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前作『聖女の孫は転生者 ~婚約破棄で崖っぷち』のチヨの妹サラの話しです。
サラは編集者の設定なので、少し印刷用語が入ります。分からなくてもストーリーに関係がないので、読み流していただいて大丈夫ですが、念のため用語説明を添えたいと思います。
【用語説明】
版下とは――印刷の元になる原稿のことです。ページのレイアウト通りに文字や罫線、ロゴなどを台紙に貼って作ります。漫画でいうなら、手書きの生原稿。
写植とは――正式には写真植字と言って、版下に貼る文字のこと。活字が金属製のハンコを一文字ずつ拾って文章を組むのに対し、写植は文字盤の文字に光をあて、印画紙に焼き付けるという写真の技術を使っています。明朝、ゴシック、丸文字など書体が豊富で、斜体、平体、長体の変形をかけることが可能。行間を変えられたり、文字と文字の間をキレイに調整することも出来ます。漫画のセリフ部分にも使われていました
現在はDTPの導入により、これらはすべてパソコン上で制作しています。
パソコンが欲しい。パソコンが!
この世界初の女性ファッション雑誌『ジェイミー』の表紙の版下に、タイトル文字を糊で貼り付けながら、私は心の中でそう叫んでいた。
しかしながら、異世界から聖女と剣士を召喚し、私の祖父母である彼らが魔物を討伐して大地の穢れを祓い、魔法を消滅させ、この世に平和が訪れてから早六十年。時代は着実に進歩している。
私が物心つく頃には、この世界にも写真と写植が登場していた。紙質の良さもさることながら、思っていたよりもずっと高度な印刷技術があることには感謝せざるを得ない。
でなければ「自分でファッション雑誌を手掛けてみたい」という、前世からの私の夢が叶うことはなかったはずだ。
パソコンで作業してデータ入稿したいなどと贅沢は言うべきではない。いや、しかしこの切り貼りのアナログ作業は、正直面倒くさい。
そんな心の葛藤を抱えつつ、私は時間に追われながら、液体糊が乾ききらないうちに文字組みの微調整を行っていた。
「ちょっと編集長! 何やってるんですか?」
副編集長リンダに指摘され、顔を上げる。
「ああ、ちょっとこのタイトルの文字組みが、気に入らなかったものだから」
「なにも編集長自ら修正作業しなくったっていいじゃないですか」
「いいじゃないのよ。私がかかわるのは今回が最後なんだから。次号からはあなたに任せるわ」
この雑誌を刊行してから、一年と少し。私は次の雑誌を手掛けるべく、編集長の座をリンダに譲る。だからこそ妥協はしたくない。
私がふぅ~と息を吹きかけ、修正部分がきちんと乾いたのを確認するのと同時に、副社長のクリスが迎えにやって来た。
「準備は出来たか、サラ?」
彼は学生時代の同級生で隣国からの留学生だったが、卒業しても国に帰る気配はなく、私の出版社で働きたいと言うので副社長として雇い入れた。まぎれもない縁故採用である。
彼は編集ができるわけではないが、組織管理に向いていて多方面に顔が利く。
今から向かう劇場の初日限定チケットも彼の伝手で手に入れ、今注目の歌姫カロリーヌ嬢のインタビューも取り付けてくれた。存外に役に立つ男だ。
「今行くわ」
私は表紙の版下をリンダに手渡し、後を頼むとクリスの元へ急ぐ。
「サラ、紙がくっ付いてる」
彼は、しょうがないなぁという顔をして、私のドレスに付いた写植の残り屑を取り除いた。
「悪いわね」
「もう慣れた。こうしていると、君が侯爵令嬢だってことを忘れそうになるよ」
働く貴族令嬢が珍しいのだろう。彼は苦笑している。
たしかに彼女たちは王立学園を卒業するのと同時か、遅くとも二十歳くらいまでには結婚して夫人業に精を出す。
夫人業とは女主人として家政を取り仕切る、茶会や夜会に出席して社交に努める、跡継ぎを作るといったようなことだ。
しかし、我がスメラギ家は、祖父母が異世界召喚でやって来た聖女と剣士であり、父と兄、チヨ姉さんと私は前世の記憶を持つ異世界転生者なので、この世界の常識にとらわれない。
私の前世は出版社に勤める編集者で、四十歳で死ぬまでに、結婚と離婚を経験した。この仕事をする限り夫婦すれ違い生活になることは必至なので、今世での結婚願望はない。
幸い我が家では結婚は本人の意思が尊重され、とやかく言われないし、働くことも自由だ。むしろ貴族としての生き方より、お金を稼ぐ方が推奨される風潮すらある。
姉のチヨは美容の仕事をしているし、私はこの出版社のオーナー兼編集者だ。
ファッション誌の次は、芸能情報誌の発刊を目指している。
たとえば、人気の歌姫や女優の特集を組んだり、講演情報やスケジュールを掲載したりといったような。
