6.ただ一つの目的
とうとうナサニエルが倒れた。
無理が祟ったらしく、心身が衰弱して起き上がる事すらできないようだ。
その状況がさらに彼の精神を蝕む悪循環で、医師は「助かると思えない」と苦々しい顔で告げた。
「これは私への天罰だ」
アーヴァイン以外を下がらせ、ベッドに横たわったナサニエルは天井を見つめたまま呟く。疲労が色濃く残る顔は生気がなく、目に見えてわかるほど頬もこけてしまっていた。力強く鋭かった眼差しが今は儚いものに見える。
「本当に……身に余るものを望んだと、思い知らされたよ。国を巻き込んで申し訳ない。謝って済む話ではないが。」
「……兄上以外に、誰が王太子を継げたと言うんです。」
仮にナサニエルが辞退したとて、政務に疎いパトリックや顔だけ王子のアーヴァインでは臣下は納得しなかっただろう。
そんな事はわかっていて、それでもナサニエルは「私では足りなかった」と呟く。
何もかも。本当に何もかもが足りなかったと。
「なぁアーヴァイン、お前わかってたんだろう」
暗くなった金色の瞳がゆっくりとアーヴァインに向けられる。
いつも穏やかに微笑む顔だけ王子は、有能さを隠す事もなくなった今はただ複雑そうに眉を顰めていた。弟が口を開かないと見て、ナサニエルは自ら告白する。
「あの夜会で兄上を襲わせたのは私だ。」
毒を塗ったナイフでシオドリックが刺されそうになった事件。
人を介し、虚言でなく勘違いの誘発も絡ませ、犯人も獄中で自死に見せかけて殺した。絶対に蹴落としてやるという気概はなく、シオドリックがこの程度の策で死ぬのなら、天は自分に味方するだろうという一種の占いだった。
地面に立てた棒がどちらへ倒れるか、そんな程度の。
しかし僅かだろうと確かに、期待を込めて。
アーヴァインは必死でシオドリックを庇った。
彼のお粗末な身体能力では、間に合わなくて無様に倒れる可能性の方が高いのに。カリスタ・モーガンスがいなければ、間違いなくアーヴァインは死んでいたのに。
ナサニエルは致死毒としか指定しなかったが、塗られていたのは激痛に苦しみ悶えて死ぬような猛毒だった。報告書を読んで手が震えた事を覚えている。ナサニエルはシオドリックがいない世界を見てみたかったが、敬愛する兄に苦しんで死ねとは思ってもいなかった。
「…うん、わかってた。それはきっと……シオドリックも。」
アーヴァインの言葉にナサニエルは目を見開き、泣きそうに顔を歪めて目をそらす。
考えてみれば当たり前の事だ。
優秀な兄が突き止められないわけがない。シオドリックは誰が黒幕かわかっていた上で、深くは調べさせなかった。優秀な宰相補佐を残したかったのか、王家の醜聞と思ったのか、兄弟の情なのか、今となってはもうわからないけれど。
一筋の涙に気付かないフリをして、アーヴァインは視線を床に落とした。
「私は王太子を辞する。父上には心労をかけてしまうが」
「……うん。」
「アーヴァイン、私の妻に気を付けろ。行動に制限はかけているが、全てとはいかない……シャーロット様を頼む。」
第一王子の妻と第二王子の妻。
二人もまた比べられる運命だった。
筆頭公爵家の令嬢だったシャーロットにナサニエルの妻は劣等感を持ち、結婚からしばらく経ってもなかなか子ができない事も彼女を焦らせた。シャーロットはとうに男児を産んでいるのに。
焦りを隠して微笑む彼女に、ある貴婦人がほんの悪戯心で噂を吹き込んだ。
ナサニエルは元々、シャーロットに想いを寄せていたのだと。
それは事実無根だったが、神経質になっていた彼女の心臓を刺すには充分で。ナサニエルがいくら否定したところで、彼女は本心から信じる事ができないようだった。口では何とでも言えるのだから。
シオドリックが死んでナサニエルが王太子になり、ますます彼女は「男児を産まねば」と自分を追い込んだ。
しかし男児どころか子ができず、国政と戦争の対処で多忙を極めるナサニエルに夜の相手をしろと詰め寄るにも限度がある。
そんな中で夫が倒れ自らの地位が危うい時に、シャーロットがアーヴァインに娶られるのではという噂だ。
あまつさえシャーロットの息子はアーヴァインとの子かもしれない、などと。
羨望は妬みに、尊敬は失望に。
明らかに様子がおかしくなった妻を、ナサニエルはやむなく実家に引き取らせ見張るよう申し付けた。
そんな事情をわかっていて、アーヴァインはしっかりと頷いてみせる。
シオドリックとシャーロットの子を喪うわけにはいかない。
「ご安心を。兄上はまず自身の回復だけ考えてください」
「……すまない。本当に…」
こうやってじわじわと、ナサニエルは自分を責めて死んでいくのだろう。
沈痛な面持ちの兄にどんな言葉をかければ救えるのかもわからず、アーヴァインは誰もが褒めた美しい微笑みで「大丈夫ですよ」と言うしかなかった。
――何が大丈夫なんだ。自分で言っておいて、本当に何の根拠もないよね……。
シオドリックならどう声をかけただろう、そう考えたところで意味はない。長兄の言葉と自分の言葉では、ナサニエルの受け取り方も違うだろう。
退室したアーヴァインはメイナードと合流し、足早にシャーロットの元へ向かった。
