3.芸術的で壊滅的
新米騎士で貧乏男爵令嬢のカリスタ・モーガンス。
そんな女が第四王子アーヴァインの婚約者になったと、王都に激震が走った。
かつて彼の《お友達》だった令嬢やご婦人がたは顔を引きつらせて扇子を握り締め、けれどすぐに力を抜く。誰にでも分け隔てなく優しかったアーヴァイン。学園では常に何人もの令嬢が取り囲み――つまりは、誰とも二人きりにならなかったアーヴァイン。
美貌の高位令嬢ではなく、身分の低い騎士を選んだのだ。
つまり彼女達は男爵令嬢ごときに美貌で負けたわけでも、財力で負けたわけでも、性格で負けたわけでもない。
カリスタ・モーガンスは剣闘大会で男を差し置いて優勝するような山猿である。相手にする方が無様だと、殆どの女達は上品に微笑んで婚約を祝福した。
などという事は、カリスタ本人はよくわかっていない。
お喋りより任務、お菓子より飯、刺繍より鍛錬。
王子の婚約者を騎士団宿舎で寝泊まりも外聞が悪いと城に部屋を与えられ、侍女を付けられ教師も付けられて辟易していたが、カリスタは一つ考えた事があった。
婚約した以上、いつまでも「嫌いだこの腑抜けめ」と思っていたって仕方ない。
鍛えるのだ、アーヴァインを。
第四だろうが何だろうが、この魔法大国ツイーディアの王子として立派になるように。
十九歳だろうと何だろうと、人が変わるのに遅いという事はない。
顔だけ王子がただの王子に進化したら、それはきっと国のためにもなるだろう。
決して、妃教育の授業が苦しくて同じ目に遭えと思ったからではない。
「――というわけで、殿下。私と一緒に運動でもいかがですか。」
スンと澄ました顔に冷たい目でもって、カリスタはアーヴァインに提案した。
彼は今日も今日とて侍女達がこっそり見惚れる美貌である。艶やかな金髪は今日は低い位置でまとめられており、空色の瞳を抱いた目が優しく細められていた。
「うん、いいよ。」
「しかし健康のためにもですね……、え?」
「着替えてからで大丈夫?」
「もちろんですが……」
嫌がるだろうと思っていたカリスタは目をぱちくりさせている。
予定はないのかと側近のメイナードに視線をやるが、彼も淡々と動きやすい軽装を準備するよう指示を出していた。突っ立っているカリスタにアーヴァインが色っぽく首を傾げる。
「着替え、見たいの?」
「御前失礼しますッ!」
目にも止まらぬ早さで一礼して退室した。
閉じた扉の奥からいつもの笑い声が聞こえて悔しくなってくる。
――鍛えてやる、絶対に!!
そう思った時もあったな……と、カリスタはよく晴れた青空を見上げていた。
「現実から目を逸らさないでください。」
「……そうだな。」
無表情のメイナードに促され、渋々視線を下げる。
場所は騎士団が所有する演習場の一つだ。汗ひとつかいていないアーヴァインは真っ平らに均された地面に座り、良い天気だなとでも言いそうな顔で微笑んでいる。頬や衣服にどれだけ土汚れがついていようと、彼が存在するだけでまるで絵画のようだった。
「私の認識が甘かった……いや、見識が狭かったんだ。コレを事実として受け止めなければ、私は凝り固まった常識の中でしか戦っていけなかっただろう。」
「コレほどの人間もそうはいないと思いますけどね。」
七歳の時からアーヴァインの従者を務めてきた側近、メイナードはカリスタよりずっと早くに彼を鍛えようとし、挫折した者の一人だ。
この王子をどうにかして鍛えられたなら、その者には王家から莫大な報奨が出るだろう。
「なかなかの言いようだなぁ」
そう言って笑うアーヴァインは、汚れてはいるものの何も落ち込んだ様子も、恥じる様子もない。しかし彼を見るカリスタの目には明らかな憐憫がこもっている。
「この状態では……急ぐ時はどうしているのです?」
「俺が担ぎます。」
「……殿下。今まで、腑抜けだとか戦わないクズだとか、腰抜けの女たらしと思っていてすみませんでした。」
「何か知らないのも加わってない?」
