5.玉座を狙う者
王太子の訃報に嘆く暇は無い。
国王は宰相補佐だった第二王子ナサニエルを立太子し、士気を上げるために第三王子パトリックは自ら志願して前線へ出向いた。
第四王子の妻であり民衆から慕われるカリスタもだ。新婚早々二人は離れ離れとなった。
「お前にも表舞台に出てもらうぞ。アーヴァイン」
襟足を刈り上げた金髪に鷹のように鋭い金の瞳。
有無を言わさぬ真剣な顔でナサニエルは言い放った。元々アーヴァインの人脈の広さと思慮深さ、継承争いによる内乱を避けるための学園での成績操作は察していた。目立ちたくないならあくまで秘密裏に外交官として働かないかと誘ったのもこの兄だった。
何よりアーヴァインの母であるヴィクトリーヌの母国は食料に恵まれた国だ。血族の縁があるからには、同盟国という契約以上の協力を求めたい。
「わかっています。兄上」
声がかかる事を予想して既に準備はしていた。
アーヴァインは改めてナサニエルに臣下の礼を取り、国王の任命によって宰相補佐となる。
《顔だけ王子》の登場に不安そうな顔をする者もあからさまに嫌そうな顔をする者もいたが、アーヴァインがメイナードと共に流暢に他国の言語を操り、近年の各領地の情勢もつぶさに把握しているらしいと気付いて彼を見る目は変わっていった。
「パトリーック!」
「あぁ、そっちは任せたぞカリスタぁ!!」
戦場を縦横無尽に駆け回る。
第三王子パトリックは騎士隊長の一人で、前髪を上げた金の短髪に灰色の瞳を持つ、カリスタより十センチも背の高い大柄な男だった。
カリスタは最初こそ年上で騎士団の先輩で王子であるパトリックに遠慮もあったが、いざ戦いが始まればそんな事は関係ない。
互いに一人の騎士で、仲間で、戦友だ。
「風よ吹きすさべ押し通せ、私の気が済むまで!!」
悪鬼羅刹かという気迫でカリスタが叫ぶ。
風の魔法の後押しを得て己の身体や剣を加速し、その重みを増す事において彼女の右に出る者は無かった。特に、たった一度唱えれば集中が持続する限り風の威力も方向も自在に変化させられること。
それは魔力を持つ者の中でもほんの一握りが、相当な鍛錬を要して成しえるものだったが、カリスタは恐ろしい事に入学前から《勘》でそれをやってのけた。
正しく「天才」と呼ばれる部類の人間だ。
たかが女と侮る事なかれ、
カリスタ妃が駆け抜けた後には敵の血や死体が道となって残る。
敵の攻撃も魔法も、まさしく風のように早い彼女はほとんどかわしきって特攻した。火の魔法の余波を受けて髪や服の末端は焦げ、見極めの難しい風の刃が頬を掠め、滝のような威力で放たれた水の魔法に足をとられかけ、それでも。
眦を吊り上げ、ブラウンの瞳を爛々と輝かせてカリスタは敵兵を斬った。
帝国の兵一人一人はツイーディア王国の騎士に勝てないが、なにせ数が多い。時として自爆覚悟で火薬を抱き込んでいる者も、魔法が使えないフリをして距離が近付いてから放つ者もいる。
戦場で卑怯だ何だという言い訳は通用しない。
強さこそ正義。
それが帝国の掲げるただ一つの言葉であり、弱肉強食を体現する皇帝は強ければ誰でもなれる。皇帝を殺した者が次の皇帝であって、穏便な退位が済む事など歴史上でも数少ないという。
血に濡れた国。
命を持つ者という自覚があるかもわからない敵兵を延々と目の当たりにし、カリスタは相手がどれほどいかれた国なのかを実感した。
――こんな国の奴らに、王太子殿下を会わせるべきではなかった。
結婚を祝福してくれたシオドリックにアーヴァインがはにかんで笑っていた姿を思い出す。尊敬する長兄に向けた彼のあの笑顔は、二度と見られないのだ。
腸が煮えくりかえる思いがして、それでも目の前にいる生気の無い敵兵はシオドリックの顔すら知らない男達。悪いのは皇帝なのだろうが、本人が前線に来る事などない。
斬って斬って斬らなければ、戦いを終わらせなければ、カリスタはアーヴァインのもとに帰れなかった。
戦いは永遠ではないとはいえ、次がいつかもわからず断続的に繰り返されていく。
王都から人員や食料、備品などは届けられた。
代わりに疲弊した騎士が戦線を離れる事もあったが、パトリックとカリスタほど動ける者もそうはおらず、士気を維持するためにも二人は平気なフリをして前線に立ち続けなければならなかった。
「……気ぃ狂っちまうな。」
仮眠から起きて交代に来たカリスタに、パトリックがぼそりと呟く。
夜明け前の薄闇を遠い目で見ていた彼はすぐにはっとして取り繕うように笑った。
「冗談だ、冗談――」
「いや、わかるよ。」
騎士隊長である自分に並ぶ、否、自分を越える実力を持ったカリスタ。
そんな彼女が初めて、ひどく疲れた声で目を細めたものだから。パトリックも作った笑顔を消して、苦い気持ちでため息を吐いた。
物資と共に届く妻からの手紙は最初こそ嬉しかったが、元々筆不精のパトリックが戦場でゆっくり文をしたためられるわけがない。返事がないせいだろう、最後の手紙は半年以上前に数行が届いたきりだ。それもカリスタとの仲を疑うような失礼なもので呆れてしまった。
カリスタも筆不精で何も書けないくせに、月に一度は届く数枚の便箋を大事にしまっては、時折取り出してニヤニヤ眺めている。周りにバレてないと思っているのは本人だけだ。
