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前世の追憶② 覆せない過ち

「何年かかったっていいから、自然に心が社会に向くまでのんびり休もうよ。今焦って社会復帰してもすぐ動けなくなりそうだし。いいじゃん、何も気にせずのんびり過ごしてよ。今までの人生ずっと波瀾万丈だったんだから」

「それが依存っていうの。在宅っていったって、本当に買い物以外で家出てないじゃん。きっかり時間決めて部屋に篭ってるとはいえ、流石にここまで私に都合を合わせられるのは変だよ」

「やっぱそう思っちゃうかぁ……」

「私のために我慢しないで、お願いだから。お世話になってる身で言うのもあれだけど、申し訳なさすぎて。一緒にいることにしんどくなりたくないの。ずっと友達でいたいの、できれば死ぬまで。お願い」


 やはり私のメンタルの回復にはまだ時間が足りないのだろう、話すうちに目頭が熱くなってきた。話せば話すほど、彼女の何一つ見返りを求めることのない善性が私には清らかすぎて眩しい。だって私は彼女のようにあたりまえの優しさに包まれて生きては来られなかったから。

 彼女の家族と私の両親は正反対だ。人に裏切られ続け時には壮絶ないじめまで経験してきた生育歴をもち、被害者同士の共感から惹かれあった私の両親は、親族の反対を押し切って結婚しそれぞれの家族と絶縁した。そんな両親が私に施す教育は、いつだって性悪説を根底に据えたものだった。

 誰かと初めて出会うときについ距離を置くことから始めてしまう癖をやめられない私自身が、私は嫌いだ。けれど彼女に対するときだけは、そんな壁など何もなく心からの笑顔で語らえる。

 私と正反対に、無償の愛情と慈しみに満たされ豊かで優しい言葉をもって丁寧に育てられた彼女は、いつだって私にとって誰よりも尊敬する存在だ。世界で一番大切な親友である彼女を、よりにもよって金銭の理由で失いたくなんかない。


 涙を拭いながらしゃくりあげて時折つっかえる言葉をどうにかこうにか紡ぎ続ける私を子供騙しに抱きしめ宥めて誤魔化せる状況ではないと、彼女は判断したらしい。かなり時間をかけて逡巡したのち、わかったと答えた。心底気まずそうに、そしてひどく申し訳なさそうに溜息をついた彼女は、ゆっくりと立ち上がり自室に向かう。

 少しして私の正面に向かってきた彼女は、私が豪快に鼻をかみ終えるのを待つと、持ってきたものを私に差し出した。手渡された通帳のページを促されるがままにめくっていった私の目玉は、漫画やアニメの世界なら間違いなく空中に飛び出していたことだろう。

 ゼロの数を何度となく数える。目で追うだけでは信じ難く、指先で一桁一桁追いかけて確認しても信じるには非現実すぎる金額だった。ゼロが八つ。……ゼロが八つ。教え子に抱きつかれたときの血の気が引く音だってここまではっきり聞こえなかったはずだ。闇金かと一瞬疑うも、それならばこんな半端な金額で振り込まれたりはしないだろう。返済先らしき名前も履歴も見当たらない。


「本当にお金に困ってない在宅仕事だったのね……」

「株やってるの、もう三年になるかな。勉強し始めたのは六年前くらい」

「にしたってこんな成功する? 凄くない……?」

「しちゃったのよーこれが」

「え待って、こんなの私に見せちゃって大丈夫なの?! 危機管理! いや納得できないって泣いて責めたのは私だけど!」

「ちゃんと見せないと安心してくれなさそうだなって」

「こんな三階建ての新築建てて、豊かな食生活送れるはずだわ……まだ三十路前よ??」

「私も考え無しで何も言わずにきてごめんね。生活費と家賃返したい気持ちはちゃんとわかったから、心身共に完全復活してからってことでおけ?」

「おけ。この稼ぎなら納得した」

「じゃあ人生の息抜きに相応しく、乙女ゲームでもやりますか! ほらロードも終わった! あーザッハー様かっこいいー!」

「やっぱりそうなるのね……」


 どちらからともなく座椅子の上で寛ぎながら、彼女の助言に従いチュートリアルを進め始めた。私の心を支配していた依存への恐怖が少しずつ凪いでいくようだ。彼女の言う通り、今は休息を取った方がいいのだろう。

