10.愛する貴方
夜、二人はベッドに並んで腰掛けている。
「髪切ったんだね。短いのも似合ってて可愛いよ」
アーヴァインがそう言って美しく微笑むものだから、カリスタは頬を染め咄嗟に顔を背けて否定した。
「か、かか可愛いとか言う必要は別にない。戦うのに邪魔だったから、」
「耳まで赤くなってるのがよく見えて……とってもかわいい。」
「ミ゛ッ!」
自然な動きで近付いたアーヴァインが耳元で囁き、肩を跳ねさせたカリスタは瞬時に立ち上がり距離を取る。ゾワゾワした感覚が落ち着かなくて、吐息のあたった耳を手で押さえた。
「そ、それ前に禁止だって言った!言ったぞ!」
「あははは。僕は「そっか」とは言ったけど、「うん」とは返さなかったよね?」
「そっ……!」
それはズルイのではないだろうか。
カリスタは目を見開いて抗議しようとしたが、アーヴァインがあまりに優しい眼差しを向けるので、なんだかドギマギしてしまってそれどころではなくなった。
「そんな所にいないで、こっちにおいで?一緒に寝よう」
「う……ううぅ。」
嫌だっ!と突っぱねてやりたい気持ちも僅かにあったものの、ようやく会えたアーヴァインの側にいたい気持ちには逆らえない。
いっそ呑気なほど余裕たっぷりに寝転んだアーヴァインと目を合わせないようにしてベッドに潜り込む。
広げられた腕は男性の中では少し細いけれど、おずおずと近づけばしっかりカリスタを抱きしめてくれた。自分より断然弱いはずのアーヴァインの腕の中は、不思議と安心できる。
それにとっても良い香りがするので、カリスタは鎖骨の見える彼の胸元にぐりぐりと擦り寄って、なめらかな肌触りまでしっかり堪能した。
「ふふ」
アーヴァインが嬉しそうに笑い、髪を梳くように優しく撫でる。
ひと撫でがすぐ終わってしまう事を考えると、侍女たちに口酸っぱく言われた「髪を伸ばしましょうね!」という言葉も頷ける。
いつの間にかうっとり閉じていた目を開いて顔を上げると、優しく微笑む夫が見える。嬉しくなって微笑み返せば、アーヴァインは軽くついばむように唇を合わせた。カリスタの頬がぽんと赤くなる。
「ねぇ、カリスタ?」
「はい……」
「僕を見て」
つい視線を右往左往させたせいだろう、アーヴァインの指先が促すように頬にあてられた。
どうしてか身体を少し起こした彼が上から覗き込むものだから、目をぱちくりさせるカリスタは仰向けになっている。自分を見下ろす空色の瞳が驚くほど甘く蕩けていて、心臓がどきりとした。
「アーヴァイン?ど、どうし…」
「色んな事に片が付いたから、僕としてはそろそろ君に手を出したい。」
「うん??うん、手は出しているな。うん」
だって、今頬を触っているもの。
そう思いながら小さく頷くと、アーヴァインはなぜか「そういうところも可愛い」なんて柔らかく何度も口付けてくるので、カリスタは今すぐ逃げ出して騎士団本部まで駆けて野営の演習でもしたい。しかしこんなに近いと逃げられない。
腕力のあるカリスタが間違って突き飛ばそうものなら、受け身も取れないアーヴァインはどんな大怪我に見舞われるかわからないのだ。
「な、なぁ…そうやって上から見られていると、何だろう、恥ずかしいんだが…」
「うん。もっと君に僕を意識してほしい」
「その!その喋り方だめだ、なんかだめだと思う!」
吐息混じりな声は色っぽく密やかで、そんなはずはないのにどこかいけない事をしている気にさせられた。
カリスタの頬を撫でる指先がつうっと首筋に下り、慌ててその手を掴む。そっと。はずみで怪我をしたら大変なので。
胸がどきどきして、ぎゅっと抱きつきたいような、逃げ出したいような、もっと触れて欲しいような、何かが疼くような。
どうしたらいいのかわからなくて、カリスタはへにゃりと眉を下げる。こんな自分は情けなくて、嫌われてしまうだろうか。
「アーヴァイン…」
「大丈夫だよ、カリスタ。」
不安げに名前を呼ぶ妻の手を取り、アーヴァインは慈しむように手の甲へ、指の節へ、爪先へ、口付ける。どれだけ念入りに治癒をかけ手入れと保湿をされても、長く戦場にいたカリスタの手はまだ荒れていた。
国を守った英雄の手だ。
どれだけの感謝を、尊敬を、愛を込めてもまだ足りない。
手首へ寄せた唇から焦れるような吐息が漏れた。
アーヴァインの瞳は熱っぽく潤み、カリスタは自分に向けられたそれを――受け入れたいと思った。
「好きだ、アーヴァイン」
気持ちが勝手に零れる。
カリスタは自分が懇願の顔をしている事など気付かなかった。唇を震わせ、渇望するような声で呟く。
「貴方が愛しい」
アーヴァインは目を細め、知らない笑い方をした。
よく晴れた日に第四王子アーヴァインは王太子となり、その隣にはもちろんカリスタの姿がある。
それと同時に、帝国軍を退けた武功を讃えるとしてパトリックとカリスタ両名へ《剣聖》の勲章が与えられる――予定だったが、パトリックはこれを辞した。
カリスタと並んで戦う事はできても、同等の力は自分にはないと。
