『苗という私』の存在意義① 共存の決意、回想に至れなかった過去
私が闇深いと思っていたものはまだ生ぬるかった。そう認識を改めた先から更なる闇を思い知り、絶望で上書き更新することを何度も繰り返した私の脳味噌は、まともな思考能力を失ってしまっていた。
六歳の頭の処理能力に対してとうてい重すぎるデータ量だ。なんなら成人から六年目になる私の意識で噛み砕いてもなおしんどい。知恵熱なんて『かつての世』で数えても片手で足りないほどの暫くぶりだ。
「伯爵様」
「な、んだね」
幼少期のプラリネはまだいたいけで身体が弱い。案の定とっくに耐えきれなかったらしく、ベッドに寝かせられてもなおプラリネの意識を内側に感じられない。
セムラに額へ乗せられた氷魔法陣刺繍入りの手ぬぐいが、オーバーヒートした体温に染み渡る。そしてつくづくふざけるなと言いたい、病み上がりの愛娘になんという無茶をさせるのかこの父親は。
「プラリネの意識が割と最初の方の時点でショートしてくれていたことを、幸運に思って頂きたいです。恐らく眠っています、何も反応がありません」
「それはその、本当に申し訳なかった……」
「一つ目の質問です。プラリネは何歳ですか」
「六歳だ……」
「二つ目の質問です。今の話はどれくらいのレベルの機密事項ですか」
「男爵以上の全貴族の家督夫妻、および相続権第一位とその専属使用人のみ。伝承は口伝のみ許可されている」
「三つ目の質問です。通常であれば凡そ何歳の時に聞かせる伝統にある内容ですか」
「優秀ゆえに十を満ちる前に受け継いだという例も他家にはある、が……すまない、私が父から聞いたのは十二歳の時だ」
「……四つ目の質問です。私の精神年齢が二十六歳だし大丈夫だろうと判断してという理由でしょうか」
「否定はしない……」
「私の子なら耐えられるという理由は無茶な指導を与えるための大義名分になりません。子供が大人の言うことを理解できないのであれば、それはその子供に理解できるよう噛み砕き特性に合わせて想像力を働かせられるよう導入と順序を工夫する努力を怠っている大人側の責任です」
「仰る通りだ、ぐうの音も出ない」
「せめて最低の基準年齢としてご自分のときと同じ十二歳、それもプラリネの成長を待つべきでしたよね? 私異世界人ですよ?! しかも! まだ! お引越し数日目!」
「ご尤もだ、申し訳ない……」
「いまあなたの愛娘! 一人の身体に! 二人分の人格詰め込まれてるんですって! 言いましたよね! ただでさえ狭い思いをさせてるプラリネに! 無茶を!! させるな!!!」
「心から申し訳ない……」
貴族の世界の闇をこんな子供が清濁併せ呑むなんて、いくらなんでも早すぎるを極め過ぎだ。「スイプリ」に登場するライバル令嬢のなかでも確かにプラリネはチートと呼ばれるほどあらゆるジャンルにおいて優秀を極める、理想の女側近と名高い娘ではあるものの。
しかし参った、せっかく憑依初日に下がったばかりの熱がまたぶり返してしまうとは。たまりかねて大声を出してしまったが自分の声が自分の脳味噌を揺さぶってしこたま痛い。目の前が歪んでいるのだがなるほど、色々大胆な手癖で有名な画家達はこんな感覚ですらインスピレーションを湧かして作品の糧に昇華していたということなのか。
いや知らんけども。苗の精神の方はこの歳になってもかなりの画伯だったもので。
「ナエ様、落ち着いてくださいませ。また熱が上がってしまいます」
「うぅ……痛いぃ……」
「本当に申し訳ないわ、ナエさん。お水を飲みたい?」
「大丈夫です、私も私で前世の精神年齢のまま全部聞き通すことを当たり前にやってしまったので。自分から何かしら訴えるべきところもあったかもしれません」
あれだけ怒鳴り散らしておきながら今更になってこの返事をする自身にも、責任が全く無いわけではないだろう。