 時間ならいくらでもある。とりあえずは人生初めてのゲームに挑戦してみよう。彼女が喜んでくれる文章を書けるかはわからないけど、やれるだけのことはやってみよう。攻略だって執筆だって入稿だってスペース参加だって、彼女と一緒ならきっと全てが楽しい。


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 『彼女』は世界でいちばん大切な親友だった。希望の見えない闇の中で、彼女だけが私に手を差し伸べてくれた。だから、彼女の命の危機に瀕して私の身体は勝手に動いたのだと思う。


 脱稿祝いだと無礼講に交わしあったばかりの美酒だったものを突然吐いて、彼女は道端に崩れ落ちそうになった。脱力する彼女の肩を抱き支えた瞬間、背筋が凍るほど怖くてたまらなかった。

 なのに、そんな状況に遭遇するのが初めてとは思えないほど私の頭は冷静だった。

 自分のコートをすぐに脱いで近くに広げ、その上に乗せた彼女を横向きに転がし、自分のバッグを枕にして寝かせ、手を上げてお医者様か看護師さんはいませんかと叫び、周りの人だかりからそこのお兄さんは救急車を、そこのお姉さんは人払いをと恐れることなく指名し助けを仰いだ。

 何か助けられることはと恐る恐る申し出てくれた見知らぬ学生らしき青年達に対し、同じく名前も知らない看護師のおばさんが的確に指示してくれている間、私は彼女のご両親に電話をかけた。救急車に同乗している間ずっと涙を堪えて彼女の手を握り、恐れも焦燥も感じさせないよう気を使った声色で言葉をかけ続けた。ただ彼女を生かすためにという使命感だけが、私を無駄なく順序立てて行動させていた。

 家族ではない私は、医師の説明には立ち会えなかった。恩人であり彼女の親友でもある私は身内同然なのだと彼女のご家族は医師に同席を頼み込んでくれたが、私はその気持ちだけ頂きますと笑顔で慎み、彼らが診察室に入って行く後ろ姿を黙って見送った。医師の声は言葉としては聞こえなかったが、彼女のお母さんが泣き崩れた声はすぐ外で私が座るベンチにまで届いていた。

 内容が分からなければ分からないほど真っ黒な恐怖に圧し潰されそうだったが、それでも私は泣いてたまるかと奥歯を音が鳴るほどに噛み締めた。しばらくしてご両親とお兄さんが退室するまでのあいだ、一滴も溢れさせないよう瞼をきつく閉じすぎていた。再び目を開けた時に差し込む待合室の灯りが少し眩しく感じたほどだ。


 ベッドに眠る親友よりもよほど死に近いような表情で俯き、呆然となにかを憂うご両親とお兄ちゃんを、私は親友とのシェアハウスに招いた。

 これ以上は手の施しようがなく彼女が植物人間になったと宣告された。病名はこれ、人工呼吸器その他の経費についての書類はこれ。医師から聞いたばかりの内容を説明してくれる三人に手渡され、私は時間をかけて何度も何度も書類を隅々まで読み返した。


「『この先いつ目覚めるかわからない、もしかしたら目覚めないでこのままいつか亡くなるかもしれない』んですね」


 三人を迎え入れるまでの時間にずっと怯えていた最悪のパターンより、まだ救いがある。

 全てを理解したうえでも、私は冷静であれた。改めて突きつけられた現実を受け止めきれない三人は涙を拭ったけれど、私は正座のうえで強く拳を握り閉めながら口を開き続けた。