パトリックは敵の炎で右腕全体に酷い火傷を負い、治癒の魔法でもその痕までは消せなかったが、「自由に動かせりゃそれでいい」と豪快に笑っていた。
カリスタとの噂に拗ねていた妻とはあっさり仲直りしたらしい。
王太子夫妻が式典でいちゃついたお陰だとパトリックに揶揄われ、真っ赤になったカリスタはつい殴りかかるなどした。全治三日の怪我でも治癒の魔法ならあっという間である。
「そういや、アーヴァイン。お前は平気だったのか?俺達の噂。知らなかったわけじゃねぇだろ」
「知ってはいたけど…カリスタは僕の事が大好きだからね。」
「…あ~あ、聞かなきゃ良かったぜ。ご馳走さん」
「あははは」
第四王子妃ならまだしも、次期王妃としてカリスタは足りない所だらけだ。
《剣聖》の称号ゆえにこれまでと異なる在り方も許されたが、それもあくまで「多少」の域である。
筆頭公爵家の令嬢であり王妃教育も済んだシャーロットが補佐官としてつく事になり、カリスタはこの優しくもスパルタな教育係に大いに助けられ、やがて無二の親友になった。
「本当にいいのか?シャーロット……私もアーヴァインも、できるなら貴女達の子に継がせたいと…」
「いけませんよ、カリスタ。わたくしの子は公爵家を継ぐの。兄様は病で亡くした義姉様を忘れられないと言うし、これが一番よい形なのです。」
「……わかった。」
王太子の母となった側妃ヴィクトリーヌだが、親友である王妃を慮ったのかはたまた面倒だったのか、必要以上に表へ出ることはなく、その暮らしぶりは静かだったという。
後にほんの幾度か、ヴィクトリーヌが国王アーヴァインを強引に朝食の席へ呼びつける事があり、その都度自分の仕事が増えたとは無表情が有名なオークス公爵の手記による。
「落ち着いたらなんだか気が抜けましたね。退屈だわ……メイナード、お前の恋人はまだ婚約を渋っているのですか?わたくしが説得しても良いのですよ。」
「命令になるので結構です。彼女とは自力で結婚します」
「はあ。可愛げのないこと……次は、孫の夢でも見れないかしら。」
第二王子ナサニエルはメアリーと離婚し、正式に王位継承権を放棄した。
舐められそうな温和で麗しい王太子を補佐しながら、いずれは王家に返上された侯爵家の領地も治める予定だ。大きな湖を持つ自然豊かな土地だが、まだ未開拓の部分も多く領主の手腕が問われるだろう。
「病み上がりに渡す量か?これが」
「ん?おう。別に俺の仕事なんて全然…ちっとも混ぜてねぇから安心してくれよ。」
「パトリック。前々から思っていたが事務仕事から逃げるな。敵前逃亡は恥ずかしいと思わないのか?口調もいつになったら直すんだ。ボクは騎士になるからいいんだもんなどと言って十何年経ったと――」
「あぁあうるせぇうるせぇ!適材適所ッ!じゃあな!!」
「おい待て!!」
歳を取ってもアーヴァインは美しい。
穏やかな微笑みは見る者を安心させ、白みがかってきた金髪は思わず触れたくなるような柔らかさで、空色の瞳は彼の優しさそのもののように澄んでいる。
「ふふ」
アーヴァインが嬉しそうにはにかんだ。
じっと彼を見つめていたカリスタは、ついしわくちゃに頬を緩めてしまう。アーヴァインが笑ってくれると、たったそれだけで世界は幸福に輝いて見えた。
「君は本当に僕が好きだね、カリスタ。」
「あぁ、好きだ。永遠に見ていられる」
国王夫妻の座は息子とその嫁に譲り、ようやく二人だけの時間をゆっくり取れるようになって数年。
カリスタはまだまだ夫を愛でる時間が足りないし、肖像画も描かせ足りないし、声も聴き足りなければ、共に生きる長さも足りない。
「あははは。素直で可愛い奥さんがいて僕は幸せだよ。もちろん、言葉がつかえていた頃の君も、出会ったばかりでツンとした君も、愛らしかったけれど。」
「そうだろうか?最初は貴方の事をわかってなくて、凛々しい顔立ちの方が好ましいなどと言った気もする。」
「ふふ、覚えているよ。今はどう?」
答えなどわかりきっているだろうに、アーヴァインはカリスタならきちんと言葉にしてくれるだろうと、そう信じた目を向けていた。
夫に見つめられるとすぐ蕩けてしまう。
凛々しく誇り高い《剣聖王妃》はどこへやら、白昼夢に浸るように、カリスタはうっとりと目を細めた。
「顔も、声も、考え方も、仕草も――愛する貴方だからこそ、何もかも大好きだ。アーヴァイン」
貴方を失ったらきっと、生きていられないだろう。
そこまで言えば優しい夫は気にしてしまうから、カリスタは残りの言葉をそっと胸に秘めておく。
自分が先立つ分には最期にアーヴァインと居られればそれで良いけれど、もしも彼が先立った日には、愛しい人の温もりが失われる前に、その腕の中で静かに死にたい。
きちんと唇を閉じて秘めたのに、アーヴァインはなぜかちょっぴり困ったように眉を下げて微笑む。
「……仕方のない人だ。カリスタ」
カリスタが愛してやまない指先が、ダークブロンドの長い髪を優しく梳くように撫でた。期待していた通り、アーヴァインは髪を掬ってキスを落としてくれる。
「そんなところも含めて、君のすべてを愛しているよ。今も昔も――…どんな未来でもね。」