて口に運ぶ。音が鳴らないように何度も噛み締めて飲み込み、お茶で口を潤す。ティーカップの持ち手に指を通してはいけない、力を込めているように見えないように持ち上げる。立ち上る湯気の香りを音がしないようゆっくりと吸い、香りの癒し成分を時間をかけて鼻で味わう。カトラリーは音を立てず慎重に動かす。決して空腹を悟られぬよう、のんびりではなくゆったり、焦りではなく優雅に。
どこに入ったか分からない時間ばかりが過ぎるもどかしい食べ方はかえって胃に辛いけれど、胸の奥はなんだか温かい。家族を守りたいと思えるのは初めてだ、こんなにも胸が温かくなる気持ちだったのね。自分の失態ひとつで誰かの悪意を誘うことが、運が悪ければ大切な家族や隣人、親友の心と誇りを巡り巡って傷付ける悪評になるかもしれない。礼儀と教養は自分だけでなく愛する人を愛している証拠として身につけるものなのね。
誰も傷付けない言葉を選んで、誰にでも変わらない笑顔で無償の優しさを惜しみなく振り撒き続けていられた『彼女』の芯の正体に、少しだけ近付けた気がする。この小さすぎるサンドイッチの欠片をゆっくりと減らしていく作業にも等しい時間が、大切な存在を想うだけでこんなにも愛おしく誇らしいと感じられるなんて。
一切れ目のサンドイッチが無くなる頃に静かに鼻を啜る音が聞こえ、振り向いた。セムラが少し俯き、ハンカチを目元に押し当てている。
「大袈裟だわセムラ、私だって甘える時はちゃんと甘えてるじゃない。お父様とお母様が帰ってきてあんなに泣いてしまったのは、それまでずっとセムラが手を握っていてくれたからよ。休まなきゃいけないセムラに何日も無理させてしまったもの。あんなわがまま、甘えでなければ何というの」
「あれがわがままに入るというなら、お嬢様以外の同世代の貴族子女方は全員躾のなっていない畜生ですよ」
泣き止んだセムラは次のサンドイッチを取り分ける。あまり頑なに礼儀を貫いて彼女の心労が増えるのは本末転倒と、カトラリーに伸ばそうとしていた手でサンドイッチを直接掴んで大きくひとくち齧りとった。厚めに塗られた豆のペーストと、砂糖と塩を混ぜた床に数日漬け込んだ卵黄の削ぎ切りは食感の違いが楽しい。噛めば噛むほどに卵黄の旨味が口の中に広がり、アクセントの押し麦のおかげで満足度が高い。
たくさんの卵黄を使えばそれだけ卵白が余るはずだ。明日のアフタヌーンティーにメレンゲの菓子があるか、それとも今夜のメインディッシュに塩釜焼きか。セムラとティーセットの一品一品についても織り交ぜて話しながら味わうティータイムは穏やかで楽しい。『かつての世』で家庭教師業が軌道に乗るまで長く務めた洋食バルでのアルバイト経験がこんな形で生きるのが嬉しくて、つい話が弾んでしまった。
余った卵白の行方についてひとしきり語り明かしたのち、喉が乾いてハーブティーを傾けた。
酸味が強い組み合わせのお茶は、かれこれ長時間に渡ってしまった書き物の疲れが取れるようにセムラ自ら配慮してくれたのだと思う。プラリネの記憶がセムラの人となりを少しずつ教えてくれる。忠義に厚く、その忠義からくる気遣いのすべてを決してひけらかすことがない。名の知れた貴族の末娘でありながら、幼いプラリネの世話役としてはたまた時に教育者として、感情を律し導く術に長けた秀才だ。州内外で侍女の理想と名高くもそれを笠に着ることなく勤務初日から変わらぬ穏やかさでプラリネを愛し慈しみ続けているセムラは、幼いプラリネにとって第二の母にも等しかった。
日本で作られたゲームらしく、子供にカフェインやアルコールを過剰摂取させない食文化が徹底された世界観は個人的にとてもありがたい。『かつての世』でカフェインの入った嗜好飲料が軒並み苦手なうえ下戸でもあった私にとって、ハーブティーは一番の癒しになることだろう。
このまま成長するにつれて紅茶やコーヒー、ホットチョコレートなどを嗜む教育も受けることになっていくはずだ。そうなっても、普段のティータイムはこうしたハーブティーのままで続けていけたらいい。
「プラリネお嬢様」
「なあに?」
「熱が下がってから、なんだか突然大人になられたように見えますわ」
「そう、かしら?」
