9.麗しくてお綺麗な
アーヴァインが、死ぬはずはない。
ヴィクトリーヌは眠るのが怖かったが、夢を見ない日の方が多い。
怯えながら、それでも眠るしかなかった。
アーヴァインが殺される夢を見た。
右腕のないパトリックが無感情にベッドの上で身を起こしている。
部屋には物を投げつけた形跡がいくつもあり、壁際に控える侍女も小さく震えて身を縮めているようだった。利き腕を失った王子が癇癪を起こすのだと察しがつく。
左手でサイドテーブルを使えるようベッドの向きも考慮されていた。
部屋を訪れたアーヴァインは穏やかに微笑んで声をかけたが、ヴィクトリーヌは息子がひどく疲れている事に気付く。
それでも優しい声は当たり障りない話から始まり、もし何か書く場合は代筆も頼めること、左手に慣れるのはゆっくりで大丈夫だということ、まずは食事をとってほしいということ――
『るっせぇな!黙れよアーヴァイン!!』
苛立ったパトリックがアーヴァインの胸倉を掴んだ。
アーヴァインは息苦しそうにしながらも、ぐっと堪えて兄を見つめている。
『剣が持てなくて何が《剣聖》だ、今の俺に何ができる!?迷惑なお荷物はさっさと死ねって言えばいいだろうが!!笑いたきゃ笑え、俺は役立たずに成り下がったんだ!!』
『そん、なのは…兄上をわかってない奴らの、戯言だよ。』
『ハッ……お前にこそ騎士の何がわかるってんだ!!なぁ!!』
パトリックは怒りに任せてアーヴァインを殴った。
ろくに抵抗もできない彼は簡単に飛び、ゴッ、と嫌な音を立てて床に転がる。肩で息をするパトリックは舌打ちして顔を背けていたが、身じろぐ音もしないと気付いて不快そうに叫んだ。
『いつまで寝てんだ!さっさと出て…け……』
睨みつけた先で、アーヴァインは倒れたまま。
頭から流れ出した血が赤い水溜まりを作っていた。パトリックは呆然とそれを眺める。壁際にいた侍女はいつの間にか気絶していたようだった。
ノックの音がして、あの女騎士の声が聞こえる。
パトリックは声を出せないらしかった。
青ざめた顔で唇を噛みしめ、ただアーヴァインを見つめている。傍にいく事も助け起こす事もなく。
『パトリック?入るぞ』
返事がないからといって、女騎士は勝手に扉を開けて王子の私室に足を踏み入れた。
すぐに目を見開き、真っ直ぐアーヴァインに駆け寄って肩を小さく揺する。
『アーヴァイン様?……起きてください、目を開けて……』
やがて抱きしめた身体の心臓が動いていない事を知り、彼女は愕然として顔を上げた。
これまでと違って怒りや憎しみに染まるのではなく、ただ「パトリックがアーヴァインを殺した」という事実に頭がついていかないようだった。
『なぜだ、パトリック』
『五体満足の《剣聖》様にはわからねぇよ。』
『わかりたくもない。アーヴァイン様を殺す理由など』
『俺だって――…ッ、くそ……』
殺すつもりはなかったとでも言うのか、パトリックは残った左手で固く拳を握り締める。
彼女は涙を流してアーヴァインの身体をそっと横たえると、立ち上がった。腰に携えていた剣を抜き、暗い瞳でパトリックを見据える。
『《剣聖》が私刑すんのか。』
『称号などなんの意味がある?私は私だ。大切な人を守りたかった、私は……アーヴァイン様のもとに帰ってこられれば、それでよかったんだ。』
『殺せよ。俺はとっくに生きてる意味がねぇ』
『――……。』
ブラウンの瞳にゆっくりと絶望が広がるのを、ヴィクトリーヌは見た。
彼女はきっと理解したのだろう。
パトリックの心ではアーヴァインを殺した罪悪感より、これ以上無様に生きていたくないという自棄の方が強いのだ。殺してもらえるなら良かったとすら思っている。
『尊敬していたのに』
自分はこれほど傷ついているのに、アーヴァインを殺したお前の傷は浅いのか。
まるでそう問い質すように、彼女は言葉の刃を向けていく。
『背中を預けて戦った。身分など越えた友人だと思っていた、同志だと思っていた』
『やめろ!お前がどう思ったかなんて俺の知った事じゃねえ!!』
『私はお前を一人の騎士として信頼していたんだ!!』
『俺を騎士じゃ無くしたのは誰だよ!!!』
サイドテーブルに拳を叩きつけてパトリックが叫ぶ。
腕を失った戦いは彼女も参加していたのかもしれない。しかし、彼女は怯まなかった。
『片腕無ければ騎士じゃないのか!?お前が復帰できるようこの方がどれだけ苦心しておられたか!!』
『余計な世話だ!!さっさと殺せよ、お前コイツに惚れてたんだろうが!!馬鹿みたいに弱え奴でも、顔が麗しくてお綺麗ならそれでいいんだもんなあ!?』
『――ッお前はどこまで堕ちたんだ!!その口でアーヴァイン様を語るな、下郎が!!!』
空気がビリビリと震える程の怒号を上げ、銀色の刃が光る。
直上に構えたそれが振り下ろされても、パトリックは避けようとしなかった。
『そうだよ。俺は堕ちたんだ』
大声を聞きつけて部屋の入り口には他の騎士の姿も見えたが、止めるには遅過ぎる。
彼女は王子殺しとしてその場で捕えられ、王家の醜聞を隠すためにアーヴァインの死すらも背負わされて処刑台へ送られた。
前回も今回も、闇を映したように暗い目をした彼女は一切の弁明をしない。
汚名を着せられようが構わず、死にたいというより生に希望を見いだせないようだった。
よく晴れた日に、彼女はやっとほんの少しだけ微笑んだ。
