『苗という私』の存在意義② 自覚と涙
今から二年前、プラリネが四歳の誕生日を過ぎて間もなくの頃まで。専属侍女補佐として、プラリネにはセムラの他に一人のフットマンがついていた。清潔感を最優先にと短く整えた猫っ毛を整髪蝋で後ろに流した好青年のフットマンは、名前をピシマという。
多忙にしている伯爵夫妻が屋敷を離れている間、セムラの手があかないときにプラリネをあやし体力尽きるまで何時間でも遊び相手を引き受けていた彼は、うっかりプラリネとともにお昼寝してしまいセムラに起こされ叱られることもしばしば。そんな抜けたところがありつつもピシマの根は真面目で。領民のために働く日々において、直接子育てに参加する時間をなかなか取れず葛藤していた伯爵夫妻を訪ねては、こまめにプラリネの観察日記とアルバムを渡していた。
プラリネの成長ぶりを感じられる日常の心温まるエピソードをびっしりと記載した観察日記も、寝顔や笑顔、はしゃぐ様の愛くるしさが最大限に伝わるよう角度と光源に心を砕き決して安価ではない魔導カメラで撮影した写真も、その写真すべてを観察日記とは別にまとめたアルバムも、ピシマにとっては雇い主である領主夫妻を喜ばせたい一心だった。
彼の作る観察日記とアルバムは、伯爵夫妻が自分たちだけでは勿体ないと使用人たちの間にも巡らせるほどの出来で、内気なプラリネに対し他の使用人が会話を試みるのにもこれ以上ない潤滑剤の役割を果たしてくれていた。
天真爛漫を体現したようにいつだって笑顔を絶やさぬ屋敷の人気者だった彼は、若くして突然この世を去る。
ある小雨の降る日、昼になろうという時に伯爵夫妻の忘れ物に気付いた侍女が慌ててセムラへ相談に来た。その日はたまたま多くの使用人が自分の家の畑の実りの時期のため屋敷に来られず、普段よりも少ない人数でなんとか仕事をこなしている状況だった。夫妻の忘れ物は特殊加工が施された最新型の魔道具であり、厄介なことに使用されている材料との相性の都合から屋敷もしくは転送局の窓口からは簡易転送術で現場に送ることができない代物だった。
豊作の年にことさら多忙を極める伯爵夫妻とプラリネが会える時間はその頃さらに少なくなっており、プラリネもまた寂しさゆえに精神不安定な時間が増えつつあった。セムラとピシマのどちらが届けに行こうかと二人で相談する中、ピシマに抱かれる幼いプラリネは小さな両手で縋るように二人の袖を掴んだ。
いっそサプライズで三人一緒に伯爵夫妻の仕事場まで届けよう、向こうが会いに来られないならこちらから会いに行けばいいのだと提案したのはピシマ。プラリネは両親に会える喜びに顔を綻ばせ、予備の馬車ですぐさま現場に向かった。
馬車の中でセムラに抱き抱えられるプラリネは、早足で同行するピシマと窓越しに目が合っては手を振りあいながら順調に現場への道のりを縮めていた。
現場まで残り半分というとき、小雨が激しい本降りになり始めた。分厚い雲に覆われた空は暗くなり、人々は雨宿りのために慌ただしく道を行き交う。
雨で滑る悪路のなか、一人の通行人が轍に足を取られ転んでしまったところに遭遇したピシマはとっさにシュクルドリュージェ家の馬車から離れた。怪我をした通行人の肩を抱いて歩くのを手伝う背中が少しずつ遠ざかる。
セムラとプラリネが彼らしい親切の一連を微笑ましく見守るなか、人だかりの騒がしさが突然悲鳴を伴うそれに変わった。ピシマ達に向かい全速力で逃げる万引き犯が突っ込んできたのだ。興奮した万引き犯が盗んで逃げていたのは刃物の凶器。怪我人を気遣い馬車道側を歩いていたピシマは、咄嗟に怪我人を庇い万引き犯に腹を刺し貫かれた。血反吐を噛み締めながらもこれ以上被害を増やすまいと血塗れのピシマは万引き犯にしがみつき、追い付いた警官とともに全力で取り押さえた。
御者が直接夫妻に魔道具を届けるとともに事の次第を伝え、セムラとプラリネはピシマが早急に運ばれた病院へ駆け込んだ。
運が悪いことに、ピシマを貫いたナイフは、その街では見た目こそ華やかながらも品質の悪い粗悪品を売ることで取り締まりを受けていた店のものだった。刃渡りの切れ味を保つために、物理的な研ぎの精度を高めるのではなく、切り裂くものの断面の結合を拒絶する効果のある簡易魔法陣が刻まれていたのだ。魔瘴獣の討伐か害獣駆除を目的とした武器にしか許されていないはずの特殊加工がこの件で公になった店は即閉店、店主をはじめ内情を知りながら黙認していた従業員ともども刑務所に送られた。