しかし夫婦揃ってあの長時間に渡る世界の闇に包まれた真実暴露会を止めなかったというプラリネの身体に対しての配慮の無さは……と、そこまで考えて、本当に考えなしだったのかという疑問に辿り着いてしまった。
「違い、ますね。伯爵様、申し訳ありません。あんなに怒鳴ってしまって」
初めまして異世界人から娘さんのお体にきました別の人格ですなんて突拍子もない話を、なぜ三人はあんなに早く信じて下さったのか。この話を全て知った今だからこそ、私はその理由を理解できたのだ。
瘴気が残ったままの問題を解決できていない国の中には、聖女への償いを一切考えておらず聖女の人権について配慮がないまま、再び異世界干渉の術を行使できる日を待っている国もまだあるはず。そんな国をかつての九国のように恩を売る目的での瘴気滅却できます詐欺で牛耳る計画を立てている国もあれば、軍事産業による外貨獲得のために世界大戦に繋がる可能性もやむ無しと瘴気を悪用している売国機関などなど、無いとは言いきれない。
私の性格がプラリネと正反対である以上、周りに違和感を持たれるのは時間の問題だ。ならば、精神が成人を迎えて久しい以上、私の知っている世界の知識と本当の知識のすり合わせは早いに越したことはない。私がこの世界に来てしまった理由に向き合うタイミングとしては、勘づいた悪い貴族に誘拐された後では遅いのだ。
「私がこの世界に来たのは、どこかの国が違法とわかっていてそれでも必要だと禁術を使ったからなんでしょうか」
「わからないわ。過去にこの世界に召喚された聖女は全員が肉体丸ごとの単位だったから、魂だけを召喚して器となる住人に無理やり押し込めるなんて方法自体の例が他に無いはずよ」
「私が初めての事例なのか、それとも憑依の成功例が他にもいるのか。異世界人の魂だけを召喚するための研究自体は極秘裏に進んでいたとしてもおかしくないですよね」
この世界からしてみれば、異世界しかも日本の高度な文明は禁術で処罰されるリスクを負うだけの魅力に溢れている。前の世界で群を抜いた自然災害大国だった日本はあらゆる自然災害に対して甚大な被害と復興を繰り返している分、耐震建築や治水、消防の技術に優れており、食へのこだわりから農作物に果樹、畜産動物の品種改良だって限界がない。召喚した聖女がたまたま先述したもののうち何かしらのノウハウを職業にしていたとして、それをひとたび学んでしまえば技術によって代々受けていく恩恵は執行者全員死刑という厳罰のリスクを負って余りある。
厳密に言えば、『異世界から聖女を肉体ごと召喚する術』が禁じられているだけ。『異世界から聖女の魂だけを呼んでこの世界の人間に降ろす術』についてはまだ禁じられていないという屁理屈も、理論上はまかり通ってしまう。
「実験自体は既に回数を重ねていて私がたまたま初めての成功例だったという場合は、それまでの憑依に失敗してきた魂だけの聖女はどうなるのかがわかる方法を探さなきゃいけませんね」
「確かに、それを言ってしまえばあらゆる可能性が全てゼロではなくなってしまうな。仮にナエさ、失礼プラリネがそのケースで憑依したのだとして。魂のみの召喚術を執行した組織は現時点で憑依先がプラリネであることを把握しているのかそうでないのかという疑問も出てくる」
「禁術ギリギリの開発実験なのよ? 発覚しないよう開発過程は余程綿密な筈じゃないかしら、憑依先が無作為という可能性は低いと思うわ」
「念のために、明日は朝一番で来客にできる限りの厳重なセキュリティチェックができる術を設置しよう。まずは最低限、玄関と通用口の二箇所。プラリネの部屋の全ての窓と扉にも」
「旦那様、奥様、ナエ様。また始まっております、流石にそろそろこの辺でやめておきましょう。プラリネお嬢様のお身体が茹で上がってしまいます」
