1.顔だけ王子
木々が鬱蒼と生い茂る森の中、笑っているのは一人だけ。
「いいねぇ、君!」
美貌の王子アーヴァインは嬉々として声を上げた。
後ろで一つに結った金髪をなびかせ、空色の瞳には大量の返り血に塗れた令嬢を映している。
「強くて気に入った!僕の剣にならない?」
「お断りします。」
「――っ、あはははは!」
仕立ての良い服に僅かの汚れもなく笑う王子を、シャツにズボン姿の令嬢は稀代のクズでも見るように睨んでいる。
細身ながらしっかりと筋肉のついた腕が剣を振るうと、刃にこびり付いていた血肉がビシャリと地面に散らされた。隅で震え上がっていた数人の令嬢が悲鳴を上げる。一人は泡を吹いて失神したらしく、護衛の騎士が慌てて駆け寄っていた。
「あぁ、君達は帰ってもいいよ。怖かったね」
お疲れ様と手を振るアーヴァインに、真っ青な顔をした令嬢達は何か言いたげではあったが、そのまま全員が辞去した。道があるとはいえ土臭く虫もいる森の中、しかもひどい獣臭と血の匂い、グロテスクな死体まで揃った場所に長居したくはなかったのだ。
愛剣を鞘に納めたモーガンス男爵令嬢、カリスタもまたその場を立ち去ろうとしたものの、君は駄目と言われて足を止める。
「城に来なよ。血を落として着替えた方がいい」
「これはどうもご配慮を頂き恐悦至極です。お言葉に甘えて本部まで戻らせて頂きます」
ダークブロンドの髪を高く結い、目も細い眉も不機嫌につり上がり、王子に会えるというのに化粧っけもなく、ブラウンの瞳は鋭い光を放っている。
美人かどうかより先に「怖い」と思わせる顔立ちのカリスタは、王立学園を卒業してすぐ入団試験に合格した騎士団員だった。
そして今、大層機嫌が悪い。
それはもう、不敬で斬るなら斬れと言わんばかりに。
第四王子の狩猟に「参加者として」出席せよ――そう命令が届いた時から既に面倒だったのだ。
万能型の第一王子シオドリックは王太子、頭の切れる第二王子ナサニエルは宰相補佐、剣術に優れた第三王子パトリックは騎士団の副隊長。
第四王子は《顔だけ王子》。
誰だって――本人だって知っているだろう不名誉な渾名だ。
兄王子達もとんでもない美形なのは間違いないが、アーヴァインの甘く爽やかな美貌と、明るく親しみやすい性格は多くの女性を虜にした。
王立学園では常に五、六人の《お友達》が纏わりつき、予約とか順番待ちがいるらしいとは二つ下のカリスタの耳にも届く程だったのである。
成績は良くも悪くもなかったが、騎士が作った国の王族だというのに《剣術》の授業を受けず、《体術》《格闘術》どころか《護身術》すら取らなかった腑抜け、腰抜け、顔だけ王子。
女遊びは来る者拒まず去る者追わずだとか、令嬢同士が揉めても笑って宥めるだけだとか、いずれ金持ち令嬢が王家から買い取る美術品だとか、聞くのはそんな話ばかりだ。
「しかしただでさえ男爵家の生まれ、汚れてすらいる私が殿下と同じ馬車に乗るなど畏れ多」
「入れちゃって」
「「「はっ!」」」
アーヴァインの一言で、カリスタより高貴な生まれだろう侍女達が垂れそうな返り血を拭き、騎士団の先輩がたが馬車の中へと押し込む。もちろん拒めるはずもない。
優雅に脚を組んで座るアーヴァインとその横に座る側近の向かいで、先ほどまでツンと澄ましていたはずのカリスタは小さく身を縮めていた。
座席に置かれたクッション一つとっても払える額ではないと察したのだ。下手に動けない。
「ねぇ、モーガンス男爵令嬢。」
「…家名のみでよろしいかと存じます。まだ配属は決まっておりませんが、私は騎士ですので。令嬢扱いは結構です。」
「そうそう、騎士団で君の取り合いが発生している事は聞いてるよ。」