パトリックは騎士団に入ってから遠征任務も経験してきたし、王族には珍しくこの地での小競り合いに参加した事もある。それでも戦争は初めてで、これほど長期間緊張状態に置かれた事はなかった。
極限状態の人間とは恐ろしいもので、さっきまで普通だった男が奇声を上げたり、生物としての本能なのか、数少ない女であるカリスタを襲おうとした者も少なからずいた。服一枚めくる事も叶わず全員叩き出されたが、その度に対応に追われ睡眠時間を削られた。
何時間安全に眠れるかもわからず、毎日風呂に入れるわけもなく、音を立てないよう食事をする時もあり、時に部下や同僚が死んでいく。人を殺し、殺されるかもしれず、それでも自分を奮い立たせて部隊を率いなければならない。
パトリックの限界が近い事をカリスタもわかっていた。
短く切り落としてしまったダークブロンドの髪を触りながら、言葉を選んで口を開く。
「時々……自分が何を斬っているのか、これで正しいのか、わからなくなりそうで怖くなる。こんなに人をたくさん殺す人生になるとは…さすがに思ってなかったから。」
「…そらそうだ。」
「私は戦争を起こした奴が嫌いだ。シオドリック殿下を殺すよう命じた奴が大嫌いだ。でも…だから目の前の敵を堂々と斬るのかって聞かれたら、それは違うんだよ。」
カリスタは小さく首を振り、未だ朝日の差さない薄暗い空を見据えた。
ぽつぽつと浮かんだ星の光は消えかけている。
「アーヴァインと約束したんだ。恨みとか憎しみで……前がよく見えないなって気付いた時。そういう時は、自分が冷静かどうか考えるって。」
憎き皇帝本人はここにいない、その怒りの行き場はどこなのか。誰にぶつけるべきなのか、つい探しそうになるけれど。正解が手近にあるとは限らない。すぐに解決するとは限らない。
今は囚われるよりもっと、大事なことがある。
「パトリック。私達が敵兵を斬るのは、あいつらを進ませたらこの地に住む民が困るからだ。帝国が憎いからじゃない。そう思ったら私は前が見えるし、私達の剣は濁っちゃいないと思えた。それならきっと……」
『君の強さと優しさを信じてるからこそだよ。どうか誇り高いままでいて、愛しい人』
――きっと、アーヴァインがそう言ってくれた《私》のままのはずだから。
カリスタは数秒だけ目を閉じて穏やかな笑顔を思い浮かべ、少しだけ口角を上げて目を開く。
消えかけた星々の光は、さっきより強く輝いて見えた。
「私を誇り高いと言ってくれたアーヴァインのために、私はちゃんと前を見て剣を振る。」
早く、あの人のところへ帰るために。
そう続けて、カリスタはパトリックに向けて握り拳を差し出した。
「もうちょっと頑張って戦おう。終わらせてやろう」
「…しょうがねぇな。」
とん、と拳を合わせて、パトリックは「あ~あ」と吐き捨てるように苦く笑う。
「ここ仕切ってる将軍でも出てくりゃあなぁ。さくっと終わらせられんのに。」
「そう願おう。今は私に任せて寝てくるといい、パトリック。」
「だな。お言葉に甘え――…」
空が光った。
まるで突然昼間になったかのような明るさが、大量に発動された火の魔法だったことも。それをたった一人の男が放っていたことも、二人が知るのはもう少し先の事だった。
ナサニエルが日に日に弱っていくだろう事を、アーヴァインは知っている。
シオドリックが完璧過ぎたのだ。
ナサニエルは彼ほど早く答えを出せないし、彼ほど要領が良くないし、彼ほど部下に優しくもなければ、彼ほどの器はないという強い自覚を持っていた。生まれてからずっと比べられてきたのだから当然だ。
シオドリックを支え、その負担を減らす頭脳であろうと思って生きてきた。代わりに自分は、決して間違ってはいけないような重要な局面で判断を下さずに済む。
だが、シオドリックは死んだ。
ナサニエルが王太子になってしまった。頼れるシオドリックの側近もほとんどが一緒に命を落とし、残った者は悪気がなくとも無意識に二人の能力を比べている。
元々の気性が生真面目なナサニエルは徐々に精神をすり減らしていった。
国王はそれを予想して気負い過ぎるなと声をかけ、アーヴァインは率先して負担を減らそうと尽力していたが、余計に重圧となったようだった。
戦争は終わらない。
パトリックとカリスタの息の合った戦いは撤退してきた騎士の口からも語られ、気安く呼び捨てし合っている事も、強者同士気が合うらしい事も、女として狙われたカリスタをパトリックが庇った事も、自然と話が広まっていった。
騎士は英雄達の友情を語っているつもりでも、受け取る側の人間はそうは思わない。下世話な噂話もひそひそと囁かれるようになっていった。
やがてナサニエルの不調が少しずつ目に見えてきたところで、代わりに采配するアーヴァインが文官達の間で注目されだした。
いまいち精彩を欠く王太子より、遠い前線で頑張ってはいるらしいが終戦にできない第三王子より、国民からも支持されている第四王子の方が良いのではないか?
夫の死に泣きくれるシャーロット妃をアーヴァインが早期に保護し、側妃ヴィクトリーヌの庇護下に置いていた事も露見した。
王妃のもとでなかったのは単純に新しい王太子妃となるナサニエルの妻への配慮だったのだが、人の噂は予想外の方向に転がっていく。
アーヴァインはこのまま公爵令嬢であるシャーロット妃を娶り、玉座を狙うのではないか。
彼女と共に姿を隠している子供は――…本当に、シオドリックとの子だったのか。