すっかり失念してしまっていた。精神こそ『かつての世』にほぼほぼ引っ張られているものの、今の私はまだ六歳の誕生日を迎えて間もない幼少期のプラリネなのだ。公式設定によれば、プラリネが花嫁修業として調理と製菓、栄養学を習い始めるのは十歳からだったはず。
幼い身体に多すぎる記憶とはいえ、こういった肝心の内容くらいはせめて今朝までには蘇って欲しかったと内心悪態をつく。大事な記憶に限って後出しで思い出すばかり、幼少期めがけての異世界憑依はどうやら『かつての世』での流行知識ほど実際は有能でもないらしい。ざまぁ系異世界チートジャンルがある程度成長した状態でスタートを切る展開なのは、他ならぬ憑依先キャラの脳の発達状態を選ぶがゆえに断罪直前の年齢が定番だったのだろう。
「料理に関して、いつの間に知識を蓄えになっていたのかと驚いております。社交界において州内の有力貴族家の知識に各家同士の人脈、識字、魔法学基礎、世界史に詩の創作、ピアノに弦楽器に吹奏楽器、刺繍。日々の学びと練習だけでも大変な時期ですのに」
「あ、う……そう、ね。ちょっと、ここ最近は焦って背伸びしすぎたかも知れない、わ」
気をせいた隠れての予習を原因とした知恵熱と先日までの病床を疑われるだけで済めば、まだいい方だ。肝心なのは、伯爵令嬢プラリネが神童と呼ばれ始めるのはまだ先だということ。
九つもの種類に分岐するそれぞれの魔法属性についてセムラから長年に渡って懇切丁寧に教わり続け、魔法学と魔道具の基礎知識を磐石に固めるのが十歳。それから武術と魔導の実践演習に励み、同属性の魔晶石ピアスを両耳に開け魔道具と武器を決める日本でいう七五三に近い魔導覚醒の儀が十二歳。確かその頃に攻略対象の側近を決める選抜試験スケジュールのお触れが州内に出て、一年に渡る選抜試験の末に受験生全員の頂点である側近の座を見事勝ち取る。そして就職を機に実家を出ることになり、王室生活二年間の間に日々州内を巡って責務を果たすザッハー様を支えつつ、十五歳になっていよいよ攻略ストーリーの始まりである王立学園入学式を迎える……ゲームのシナリオ通りならば、恐らくは。
王立学園入学までの二年間に実力ゆえの信用関係はお互いにおおむね築いたものの、心からの信頼というにはまだ弱い二人の関係は王立学園でヒロインと出会うことで始まるストーリーの中で大いに揺れ動く。各プレイヤーの望むエンドルートめがけ、以降の展開や関係性は多種多様に変わっていくわけだ。
「我々使用人を厨房番まで気遣って下さっていたことは心からありがたく喜ばしいことです。しかし、まだ早い知識を先んじるほど焦らなくとも良いのですよ。学というものは叩き込めばいいというわけではございません」
「……ごめんなさい」
「急ぐ必要はないのです、ひとつひとつ丁寧に身につけていきましょう。でなければまたお身体を壊してしまいますわ。プラリネお嬢様の幸せが旦那様と奥様の幸せであり、ひいては我々使用人一同の喜びであり誇りなのですよ」
「肝に銘じるわ」
端的に言おう、しくじった。無理だろうが知恵熱で寝込もうが、まずは何とかして屋敷の人間の目を欺きつつ双方の記憶の完全覚醒を急いだ方がいいらしい。
何せ私は『かつての世』において、最推しザッハー様とヒロインのシンデレラストーリーエンドを心から愛してやまないばかりに妄想小説で自費出版の同人誌を共同制作する喜びに目覚めたほどの沼落ちまっしぐら系行動派限界オタク。
今後も記憶の覚醒が身体年齢に追いつかないゆえの免れない過ちを多々起こしてしまうとして、その都度何とかうまく誤魔化していかなければ。攻略ストーリー開始の十五歳を前に世界の歴史設定そのものをうっかり私が変えすぎてしまえば、何より尊いヒロインちゃんとザッハー様の婚礼を拝める未来そのものが消えるかもしれないのだから。
「さて、そんな真面目で頑張り屋さんのお嬢様。今日から二週間に渡るせっかくの休養です、この際に何かしたいことはございませんか?」
「したいこと?」
「旦那様も奥様も、暫くはお嬢様を連れ出すご予定を入れないとのことです。私と近衛騎士の同行が最大限の譲歩にはなりますが、お小遣いも多く預かっております。なんでも仰ってくださいませ」