「ッまた来るぞ、避けろ!!」
「ぐっ――」
焼け野原となった周囲を煌々と照らす、人の顔ほどの大きさがある火球。
ボボボボッ、と音を立てて現れたそれらを避けようと走り、飛び退り、水の魔法で対処を試みるが数が多過ぎる。数秒の後に火球は膨れ上がり、ドンと爆発音を響かせて激しく飛び散った。
「うぁああああッ!熱い、あづッ…!」
「おい、動くな!水をかけてやる!」
炎を受けた騎士が身体を焼かれる痛みと火を消したい焦りで地面を転げ回り、せっかくかけようとした水が無駄になる。パトリックは思わず舌打ちした。近場の水源といえば基地にある井戸水だが到底心もとない。水の魔法を使うしかないが、魔力は有限だ。
「全員先に水をかぶれ、後回しにするな!!カリスタ、何とかあいつに近付けねぇのか!?」
「爆風で押し返される!パトリック、何なんだあいつは!?」
「――たぶん、シオドリックを殺ったスキル持ちだ!」
「っ!!」
カリスタは目を瞠って遠くに見える人影を凝視した。
確かにこれほどの威力、建物内へ一気に発動させればひとたまりもないだろう。逃げ場がないのだから。シオドリックの笑顔と泣き崩れたシャーロットの姿、悲しみに染まったアーヴァインの空色の瞳を思い出し、胸の奥に怒りが湧き上がる。
視界ははっきりしていた。
遠距離で魔法を発動しているのはどうやら黒髪の男で、淡々と次の魔法を唱えているのだろう、ずっと唇を動かしている。連発はされないが距離を詰めるまでに間に合わず、爆風で押し返されるのが厄介だ。強引に破ろうとすればカリスタの身体がもたない。
遠い王都へ報告は飛ばしたが、援軍が来るまで何日もかかる。その頃にはとっくに決着はついているはずだ。
全滅か、勝利か。
『もし君が戦に出る事があっても、絶対に無事で僕のところへ帰ってきて。』
カリスタは剣の柄を固く握り締めた。
魔力は決して多く残っているわけではない。カリスタは風の魔法が、パトリックは火の魔法が得意なのであって、水の魔法は使えなくはないが少しだけだ。
曇り空は地面から立ち昇る煙で汚れ、まだ朝だというのに辺りは焦げ臭く清涼さの欠片もない。
「……パトリック。まだ魔力はあるか?」
「あんまねぇ」
「…そうだよな。」
「けど何とかしてやる、何か策あんのか。」
二人の活躍はとうに帝国の上層部にまで届いており、早く殺せと命令が出ているらしかった。
姿を見せればいの一番に狙われ、数で押せと集団で襲い掛かられるのもしょっちゅうだ。隙を狙って放たれた弓矢を切り払い、カリスタはパトリックに策を伝える。
「――…負担をかけて悪いが、私の頭では他に浮かばない。」
「俺のが浮かばねぇよ。ここまで耐えてるだけ全員褒めてやりたい所だ……やるぞ。」
「いいのか?」
「死んだら嫁の事頼むわ。気ぃ強いけど悪い奴じゃないんだ」
「生きて帰ろう、パトリック」
「はっ…そこは「頼まれた」って言っとけよ。ったく」
再び火球の大群が現れ、パトリックは全力で距離を取った。破裂する火球は現れたその場から動く事はない。
カリスタも別の方向へ退き、この隙に黒髪の男のもとまで突破しようと風の魔法で空へ舞い上がった。しかし火球を飛び越す前にそれが膨れ上がり、ドンと破裂する。
爆風をもろに食らったカリスタは炎に包まれて吹き飛ばされていった。
「アーヴァイン」
緑青色の長髪を揺らし、側妃ヴィクトリーヌが蒼白な顔で駆け寄る。
たった今部屋に入ってきたばかりのアーヴァインは、震える母の手を握って安心させるように微笑んだ。
「ご機嫌よう、母上。僕は今日も元気ですよ」
「っ……えぇ…」
「きちんと食事をとってください。皆心配してます」
「食欲がないのです。アーヴァイン……あぁ……」
アーヴァインは今にも倒れてしまいそうなヴィクトリーヌの手を引き、ソファへ誘導してそっと座らせた。ヴィクトリーヌはそのまま両手で顔を覆ってしまう。
「行かないで…もう、ずっとこの部屋にいてください。わたくしは、わたくしはお前に会うためだけにこの国に来たのです。」
「カリスタはまだ戻っていないし、必ず護衛騎士を連れますから。」
「早く殺して」
「母上」
細い肩に優しく手を乗せ、アーヴァインは窘めるように呼んだ。
ヴィクトリーヌは明らかに憔悴している。
「あの女を、パトリックを、早く……お前を奪われるくらいなら、先に…」
「……そんなに思い詰めるほど僕を愛してくれて、ありがとう。母上」
温かく自分を抱きしめる息子の体温を感じながら、ヴィクトリーヌは顔を上げられなかった。アーヴァインは感謝を伝え愛情を返しつつも、母の意に沿うとは決して言ってくれないのだ。
ナサニエルが臥してしばらく、もういつが《その日》なのかもわからないのに。
「――…どういう、事ですか?」
戸惑いを隠せない声がした。
ベッドに寝かしつけた我が子から離れたシャーロットが、不安げな顔でこちらへ歩いてくる。
澄み渡った空のように落ち着いた瞳で、アーヴァインは彼女に向かいのソファを勧めた。
「義姉上。僕がいなくなった時の話をしよう」
柔らかい声で紡がれた言葉にシャーロットは目を見開き、ヴィクトリーヌは嗚咽を漏らした。