「……取り合い、ですか?」
カリスタが眉を顰めて聞き返すと、アーヴァインはにこりと頷いた。
女の子ってこういう笑顔が好きでしょ、と言外に問われた気がして不快だ。
「生意気なカリスタ・モーガンスをどこの隊も嫌がっている」、という話なら同期や先輩の幾人かに聞いていた。
この王子は情報収集もまともにできないのかと呆れながら、あるいは世辞だろうとそれ以上考えるのをやめる。
「この場で何を言っても不問にするから、正直に答えてほしいんだけど。いいかな?」
「…何についてでしょう?」
明るい茶色の短髪に無表情固定な側近をチラと見てから、カリスタは警戒心たっぷりにアーヴァインを見据えた。
狩猟に来たくせに、クマが出ても剣を抜こうともしなかった男。弓を構えるどころか装備もしなかった男。自分は護衛に守られて木陰に突っ立ったまま、さも当然のように騎士達にやらせていた。
令嬢達――仮にも見合い相手の女が、国の民が、怯えていたにも関わらず。
元からさして期待していたわけでもないが、カリスタは失望したのだ。
この国の王子であるからには、そこまで腑抜けとは思わなかった。湧き上がる怒りを発散する手立てとしてクマを殺し、私ですらこんなものは容易く殺せるのだと示してやった。
「僕と婚約しない?」
「嫌です。」
驚き過ぎて真顔で拒否してしまった。
先ほどの「僕の剣」つまり「近衛」にならないかという誘いも嫌だったが、婚約など世界がひっくり返ってもありえない。
とはいえ、相手は王子だ。
不問にすると言われていようが失言だったと、カリスタは今後の生活も考えてサッと顔色を悪くする。しかしアーヴァインは楽しそうだ。
「また即答したね。僕のこと嫌い過ぎでしょ」
「き、嫌いとまでは――」
いや、嫌いだ。
女性が怯えているのに戦わないどころか構えもしない王族など、クソ野郎だ。
そう考えたカリスタは否定をやめ、「身分不相応です」と堅い声で答える。
側近は相変わらずの無表情だ。主君が無礼を働かれているというのに、耳が聞こえているか疑うレベルである。
アーヴァインは艶めいた唇を微笑みの形にし、麗しく小首を傾げた。
「顔は良いってよく言われるんだけど、駄目?」
「好みではないです。」
「ふっ!あははは、そっかそっか!兄上達だと誰派とかあるの?」
「強いて言うならば、第三王子殿下のような凛々しいお顔立ちだと、男らしくてよろしいのではないでしょうか。」
部下の信頼が篤く剣の腕も確かだと聞くし、騎士団の先達として尊敬もしている。
少しは嫌な顔をするかと思えば、自分から聞いただけあってアーヴァインは平然としていた。わかるよ、格好良いよね。なんて言う余裕ぶりである。
「まぁ君の意思はあまり関係ないんだけど…」
「…と、言いますと?」
「僕が望んで、君や男爵に拒否権があるとでも?」
「………。」
絶対にない。
たかが貧乏男爵家の一つや二つ、顔だけ王子の軽やかな一言でチリも残さず吹き飛ぶだろう。カリスタは眉間に皺を寄せた。
「なぜ私なのですか?殿下との婚姻を望む方など、いくらでもいるかと思います。」
「そうだなぁ……僕と兄上達の母親が違う事は知ってる?」
「…はい。」
「見ての通り、僕も母上も余計な事は考えてないんだけど。でも念のためにさ、そういう力のある家とは繋がりたくないんだよ。ただ、お嫁さん自身は強い子が良いかなって。」
「そうですか。夫になったからと言って守ってもらえるとは限らないのでは?」
「あはは、僕もそう思うよ!」
嫌味のつもりが笑われてしまった。
アーヴァインは誰が何をどうしていても笑える能天気野郎なのかもしれない。