アーヴァインの瞳と同じ色の空を見上げて。
それを最期の景色にするとばかりに目を閉じて、静かに命を落としたのだ。
「母上」
幸福を煮詰めたように愛しい声が耳を打つ。
ソファに座ったまま静かに泣いていたヴィクトリーヌは、一つ瞬きをして緩慢な動作でそちらを見た。
涙が頬を伝い、ぱたりとドレスに落ちる。
いつの間に部屋へ来ていたのか、十八歳になった最愛の息子が優しく目を細めて隣に腰かけた。ハンカチをそっと頬にあてて涙を拭ってくれる。
「どうしたの、そんなに悲しい顔をして。」
「……アーヴァイン……」
「はい、僕はここにいますよ。」
限界だった。
いくら親友でも、能力を明かした相手でも、王妃に「貴女の息子達のせいでわたくしの子が殺される」とは言えるはずもない。
人払いをして、ヴィクトリーヌは全てを打ち明けた。
未来を見るスキルがあること、アーヴァインの姿を見て国王に嫁いだこと、この先アーヴァインには幾度となく死ぬ可能性の高い未来が降りかかること。
アーヴァインは「たかが夢」と笑う事もなく、最後まで真剣に話を聞いてくれた。
「わかりました、母上。まずその女性を探す事にします。」
「…探してどうするのです?」
「そこまで僕を想ってくれるような人――…ふふっ、ちょっと照れますね……どうにか、守りたいと思います。」
自分が殺される未来を告げられたというのに、アーヴァインの瞳には恐れもなく、それどころか名も知らぬ女性を守りたいと言い出した。
ヴィクトリーヌは存在を確かめるように息子の髪を撫でながら、夢で見た女性の特徴を改めて教える。
ダークブロンドの髪、つり上がった目にブラウンの瞳で背は高く、実力のある騎士。
「早いうちに僕と婚約でもしておけば、もし夢の通りになっても情状酌量はつくでしょう。」
「……良いのですか?夢と変えるのなら、お前を想ってくれるかは…」
「構いませんよ。できる事はしておきたいんです。」
髪色や顔立ちだけでなく、さほど多くはない女騎士、それも王都の騎士団本部所属で、いずれ《剣聖》と呼ばれるらしい実力を備えた人物。
該当する若い女性などほぼいないだろうし、ヴィクトリーヌに面通しすれば確定可能だ。
アーヴァインは微笑みを保ったまま視線を少し下げ、白く細い指先を顎にかけて考える。
第一王子シオドリック、第二王子ナサニエル、第三王子パトリック。
それぞれが関わってアーヴァインと《彼女》は命を落としている。
――ナサニエルの病、メアリー妃の凶行……それが起きる状況は……
考えたくもない可能性が浮かんで、アーヴァインは背中に冷や汗が伝うのを感じた。玉座を継ぐのはあの兄しかいないというのに。
焦る心を隠して、まだ不安そうなヴィクトリーヌに明るい笑みを向ける。
「夜会は騎士団と話して、シオドリックの護衛を増やす事にします。」
「それが良いでしょう。……無茶をしないように。」
「はい。ナサニエルは全然ピンピンしていますが、メイナードの事は考えないといけませんね。」
「お前を裏切るなどあってはなりません。即刻解任するべきです」
「むしろ取り込みましょう。」
なんて事ないように言って、アーヴァインは人差し指をぴんと立てる。
夢の中で、あの無表情で有名なメイナードが不本意な表情だったこと。
シオドリックの誘いすら断ってアーヴァインに仕えていること、昔から見てきた人柄。
「本当にメアリー妃が命じたなら、必ず侯爵家が絡んでいます。彼女自身も不用意な嫌疑で捕える事は難しいですし、現行犯が望ましい。メイナードには万一の時絶対にこちらの味方をするよう話しておきます。」
「……大丈夫なのですか?」
「彼は賢いですから、自分がそういう風に動かされる場合は何が原因なのかわかるはず。状況に応じてですが――…末端を買収します。」
これは後に実現した。
メイナードは弱みを握られるなら恋人であろうと申告し、アーヴァインの手の者が密かに護衛につく。攫おうとした下っ端を買収し、メイナードに会わせて安心させた恋人の同意を得て、血染めの髪や愛用品を侯爵家へ流させたのだ。
後はそれを見せつけられたメイナードの演技次第だったが、普段が無表情なのでちょっぴり恐怖を滲ませれば充分だったらしい。
万が一。
それでも殺されてしまった時の為に、アーヴァインの次に狙われるだろうシャーロットとその子供の退路だけは、メイナードにも伏せて打ち合わせていた。そうはならなかったけれど。
「該当は一人。母上が見た女性はきっとこの子だ」
メイナードがよこした報告書を机に置き、アーヴァインはぽつりと呟いた。侍女も護衛も下がらせた自室で一人、立ったまま考える。
彼女を選ぶ理由はどうしようか。
せっかく強いのだから、狩猟でも誘って勇猛なところを見せてもらうか。
最初は自分を嫌っていたというカリスタ・モーガンスは、どんな目でこちらを見るのだろう。
「夢の未来で、僕は君をどう思っていたのかな?」
指先で机をトンと叩き、アーヴァインはくすりと笑った。
この娘に直接会ったなら、その答えが少しはわかるのかもしれない。
木々が鬱蒼と生い茂る森の中、華麗な技を見せた令嬢は凛と背筋を伸ばして立っている。
「いいねぇ、君!」
アーヴァインは嬉々として声を上げた。
大量の返り血に塗れた彼女は予想以上に格好良くて、
「強くて気に入った!僕の剣にならない?」
「お断りします。」
「――っ、あはははは!」
想像以上に、可愛らしい。