「まさかこれほどひどい人間が存在していたとは…」
カリスタは頭を振ってこめかみに手をあてた。
鍛えるどころか、アーヴァインは運動する事もできなかったのだ。
走りましょうと誘えば、一歩目で自分の足が絡まって転び。
もう一度挑戦させれば、何もないところで躓いて転び。
小走りでと言えば、水たまりもないのに滑って足を挫いた。メイナードが待機させていた医師がすぐに治癒の魔法をかけ、その日は終了した。
後日、剣の素振りに誘った。
真剣は絶対にやめましょうとメイナードに止められたので、アーヴァインは木剣だ。
持つことはできたので素振りの手本を見せると、「カリスタは見事だ」と愛らしい笑顔で拍手されちょっといい気になった。
ではやってみてくださいと言った直後、振り上げたアーヴァインの手から木剣がすっぽ抜けた。
しっかり握っておくようにと注意してもう一度やらせると、剣を振り上げたアーヴァインが後ろから地面に倒れた。何が起きた。自ら後頭部を叩きつけにいったのかと思う勢いで、カリスタは思わず真顔で彼を眺めてしまったほどだ。
咄嗟に滑り込んだメイナードが支えたものの、無理な姿勢を取ったのでまた医師が飛んできてその日は終了した。
後日、少し不安になってきたカリスタは自分がすぐ横についた。
しっかり柄を握らせ、ゆっくり振り上げさせ、ゆっくり下ろす。三回ほど終えたところでよく頑張ったと褒めた。照れたように笑っていたアーヴァインは顔を引きつらせており、医師が飛んできてじっくりと診察して首を横に振った。腕と脇腹の筋を痛めたらしい。
後日、ちょっと怖くなってきたカリスタは神妙な顔で「運動のための筋肉をつけさせよう」と言った。この頃にはメイナードに敬語を使わなくなり、医師とアイコンタクトができるようになっていた。
大袈裟だなぁと笑うアーヴァインに、まず早歩きはできるのかと聞く。本人は自信ありげに頷いた。おそるおそる演習場を少し歩こうと誘い、カリスタも隣にいる事にする。
ちょっとずつスピードを上げ、やや早め、から早歩きに移行した時だった。
何もない所で躓いたアーヴァインをカリスタは支えようとしたが、反射的に足を踏み出したらしいアーヴァインは地面を蹴り上げ、彼女の腕を避けるようにして宙を舞った。
奇怪な空中前転はいっそ芸術的であったと、医師は評する。
カリスタは目をカッと見開き、顔面から落ちそうだったアーヴァインを辛うじて確保した。
そして今日である。
アーヴァインに早い動きをさせる事に恐怖を覚えたカリスタは、その場でゆっくり片足を上げてみましょうと優しく話しかけた。体幹を鍛える――否、最低限の機能をもたせるのだ。
元々世話焼きで弱い者を放っておけない彼女にとって、アーヴァインは目を離したら死ぬ小鳥のような存在になっていた。
両腕を伸ばしてバランスを取り、なんなら私の手にもお掴まりくださいと言う過保護ぶりである。ただ片足を上げるだけなのに。
これならできるさと笑ったアーヴァインは案の定バランスを崩し、驚いて腕を振り回すものだからカリスタも彼の手を三度も掴み損ね、諦めて彼の身体そのものを地面ギリギリで支えた。
仕方なしに一度そのまま座らせて手を離したところ、「ありがとう」と礼を言ったアーヴァインは立ち上がろうと手を地面につき、ズルッと滑らせて横に転がった。それもなぜか二回転して土まみれになった。不思議だ。
「よくわかりました。なんと言うか、壊滅的に運動ができないのですね。」
「そうなんだ。僕としては、学園で《護身術》とか《剣術》を取ろうと思ってたんだけど」
「俺がお止めしました。」
「賢明な判断だったと思う、メイナード。……事情を知りもせずに怠惰などと言って、本当にすみませんでした。」
いつもはつり上がっている眉をしゅんと下げ、カリスタはアーヴァインに手を貸し、背中も支えながら丁寧に彼を立たせる。
変わらぬ美貌で笑うアーヴァインの目は優しかった。