違法の粗悪品だけあり、ナイフに施された結合拒絶魔法は解除方法の解析が不可能なものだった。魔法薬も非魔法薬も傷口に効かない。結合拒絶魔法自体の精度が低い影響で傷の周辺から効果が際限なく広がり、縫合の際に開く針穴までもが塞がらない傷のひとつになるというこれ以上ない悪循環。州内の医師総出の努力も虚しく、輸血も尽き、腹の風穴から血を流し続けたままピシマは息を引き取った。
セムラとプラリネ、駆け付けた伯爵夫妻に見守られながらの死に顔は貧血に白みながらも、従僕たる誇りを忘れない、いつもと変わらぬ太陽のような笑顔だった。
------------------------------
セムラの語る話は、私の知識のどこにもない話だった。公式設定本も原作ゲームのストーリーも、プラリネの過去はどれだけ昔のものでも六歳からのものしかなかったからだろう。
「最初の給与で魔導カメラと映写シートを買い、翌月の給与であの文机を買っていました。三ヶ月目の給与で、旦那様に許可をいただきシュクルドリュージェ家の家紋を家具職人に依頼して文机に彫らせていました」
この部屋で前世の記憶を書き残す時に使っている、既に私にとって当たり前に馴染みつつある文机。これはピシマの遺品だったのか。
「州都の貧民街出身の彼は私たち使用人のなかでも少ない住み込みでしたから、私は時おり仕事の話で彼を尋ねることもあったんです。いつもあの机に向かって観察日記とアルバムの作業をしていて、趣味なんだと笑っていました。その作業にこだわりすぎて夜なべをすることも少なくないのに、お嬢様はもちろん誰にも寝不足や疲れなど見せず、いつでも自分以外の誰かの幸せのために動く人でした。そんなピシマを、きっとお嬢様は兄のように思っていたのだと思います」
やはり私の記憶は時に変なところで半端に思い出せずにいるものもまだ少なくないらしい。プラリネの性格設定という肝心なものについて今になって思い出すなんて。『領主の長女という責任感から、成長とともにいつしか寡黙になり表情を変えないよう努める癖が自然とつくようになった』と公式プロフィールに記載されているだけだった。その寡黙さと表情の乏しさの由来にフォーカスをあてた補足情報は、少なくとも今思い出せる限りではまだ見たことがない。
誰よりも遊んでくれた、寂しいときにいつでも誰より傍で慈しんでくれた、プラリネにとって兄のようだったピシマ。きっとプラリネにとって、それが初めての『身近な人間の死』だったのだ。
「ピシマの葬儀が終わってからです、プラリネお嬢様が誰にも抱っこをせがまなくなったのは。厨房番がティータイムのフードやお食事のメニューに何がお好きか尋ねても、何でも美味しいと、好みを一切言わなくなりました。どんな小さな頼みも仰って下さらなくなりました。高いところの本は落ちる恐怖に耐えながら自分で梯子に登って取るようになりました。遊びたい盛りのはずなのに、休みの日には旦那様と奥様についていき現場で自分にできる仕事は何かと思い巡らしながら周りを驚く程に大人びた目で観察しています」
プラリネにとっての『領主の長女というプレッシャー』の正体はきっと、ピシマとセムラの袖を掴んだことへの後悔からきているのだろう。あのとき二人に寂しさを悟らせないよう振る舞えていたのなら、三人で行こうと言われた時にせめてピシマに留守番を頼んでいたのなら。そんな果てのない自責と過ぎた時間を戻せない絶望の狭間で、残された自分にできることをするしかプラリネにとってピシマへの弔いの方法が無かったのだ。
若くして亡くしてしまった健脚の従僕を、嘆いて塞ぎ込み続けるほうがずっと楽だったろうに。忘れないと決意して彼に愛された日常を彼抜きで変わらず過ごし続ける決意のほうが、遥かに辛かっただろうに。幼い心には何よりも寂しかっただろうに。