ベッドの傍らで簡易解熱剤を調合し終えたセムラは、それを飲ませるべく私の上半身を抱きかかえて起こした。まずいどころの話ではない苦さに目玉が飛び出そうだし胃もひっくり返りそうだが、胃液を喉奥で間一髪留め、時間をかけてすべての薬湯を飲み干した。
ありがとうとお礼を伝え、私の身体を再び寝かせるであろうセムラに大人しく身体を預ける。……少し待ってみても、セムラはなぜかそれ以上動こうとしない。疑問に思ったのは私だけではなく、伯爵夫妻どちらも私達を見つめるばかりだ。
「私達にナエ様と呼ばれるのは、やはり今もお辛いですか」
「……辛くはないです。考えなきゃいけない遥かに重大なことができてしまったことは確かだから、そういう気持ちが今は湧かないっていうのもありますね。あれだけ豪語しておいて虫のいい話だけど、明日以降も話し合うならまだ苗として表に出てた方が良さそうですよね」
「提案なのですが。プラリネお嬢様とナエ様が意識同士でお体の内側で対話ができるのでしたら、お身体だけ眠りについて休まれている間に御二方の意見をおまとめになるというのはどうでしょう」
「ああ……それなんですけど、多分難しいです。プラリネの感情や意識が全てはっきりわかる訳ではなくて。プラリネが今までの人生で培ってきた英……公用語や教養全ては、身についてる分だけ私も使えるんですけど。なんて例えたらいいのかな……プラリネの部屋と私の部屋は隣同士だけど、部屋どうしを繋ぐ扉は全く存在しなくて、どっちかが外出するために引き戸を開けたらスライドした扉がもう片方の部屋を閉めてる、って感じです」
「それなら、プラリネが主導権を得られるまで待つしかないわね。どちらの意識なのか私達に分かるように、明日は合図や印を決めましょう」
「身体への負担を軽くするために、どちらの意識も出さずにしっかり眠り一切何もしない日を定期的に設けたほうがいいな」
「左様でございます。プラリネお嬢様もナエ様も、無理をしがちでいらっしゃるようです。主導権を握られていない間は可能な限り意識をお休めくださいませ」
身体の持ち主であるプラリネの意識に対して、私のほうからなるべく口調を合わせていったほうがプラリネへの負担はマシになるはずだ。そう考えていたが、なるほど皆の意見も一理ある。
主導権の有無関わらず常に両方の意識が覚醒している状態でどちらか一方がバランスを取るために気を張っているよりは、身体年齢を考慮するとどちらか休める時はしっかり休んでいたほうがいいのかもしれない。今だって、二十六歳の私の素のままで六歳のプラリネの身体を使っているのは開きすぎた年齢差による負荷が大きいはずだ。プラリネがこの世界の闇の深さにショートした後だからこそ、私の理解がスムーズに進んだ訳で。
先程の「スイプリ」地図を見ながらの会議において喉と舌を酷使し過ぎたのだとわかる。プラリネの年齢ではまだ習得していなかったはずの専門用語を、私の精神年齢に合わせてプラリネの身体が年齢不相応の無理をして伯爵の言葉から短すきる時間で詰め込み学習した反動であろう疲労感と発熱がすごい。
「流石にもうやめておいたほうがいいわね。本当にごめんなさいナエさん。お医者様の仰る通り、しっかり二週間休んでちょうだいね。プラリネもおやすみなさい、途中まででも頑張ったわ」
「おやすみナエさん。プラリネも、もし聞こえていたらおやすみ。二人ともいい夢を」
伯爵夫妻は私の手をひとたび握ってから、肩を抱いて寄り添い退出した。
セムラは私の額に巻いた手ぬぐいに触れ、氷魔法陣の効力を確かめる。精神年齢こそセムラよりも私の方が上であるため懇切丁寧な甲斐甲斐しさが少々気恥しいものの、この身体では不自由も多い。何だかんだでありがたいことだと思う。
「ごめんなさい、セムラさん」
「え? 何がでしょうか?」