「『もって数日が峠です心の準備をしてください』じゃなかったんですよね。『いつか目覚めるかもしれない』ってことですよね」

「そんなの、私たちのただの願望よ。どうなるかは誰にもわからないわ」

「この先、医療が進歩したら。もしかしたらその時に手の施しようがあるかもしれないってことですよね」

「運良く目覚められたとして、その後のリハビリがどれだけ過酷かそこに書いてあっただろう。もう結婚や就職が望めない歳になってしまっていたら?」

「そんな状況でもし『あのとき殺してくれてたらよかった』なんて言われたらって、考えるだけで、余りにも惨すぎるよ」

「三人ともここで諦めるつもりないですよね?! だって、おじさんもおばさんもお兄ちゃんも、さっきから一度もお金の心配してない! ずっと、あの子自身の、あの子が目を覚ました後しか悩んでない!」


 三人ははっとしたように私を見つめた。今まで自覚もしていなかったことを指摘されて、ほんの少しだけでも霧が晴れ始めたのだろう。どれだけ涙が溢れても言葉が震えても濁っていた三人の瞳に、リビングを照らす暖色の灯りが反射している。

 彼女が私をこの家に迎え入れてくれたあの日、彼女が教えてくれた言葉がある。手に入れるべきかそうでないか悩む理由が金額ならばその時ではない、悩む理由が金額以外ならば買え。なにかのSNSで見たのだというその言葉を彼女が思い出した結果、私を助けたい理由に家賃収入は全く含まれていなかったのだという。


「ずっと傍で支えてくれたおかげで、やっと心と身体が回復したところなんです。私も医療費に協力させてください」

「駄目だよ、どれだけかかるか見たよね。これは俺たち家族の問題なんだから」

「『私には関係ない』? お兄ちゃんだってさっき、私も家族同然だからってあんなに先生に同席頼んでくれたのに?」


 口ごもるお兄ちゃんの気持ちはわかる、私も同じ立場だったら絶対に同じことを言っていたと思うから。

 でもこれだけは譲れない。三人と同じように彼女もまた私に何度も話してくれたのだ、私と姉妹でありたかったと。同じ屋根の下で寝起きして、給食だけでなく同じ食事を毎日同じ食卓で囲んで、何の遠慮もなくお兄ちゃんに頼って、私の両親に反対されるという概念すらなく学校以外でもずっと一緒に笑って過ごせる環境ならばどんなによかったかと。

 私と一緒に住んでいる間、彼女は本当に幸せそうだった。彼女が自分の心を偽ってまで周りに嘘をついたりしない人間だと、彼女の実の家族である三人がいちばん知っているはずなのだ。彼女が『あのとき殺してくれてたらよかった』を誰にも言わずに抱え込んで耐えるような子ではないと宣言したにも等しいということには、まだ気付けていないようだけれど。


------------------------------


 二人で発行した同人誌がシェアハウスに届き、イベント当日は訪れた。彼女と並んで売り子をやれない悲しみを堪えながら、私はたった一人でスペースを切り盛りした。初めての二次創作イベントが初めてのスペース参加という初心者泣かせのハードモード経験になってはしまったが、ベテランオタクの彼女が脱稿前に作ってくれていた私専用のイベント虎の巻データが入ったメモリが見つかり、その助けを借りて何とか全冊頒布し撤収までを滞りなく終えられた。

 まさか、そのイベントで私たちの合同誌を買って下さったお客様の一人が某大手出版社の編集者さんで、撤収後に名刺交換を伴うスカウトをもって私の担当について下さり、私も私で数ヶ月後のコンテストめがけ手厚い監修を受けながらオリジナルのライトノベルを書き上げ応募からの大賞受賞、読切デビューまでそのままトントン拍子に事が進むとは思わなかったけれど。


 賞金の殆どを彼女の医療費に充てると幸運に幸運が続く。作家デビューを果たした私は単行本発行記念イベントを機に人脈に恵まれ、一ヶ月と待たずに住人は定員に達した。壁サー同人絵師、ライトノベル作家志望の文字書き、プログラムだけでなくサウンドトラックも手がける同人ゲームクリエーター、駆け出しだが登録者数の成長目覚しいゲーム実況配信主。入院前に彼女が語っていた夢の通りオタ活特化シェアハウスと化した家には、本来の大家である彼女だけがいない。

