1.一匹ぼっち
風がヒョウヒョウと鳴っていました。
舞い上がった砂粒が、からだを削るようにかすめていきます。
「さようなら、源ジイ」
しびれた舌の奥でシロはつぶやきました。
じっと見据える先、灰色にくすんだ空と海との境に、一隻の船が霞んでいきます。
おそらく源ジイのからだは、車がごったがえすあの埃っぽい町に運ばれていくのでしょう。シロがあそこに帰ることはありませんが、もし帰ったとしても、源ジイに会うことはできません。冷たくなった細いからだは、すでに旅だった魂と同じく、決して手の届かない別の世界に送られるのです。
「うう、さむいや」
いつの間にか、雪が降りはじめていました。逆立った胸の毛並みに、氷のかけらがまとわりついています。冷たさが毛皮の内側にまで忍びこんできていました。
[ひとりぼっち]
時折、人間が口にするこの言葉は、こんな寒々とした感じをいうのかもしれません。海にぽつりと浮かぶこの島で、温もりを分かちあう仲間はいなくなってしまいました。
とはいえ、シロは人間ではありません。だから、一匹ぼっちという方が正しいのかもしれません。
人間からいえば、シロは犬という動物で、狩りなどを得意とする紀州犬という品種でした。もっともシロにとって大切なのは、そんなわけ方ではなく、名まえを呼んでくれる人との一対一の関係だったのですが…
「けど、あんさんは、こんなにも冷たかったのか?」
目に飛びこんだ雪のかけらに、シロは問いかけました。
屋外に置かれた小屋で暮らしていた時は、たとえ吹雪の中でも平気でした。鎖をじゃらつかせ、すべての雪を食べつくしてやるとばかり、口をあけて飛びついていたものです。
どうやらこの島で、人間と同じ屋根の下での生活が染みついてしまったようです。
「まあ、悪いことではない。ぬくぬくの生活をして、あんさんの冷たさを知ることになった。それだけのことなのだ」
ともあれ、仲間の見送りは終わりました。ここに残っていても、冷たい風と波しぶきにもてあそばれるばかり。シロはぶるりとからだをゆすって雪を落とし、荒波のくだける磯辺をあとにしました。
「おや…」
砂浜と山のあいだにぽつりと立つ小屋の前で、シロは首をひねりました。
釣り人小屋…壁につるされていた看板が、地べたに横倒しになっていました。いつもは少しだけ開いていた戸は、貝のようにぴしゃりと閉じられ、念を押すように板切れが打ちつけられています。
源ジイのからだを運んでいった人間がやったのでしょう。あたりには、馴染みのない臭いが、ぷんぷらと残っていました。
「ここは、おいらの家でもあるんだぜ」
シロは小さくぼやいて壁のまわりの地面を探りました。
幸い、日中でも陽の当たらない場所に、軟らかい土がむき出していました。しゃかしゃかと掘りこみ、背伸びをするようにからだをくぐらせました。
少しばかり出ていただけなのに、中はよそよそしく変わっていました。畳は簀子のはしに立てかけられ、源ジイがもぐりこんでいた寝袋はかたく巻かれています。戸口に置かれたストーブは、目玉のようなのぞき穴で、「おまえはだれだ」といわんばかりに見返しています。
「そんな目をするない」
シロは物言わぬストーブをにらみつけ、うさばらしのように壁の隅の藁束をばらまきました。寝袋を結んだ紐を噛みちぎった時、いぶした松の木のような源ジイの臭いが散らばりました。炎の温もりこそありませんが、いつもの生活が戻ってきたようです。
「これで、ちっとは落ちつける」
一息ついたところで、寝袋の巻き残しにアゴをのせて寝そべりました。
と、カサカサという軽い音。
シロの鼻息がおさまったのを見計らったように、タンスの後ろから、ネズミが走り出てきました。アカネズミのチュウ公です。
『そういや、こいつがいたんだ』
小屋の中の食べ物をくすねるコソドロですが、妙に愛想がよくて、暇なときのよい遊び相手でした。
「おかえり、シロくん。おかえり…」
チュウ公はひどくご機嫌な様子で、頭のまわりを走っています。あまり静かなのはいただけませんが、こんな日に、目の前をちょろちょろされるのは目障りでした。
「ちっとはおとなしくしてろ!」
牙をむき出してどなりつけました。
「ぼ、ぼく、すごくうれしいんだ。だって、君も出ていくと思っていたのだもの」
チュウ公は縮こまりながら、おじおじと言いました。シロは、つい大きな声を出してしまったと反省しました。
「そうもいかないのさ」
そういってチュウ公を胸の前で抱いてあげました。いいえ、抱いてもらったのはシロのほうです。トクトクと刻まれる鼓動と温かさが、冷えきったからだにじんわりと広がっていきました。
「おまえは、おいらがここにきた経緯を知っているかい」
「そんなの知らないよ。知りたいとも思わないし」
いきさつなんてかまわない。大切なのは、出会った命の、今の、これからの関わりというもの。
ちびすけのチュウ公ですが、シロが時間をかけて、やっとわかったことをよく知っていました。
「ふっ、あっさりしたやつ」
シロはそっと微笑みました。