適齢期だというのに結婚相手探しがどうでも良くなるほど溺愛している仕え主がたった数日のうちにこんなふう変わってしまったのだ。普段通りの態度を保つよう気を配ってくれている献身が、嬉しくもあり申し訳なくてたまらない。
どんな思いで私の介抱をしているのだろう。何よりも大切に思うプラリネの身体に異世界人が入り込んでいるこの状況は、厳密にはセムラがプラリネに仕えていると言えないはずだ。何ともいたたまれない。プラリネの意識は眠っているのだからセムラにはこれ以上無理させたくないのに、まだこの世界に来たばかりの私はきっと一人ではまだなにも出来ない。自分の身体がないという無力さが嫌だ。
「いつになるかわからないけど、魂だけこの世界に憑依した理由もその方法もちゃんと知りたいです。プラリネの身体にこんな無理をさせるのはいやだから。魂を取り出せる方法がわかったら、すぐに出ていってあげたいの。伯爵夫妻もセムラさんも、ロクムーリェさんも、本当のプラリネと一緒に幸せでいてほしい」
プラリネはどこまでも優しい子だ、『彼女』が憧れの女の子なのだとあんなに熱心に推していただけある。類は友を呼ぶと言うが、どこまでもどこまででも無私の人。主体性をもって自分で判断して動くことが苦手すぎて格上の人間に仕えることでその主体性のなさを肯定できるという理由から、ザッハー様の側近に上り詰めたほどの控えめな性格。なるほど確かに私の意識に対して何の拒絶反応もないはずだ。
ただ優しいからというだけではなく、あるがまま受け入れることが異様に得意というだけなのかもしれない。となればやっぱり最高魔導士に向いてるよプラリネ。にほ……和国語教育なら私に任せろ、この際ルート関係なく最高魔導士目指そうぜ。あっ、でも身体一つだから私このままじゃプラリネに教えてあげられない。何かいい方法はないものか。
「プラリネから私の意識を取り出せたときに、私の身体もちゃんとあるっていう状態が一番いいんですけどね。私の身体、もう向こうで火葬される頃じゃないかなあ。だったらだったでその時はその時かな。あっ心配しないで、私たぶん瘴気にはならないと思います! この世界を恨む理由ないですから! ちゃんと一人ひとつの身体のほうがプラリネもしんどくないでしょ、私の精神でぎゅうぎゅうに狭いのが続くのは可哀想だし」
「……そうとも限らないと思います」
セムラは私の肩を抱き起こしてから、ずっとそのまま私を抱えている。セムラも疲れただろうし、私を寝かせていないことに気がつくまでこのままの方がいいだろうか。
「このまま、お二人の魂が共存したままでもいいのではないかと。私は正直、そう思っています」
セムラの言葉に、私の頭は今度こそ思考を止めざるを得なかった。
私はたしかに、プラリネの身体から出ていきたいしそれが最善だと言ったはずだ。なのに彼女は、いま何と。
「聞き間違いではございません。私は、このままプラリネ様とナエ様がプラリネ様の身体に同居していてもいいと思っております」
「嘘、でしょう」
「何の偽りもございません。今の状態のまま、プラリネ様のお身体でこの世界をお二人ともに謳歌されればいいと、心から思っております」
信じられない。だってそんなの、私にとって余りにも都合がよすぎる。普通は出ていって欲しいのが当然だろう、プラリネの身体を使ってプラリネでない人間が自分と対話しているのだから。今の私はプラリネであってプラリネではないのだから。
「旦那様と奥様のお話のあとで、そのお身体に私の話は堪えると承知のうえでの無礼をお許しください。どうか聞いていただけませんか」
疲労だけではない。嘘をついているようには見えない、それがおかしいセムラの真剣な表情に気圧されたからでもある。私はそれ以上反論できず、大人しくセムラに抱かれたまま耳を傾けるしかなかった。
私の肩を抱きながら、セムラはぽつりぽつりと、雨粒が道に滴るように話り始めた。