自分がかける言葉と見せる挙動のすべてが、使用人にとってはいつ何時でも下知となりうる。残酷すぎる教訓とともに、プラリネの幼い心にはその日から深い傷を伴っての矜恃が刻まれた。自分を思ってくれるゆえの気遣いが原因になって相手自身を死に追いやってしまった負い目からか、ほとんど表情を変えなくなった。周りの誰をも気遣わせないように、もう誰も死なせたりしないように、不変であり続けなければと思うようになったのだろう。
「お嬢様が高熱で倒れられた日、何日も一人で寂しいのではとロクムーリェの提案で使用人の食堂にお嬢様をお招きしました。使用人の食堂でお嬢様も一緒に朝食を頂くのは初めてでした。必死に表情を変えないように時折気を引き締めているのだろうなと感じられることこそありましたが、ずっと見守ってきた私達にはわかります。お嬢様にも同じ時間を楽しんで頂けていたのは間違いありません。ですが、私達は誰一人として肝心の変化に全く気付けませんでした。お嬢様の熱はその前日から続いていたんです」
朝食が終わって、普段通りに家庭教師と教え子として世界史の勉強に取り組んでいたとき。提示された穴埋め問題を解いている途中でプラリネは突然椅子から崩れ落ちた。すぐさま授業を中断しセムラが抱き上げたプラリネは全身が熱を帯びており、大急ぎで呼びつけた医師が来るまでにセムラは氷魔法刺繍の手ぬぐいを何度か取り替えた。
隠しきれない限界を迎えたプラリネは平常を装う余裕なくうなされ、医師の問診に言葉で答えられないほど憔悴してしまっていた。消化しきれていなかった朝食どころか薬湯も粥もすりおろした果物も戻してしまい、食べられない度に申し訳なさそうに見上げられる厨房番たちは部屋を出たそばからいじらしさに涙を拭った。
「この氷魔法の刺繍が施された冷却布は、大人の高熱でも四時間は冷却効果が継続するものです。そのはずなのに、午前中だけで必要の倍は取り替えました。お嬢様の高熱が下がられるまで何度取り替えたか、数えるのもやめたほどです。それほどまでに酷い熱でした。それでもお嬢様は、寝言ですら泣き言ひとつ言わず、関節の痛みにうなされながら涙も流しませんでした。領主の跡継ぎとしての矜恃の揺るがなさに畏怖を覚えるとともに、私の精神ももう限界でした。いつまで耐えるのかと私個人の勝手な憤りをぶつけてしまいそうでした。なんというエゴを押し付けるところだったのかと我に返って、どうしようもなく涙が零れました。ここにいるのが私でなくピシマだったら泣けたのだろうかと、お嬢様が笑顔を取り戻せるなら何だってできると思ったそのときです、少しだけ熱が下がり始めて目を覚まされたのは。ナエ様が憑依されて、お嬢様はあの日以来初めて泣けたのです」
子供をあやすように、セムラは私を正面から抱きしめながらゆったりとしたリズムで身体を揺らす。
「ありがとうございます。ナエ様が憑依されたおかげで、プラリネお嬢様がまだ表情の変え方も誰かと対等に語らう術も捨てていないのだとわかりました。お嬢様はきっとピシマの死を乗り越えられる、それだけで私達使用人の希望になる。ナエ様のおかげなのです、どれだけお礼を申し上げても足りません」
嗚咽を堪えて息を整えながら、セムラは私を包むように抱き込んだ。そして続けて言われた一言に、私の背筋は氷が滑り落ちるような悪寒に晒された。
「ナエ様はどうでしたか。ナエ様は、前の世界でちゃんと泣けた日はありましたか」
血の繋がりのない人間を相手に惜しみなく注ぐ無償の献身を怖いと言った彼の声が蘇る。彼が出ていくなら私も、保志野さんが悪いんじゃない自分の甘えてしまう弱さが悪いだけだと、みんなそう言ってシェアハウスから出ていった。
仕方ないことだってある、人の心なんだから。整いすぎた環境では心を病む質の人達がたまたま住んでしまっただけだ。また最初からやり直せば今度は、今度こそはきっと。
もしも『彼女』が管理人のままだったら違ったのだろうか。私のせいで彼女の夢が潰えてしまった。そう思う度に何度、自分の選択全てに憤ったことだろう。もう一度シェアハウス計画を建て直そうとした矢先に訴えられて、裁判に勝ったのに心は何一つ晴れなくて。胸の軋みと虚脱感を認めたくなくてひたすら物語を執筆し続けて。慌ただしい日がただただ過ぎて、そして。