「気にしなくていいよ、カリスタ。あまり大声で言える事でもないし、知らなくて当然なんだからね。」
顔だけと言われる第四王子の懐の深さに感激し、カリスタはぐっと唇を引き結ぶ。
アーヴァインは男爵家だの、所詮女のくせにだのと馬鹿にする事もなく、カリスタ自身の強さを最初から認め、褒めてくれていた。狩猟の時に動かなかったのは怖気づいたのではなく、自分が動くとその分騎士達の仕事を増やすからだ。
婚約こそ強引だったが、この有様では確かに妻も護衛に長けていた方が良い。
そして弱いアーヴァインを馬鹿にせず、きちんと支えるだけの気概があり、それでいて彼を傀儡にと目論む狸親父達に目をつけられない程度に、後ろ盾になりえない家の令嬢。
根が真面目であるカリスタの中にはもう責任感が芽生えていた。
アーヴァインを守らねばならない。
「殿下。できるだけ早く妃教育を終え、近衛としてお傍にいられるよう頑張りますね。」
「ありがとう、カリスタ。来月には僕もダンスの授業を手伝えるからね。パートナーとして慣れておいた方が…」
「はっ!?何を仰るのですか、貴方にダンスなど二十年は早い!!」
骨折でもしたらどうするのかとカリスタは恐ろしくなって首を横に振った。治癒の魔法があるとはいえ、身体の内部がやられるとなかなかすぐには完治しない。
アーヴァインは自信ありげにぱちんとウインクした。年頃の少女が卒倒しそうな美しさである。
「大丈夫、任せておいて。僕はダンスならできるんだ」
「………メイナード?」
「本当の事です。」
「いや嘘だろう!?こんなッ…こんなにダメなのに!!」
「あはは」
片足も満足に上がらないゴミのような体幹と早歩きもできないクソみたいな運動神経だ。
カリスタは絶対に信じられないと言うが、メイナードは無表情に「落ち着いて考えてみましょう」と前置きして話し始める。
「まず、本当にまったく筋肉がないなら剣を振り上げる事ができません。」
「……確かに。」
「体幹が役立たずなら、普段の姿勢も王族として失格ラインのはずです。」
「……そうだ。」
「一切の運動ができないのなら、殿下はもっとだらしない身体つきでは。」
「……あぁ…。」
アーヴァインは書類の束を持ったり、式典に出る際に帯剣してしゃきっと歩く事はできる。普段の姿勢もカリスタと比べれば天と地ほどに違いがあり、身体はヒョロガリでもなければ太ってもいない。
つり上がった眉をぎゅっと顰め、カリスタは改めてアーヴァインを見た。
輝かんばかりの美貌だ。
「じゃあ何で鍛錬できないんだッ!!!」
「わかりません。」
「不思議だよねぇ」
早歩きで失敗する男がなぜダンスできるのか。
まったく原理が不明だが、メイナードが言うには腕前はかなりのものらしい。カリスタは自分が失敗して足を踏んだらアーヴァインの骨を折るのではと心配になった。
「来月…来月ですね?猛特訓しておきます。」
「張り切ってくれるのは嬉しいけど、無理はしないでね?僕のお姫様」
「………、え?」
「うん?」
自然な仕草で手を取られ、ちゅ、と手の甲に唇を落とされていた。
どうかしたのと空色の瞳が見上げてくる。アーヴァインはカリスタよりほんの少しだけ背が低いのだ。
――おひめさま。おひめさまと言ったか、この方は?可愛げのない私を?そして手に、手に…や、柔らかい感触が……
「わああああああああっ!!」
「カリスタ?」
飛ぶような速度で走り去った婚約者を呆然と見送って、アーヴァインは目をぱちくりと瞬かせる。メイナードは「そりゃそうでしょう」とでも言いたげに一人頷いており、いつも通り控えている医師はにこにこと笑っていた。
カリスタはこの日を境にアーヴァインを見ると顔が真っ赤になる奇病にかかってしまい、いると思ったら次の瞬間にはその場から消えてみせるという隠密の手腕を発揮した。
落ち着くまで二週間ほど何かを振り払うように妃教育と鍛錬に励み、試合に付き合わせ過ぎて騎士団の同僚達から隊長へ陳情が提出されたのだった。