 常識的に考えれば決して安くはない賞金でも、所得税や医療費を考えれば長い目で見れば心もとない。そんな言い訳のもとに、私はそこで欲をかいたのだ。もっと働けばもっと稼げる。このまま稼ぎが増えれば彼女の御家族に迷惑も心配もかけることなく彼女の力になり続けられるのだと。


 かつて彼女は私に、ただ当たり前の生活を当たり前に過ごせたらそれでいいのだと微笑んでくれていた。私がかつてのような無理をせずに心も身体も労わって一日一日を幸せに過ごしてくれることこそが彼女自身の幸せなのだと、女神のような慈愛を惜しみなく注ぎ続けてくれていた。

 その記憶を忘れずに日々を過ごしていたはずなのに、彼女の回復と御家族の平穏を願うあまりリミッターが外れていた自覚もなかった。彼女の医療費のためにとライトノベルや原作シナリオの公募を検索しては片っ端から応募し、応募する度に何かしら受賞し、賞金が振り込まれた先から横流しにも等しい迅速さで概ねまとまった金額を病院に振り込み続けた。


 彼女の御家族からもうこれ以上は申し訳なさすぎると泣きながら止められた後は、シェアハウスの設備投資に稼ぎを注ぎ込むようになった。各部屋の防音効果を更に上げ、スタジオを借りなくても声優さんを連れて来られるよう小型ながらもパーソナルスタジオを増設し、共有スペースであるリビングには鑑賞会をいつでも楽しめるよう大きなスクリーンと最新型のステレオ一式を設置した。

 彼女が語っていた夢を彼女が目覚めたときにすべて実現させておきたいがために、住民全員を幸せにすることが私の果たすべき使命と信じて疑いもしなかった。

 ただ彼女の笑顔だけを願い、住民全員の充足ために寝る間も惜しんで執筆を続け、シェアハウスの改築とリフォームを繰り返し、周囲の空き家と土地も数件分を買い取って二号館三号館と住人を増やし、住人全員が思う存分やりたいオタ活に没頭できるよう共有スペースの掃除や食事の準備を担う家政婦さんも全てのシェアハウスに雇った。

 彼女の代理管理人として胸を張れるよう、暇さえできれば常に住人一人一人に目をかけ、できる限り貢献し続けた。

 そのつもりだったのに。


「引越しを考えています」


 最初に退去の相談に来たのは、私と同じライトノベル作家を目指していた青年だった。その頃の私は、四本の月刊連載を抱えながら他の作家さんの急な穴を何時でも埋めるための番外編短編を何かに追われるように提出し続けた結果、助っ人入稿作家として編集室に重宝されつつあった。

 私への劣等感から、いつの間にか精神を病み始め遂には人知れず筆を折ってしまっていたのだという。彼が夢を掴めるよう担当編集者さんに紹介したことが、完全に裏目に出てしまっていたらしい。


「私は別に、言うほど速筆な訳じゃないわ。寝ないで書き上げるのが得意なだけよ、あなたはあなたのペースで好きなものをとことん納得がいくまで書き上げれば」

「普通の人は! 親友の幸せのためってだけでそんなに尽くせない! 一日おきの徹夜が当たり前な超売れっ子作家生活を、引越し当日と変わらない笑顔のままで自分じゃない誰かのために二年以上続けられたりしないんです!」

「これが私の普通なの、そんなふうに言われても」

「すみません、もう無理です。そんな狂信者みたいな天井知らずの無償の愛で、自分の稼ぎを自分以外の他人にごく当たり前に湯水のように使えるなんて。俺からしたら、ただ怖くて仕方がないんです。こんなに住みやすいのに、こんなに充実した福利厚生なのに、家賃が一度も上がらないなんて。これ以上甘えるのは詐欺に遭う前兆みたいで、もう限界です」