「セムラさん、だめ。変なの、なんか変なの私。離れて」
「世界で一番大切な親友さんが息をして眠っているだけで目を覚まさない間、一度も泣けなかったのでしょう。尽くした住民の方々はみな離れ、負い目から親友さんに逢いに行くことすら罪悪感が邪魔をしてできなくなり。そんなナエ様の心を、ナエ様自身でちゃんと労って差し上げたことはありましたか」
「セムラさんだめ! 離して! お願いだから!」
「絶対に離しません! 今泣かなければあなたは、この先どこに行こうと二度と泣けない!」
ぶり返した高熱の寒気と全く違う、得体の知れない怖いものが私めがけて迫ってくる。乾いた喉を熱い空気が入っては出ていくことを繰り返すのに、セムラさんの肩を押す両手は何を掴んでいるのかわからない。
崩れてしまう。だめだ、崩してはいけないものだ。『彼女』が人工呼吸器に繋がれたあの日からずっとずっと、私自身を囲むように積み重ねてきたすべてのもの。何度もひび割れては修繕して、欠けた先から新たな粘土で塞いで、塞いで、塞ぎ続けて、何とか形を保ってきた。まだやれるまだ保てると自分を律していなければ、不安と恐怖で壊れそうだった。
「わたし、私、プラリネじゃない」
「ええ。あなたはナエ様です」
「ちがう、こんなの違う。労うとか、だって、私のほうが助けられてた。あんなに、助けてもらったから、ただの恩返しだった。っいつか、目覚めて、戻ってきたときに、寝てる間にこんなに、増えたんだよって、驚かせてあげたかった。なのに、おかしいって。否定、された、わかってっもらえ、なかった。私も、忘れてた、普通の生活ができたらそれで、いいって、言われてたのに。私のせい、私のせいで全部、台無しにしちゃった」
「頑張りすぎてしまったのですね。人生かけて返したかった恩ですものね。世界で一番大切な親友さんでしたものね」
「わたし、だめだった。またっ会いたかった、のに。目覚めるまえに、私のほうが、先に、死んじゃった」
「駄目なんかじゃない。ナエ様はやり切ったんです、生き抜いたんです。頑張りました、充分頑張ったのです。死んでしまうほど頑張り抜いたのです。お願いだから、もう自分を許してあげて」
セムラの腕の中で蘇る記憶は『彼女』のことばかり。空っぽの私をいつだって湧き水のような愛で満たしてくれた『彼女』を、いつか目覚めてくれた後で、お帰りなさいと今度は私から抱きしめたかった。彼女が私にくれた全てを私も返したかった。長いリハビリに苦しむであろう彼女に、今度は私が何一つ気にしないでゆっくり回復すればいいと言ってあげたかった。
今度は私の番だと約束していたのに。私にとって最初の同人誌なのだからと私の推してやまないヒロインとの本に妥協してくれた分、次の合同本では私が彼女の愛してやまないザッハー様とプラリネが結ばれる小説を書くはずだった。脱稿直後だというのに次の本のためにプラリネとザッハー様の解釈を深めていく語らいの時間が、少なくともあの瞬間は世界で一番幸せだった。
泣かなければいずれは壊れるなんて、ずっと前からわかってた。『彼女』が目覚めない限り壊れたままも同然だと、ひび割れがより細かくなっていく様から目を逸らし続けていただけだ。本人に望まれた訳でもないのに、彼女が目覚めない限り私も世界に心を開いてなどやるものかと背を向けていたのは私の方だったんだ。
セムラに会えなければ自分でも気付けなかった限界が、熱い目からとめどなく溢れる。
ああ、遂に私は泣いてしまった。虚勢の終焉がきてしまった。『彼女』が無限に注いでくれる毎に大きくなっていった殻が、継ぎ接ぎの境目から崩れてしまう。欠けて開いた穴から注ぎ返してあげたかった清水がとめどなく漏れていく。中の清流を失った殻は音を立てて壊れ、元の形に戻せもしない破片がいたずらに積み重なっていく。
受け入れなければならないんだ、無念のままにあの世界での人生が終わったのだという現実を。向き合わなければいけないんだ、この無窮の常寂に。
それでも生きたい、虚構でありながらどこまでも現実であるこの世界を。『苗みたいに一番優しくてかっこいい女の子だから』と笑った『彼女』があの日はにかんだ笑顔に恥じない自分になりたい、『彼女』と愛したこの世界で。