「爵位が低く、家に力がなく、本人に戦う力のある、歳の近い女ですか。私以外にもいそうですが」
「君に不利益はあるの?もちろんお金もたっぷり出るけど。ご実家も助かるんじゃないかな」
「そうかもしれませんが……」
「嫌いな男の嫁になると言ってもさ。兄上達がいるから政治だの社交だのはそこまで重要じゃないし、家格がどうのと言うような使用人も雇わないし、騎士も続けていいし、できる範囲で君の意思を尊重する。」
カリスタは探るようにアーヴァインを見たが、天気の話でもするような顔だ。
彼もまた、カリスタに惚れ込んで婚約を申し出たわけではないのだ。そういった「女性らしさ」は愛人に求めるつもりなのかもしれない。珍しい話でもないが、不快には違いなかった。
かと言って自分がアーヴァインに触れられるのも嫌だ。カリスタがますます目を吊り上げるのを、アーヴァインは美麗に微笑んで眺めている。
「なぜ笑えるのですか?」
「うん?」
「……自分を嫌っている相手に、わざわざ婚約を持ちかける意味がわかりません。」
「仲良くなれそうだと思ってるから?」
「どこがですか。失礼ながら、私と殿下では感覚が違い過ぎるかと。」
「そうかなぁ。」
カリスタの言葉などどこ吹く風で、アーヴァインは空色の瞳を窓の外に向ける。返事だけしていてその実、こちらの話などろくに聞いていないのかもしれない。
「私がさらに殿下を嫌って、暗殺でも目論んだらどうするのですか。」
ふんと鼻で笑うようにして、カリスタは側近の反応を見る。
さすがの彼も無表情が崩れて僅かに眉を顰めたが――
「あははは!」
からからと笑われて、カリスタは目を見開いた。
アーヴァインはまるでそんな事ありえないとでも言いたげで、カリスタを警戒するような素振りは微塵も無い。侮られていると思いカッと頬が熱くなった。床を踏み鳴らして立ち上がる。
「何が可笑しい!人並みに魔法が使えるだけの貴方など、護衛がいなければ呆気なく殺せるぞ!!大体、王家に生まれながら貴方は何だ!?へらへら笑って顔だけと言われ戦いもせず私などに守りを求めて!恥ずかしくはないのか、悔しくはないのか!!それでも男か、この腰抜けが!!」
王子と側近が揃ってきょとんと呆けていた。
肩で息をしていたカリスタはハッとして座席に腰を下ろし、膝の上で固く拳を握る。
「………ふ、不問にすると仰いました。」
「今、絶対にその事頭から飛んでたよね?」
「…黙秘します。」
「まぁ安心して。防音してるから外には聞こえてないし」
「え……」
驚くカリスタに、アーヴァインは「彼がね」と隣を示した。無表情に戻った側近は黙って馬車の壁を見つめている。
「さて」と改めて言われ、カリスタのブラウンの瞳は渋々アーヴァインへと戻った。
「君の言う通り、僕はろくに戦えない。ついでに逃げるのも苦手だ。走れないから」
「身体を動かす授業を取らないからそうなったのでしょう?」
「あぁ、なるほど。そこから既に嫌われてたのか」
「………。」
カリスタは否定しない。
嫌いとまで思っていなかったが、不満には思っていたからだ。アーヴァインは彼女のしかめっ面など気にもせず、美しい仕草で自分の顎に指をかける。
「僕と一緒にいたら、そのうちわかると思うよ。どうして授業を取らなかったのか。」
「怠惰では?」
「う~ん、結局はそうなんだろうなぁ。」
長い睫毛を重ね合わせ、アーヴァインはぽやぽやと穏やかな声で言った。
授業を取らなかった事をまるで悪びれていないらしいが、事情があるにしては悲壮感も感じられない。訝しげに目を細めるカリスタをちらりと眺め、側近の男は人知れずため息を吐いた。