 彼の引越し準備は実に迅速だった。せめて今月いっぱいまではと説得するも首を横に振り続け、一週間と経たずに彼は契約月までの残りの期間の家賃を払いきってシェアハウスを後にした。今まで楽しかったありがとうと伝えた時の微かに怯えたような乾いた笑顔に、最後まで理解し合えなかったと悟るほかなかった。

 出ていった彼の考えは理解できなくはなかったが、彼女の夢を考えれば考えるほど家賃は上げたくなかった。オタ活を謳歌したい人が集えるオタクのオタクによるオタクのための家にしたいと彼女は語っていた。ならば家賃を上げてしまっては肝心のオタ活を謳歌したい若者に手が届きにくくなってしまうではないか。私自身が稼ぎに全く困っていなかったのもあり、かなり迷ったものの家賃は上げないことにした。


 そこから先、ぬるま湯のような穏やかな地獄が始まった。彼をきっかけに、経緯はそれぞれながらも住人が一人また一人と時間をかけて減り始めたのだ。

 満たされすぎた優遇を極める生活で自堕落に陥り退職して貯金を崩しながらのオタ活にのめり込んだ末、十二分に満たされている筈なのにメンタルを病むといった住人が少しづつ増えていく。彼らの友人には皆それぞれの家庭や生活があり、彼らと友人達の間でオタ活の熱量の差が開き始めたようだった。シェアハウスの住人同士には共通の活動ジャンルや表現傾向が何故かほとんどなかったことが災いし、住人同士の絆は私の予想を遥かに超えて脆弱過ぎたのだ。

 最初の頃こそ創作系を始め様々なSNSで話題に上がってはバズり認知度を高めていった『夢のオタ活応援シェアハウス』は、全六号館までの住人全員を時間をかけて失っていき、自立の術を捨てさせる依存気質大家代理と私の悪名が広がり始めた。ある事ないことを憶測まみれにでっち上げられ、私の作品宣伝用アカウントは大炎上。彼女に招かれた全ての始まりの一号館を残して他の家は全て売り払うことになってしまった。遂には元住民の一人から訴えられるまでに事は大きくなったが、私の境遇の経緯を知る編集さんの口利きがあって出版社は私を信じ会社をあげて守り続けてくれた。

 弁護士を雇い真っ当に勝訴したため作家業は失わずに済んだものの、かつて彼女と語らいあった彼女の夢だけが惨たらしく潰えてしまった。


 慰謝料や弁護士との事後処理あれこれを終えて彼女とのシェアハウスに戻った私は、パソコンに向かった。まともな感情の起伏もないまま原稿を執筆しては編集担当さんに送信し、手直しと脱稿、また執筆を繰り返す。疲れたら倒れるように眠り、体内時計のままに目覚めトイレに行き、熱いのか冷たいのかよくわからないシャワーを浴び、味を感じられない食事を適当に食べてまた執筆。合間に届く宅配を冷蔵庫や本棚に収め、彼女の推しグッズが届けば管理人室に据えられた小さな神棚に供えて手を合わせる。彼女が目覚めますようにと気が済むまで祈ったらまた台所に立ち、彼女の好物をメインに据えて彼女にしこたま教えこまれた栄養バランスの取れた作り置きおかずを仕込む。たった一人のダイニングテーブルで手を合わせてあたたかい食事を咀嚼し飲み込み、歯を磨いてまたパソコンに向かい執筆を進めていく。

 彼女の幸せのためにした努力の全てを世間に否定された挙句裁判にまで至ってしまった負い目で、彼女のお見舞いに行けなくなった。彼女が一緒じゃないのに謳歌したい人生のビジョンなどあるはずもなく、お見舞いに行けない代わりに再び病院へ入院費を振り込み始めた。せめて、ご迷惑をかけてしまった御家族にお詫びになることをしていたかった。


 原稿執筆とただ人として最低限の生活を繰り返した末、編集担当さんとの打ち合わせの電話の途中で私は静かに意識を失った。

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