「あら、これからは貴族令嬢だって働く時代よ?」
私が冗談めかして答えるとクリスは微笑む。
「それが君が言う異世界ってヤツ?」
私が聖女の孫であることは、貴族社会で認知されている。加えて、彼は私の前世の記憶を信じた。いや、信じたというより否定しなかったと言うべきか。
クリスはいつも女の愚痴や噂話を聞くかのように、本人とっては荒唐無稽であろう異世界の話に付き合ってくれる。
「まあね。というか、前世で私のいた国は身分制じゃなかったから、貴族はいなかったの。私のいた時代では、帝国主義は過去の話だったわ」
「本当かい?」
「ええ。広げた領土を維持するのって大変でしょ。次代が賢王ならいいけど、そうとは限らないし、戦争に金と人を使いすぎる。働き盛りの若い男たちが兵士に取られて、残るは老人と女子供ばかりで、どうやって国が富むの? 私だったら、もっと美術や芸術にお金と労力を使いたいわ」
「サラらしいね。それで今度は芸能誌ってわけ?」
「娯楽に時間とお金を割けるのは、平和で豊かな証拠よ。素晴らしいじゃない? ファッション誌が一般に流通するようになってから、これまで流行を作り出し発信する側だった王妃や貴族たちが、次に特集するメゾンや掲載される品をいち早く知りたがってるわ。今じゃ、一冊の雑誌が流行発信の役を担ってる。商人達も王宮よりも先に、わが社に新商品の売込みにくるほどよ」
「それでは社交界における王妃の発信力に影響するんじゃないの?」
「王妃の発信力は弱くなるかもね。でもいいのよ、それも時代の流れだから。もっと産業が発展すれば、上流階級だけだった娯楽が大衆のものになる。シーズンごとに流行りのファッションを楽しみ、劇場や競馬にも当たり前に足を運ぶようになるわ。今後は女優や歌姫たちが、ファッションリーダーとして広告塔になってくれるはず。だからなるべく彼女たちと懇意にしたいの」
「なるほど、先行投資か」
「大した思惑はないわ。強いて言えば私の趣味よ。そのうち女性だけの歌劇団でも作ろうかしら?」
「なんだ、それは? 男の役も女性が演じるのか?」
「そうよ。男装の麗人って、前世じゃ大人気だったんだから!」
他愛ない会話を交わしながら劇場に向かう。歩いて五分もかからないその会場には、美しいと噂の歌姫を目当てに多くの人が集っていた。
私たちは支配人や知り合いに挨拶をしつつ、廊下を進む。
段々とクリスの表情が硬くなり、緊張が走った。
「どうしたの? 麗しの歌姫に会えるからって緊張してるの?」
私がクスクスと笑うと彼の眉がへの字になる。
「オレの傍を離れるなよ?」
「大丈夫よ、迷子になんてならないから。あなたこそ私の傍を離れないでね」
私は余裕の表情でクリスの腕に手を添えて、深窓の令嬢のごとくゆっくりと優雅に歩く。
触れてみて気づく。彼の腕は鍛え上げられ、まるで騎士のようだ。辺りを窺う目線も鋭く、暇に飽かせて遊学し、ブラブラするようなお坊ちゃんには見えない。
「チッ」
思わず漏れた舌打ちは、私に向けられたものではない。
「こんな所にまで――」
私を守るように体をグッと引き寄せ、彼の殺気と緊張感が最高潮に達したその時、後ろで一人の男が弾け飛んだ。
ドサッと仰向けに倒れる男の手には短剣が握られていた。
「きゃぁぁぁぁー!」
短剣を見た近くのご婦人が悲鳴を上げる。何事かと人だかりが出来て、警備員が慌てて飛んで来る。
クリスは袖口から取り出そうとしていた短剣をそっと元に戻した。
「どうする?」
私が問うと彼は私の背中に手を添えて「行こう」と答え、その場を後にした。
騒ぎの後、何事もなかったかのようにカロリーヌ嬢の公演は行われた。彼女の美声に酔いしれ、楽屋で対談し、私たちは無事に仕事を終えることが出来た。
私が帰りの馬車の中で鼻歌を歌いながら、忘れないうちにとメモ帳に書き込んでいると、クリスが口火を切った。
「あれは何だ?」
襲ってきた男が弾き返された件である。あのあと憲兵に引き渡されたが、暴漢はわけが分からないという顔をしていた。
「何って……私が聖女の孫だって知ってるでしょ?」
「まさか……」
「別に隠してるわけじゃないわ。防御結界が張れるのよ。だから私と離れるなって言ったの」
異世界のスキルを受け継いでいるのは、チヨ姉さんだけではない。私もそうだし、レイ兄さんは聖女のスキルは受け継いでいないが、剣士である祖父と同じ剣技が使える。
転生者でもなく、異世界のスキルを受け継いでいないのは妹のマーシュリーだけだ。だが、あの子はいるだけでよい。我が家の可愛い天使だもの。
「それにクリスこそ、命を狙われてるなんて言わなかったじゃない」
「い、いや、これはその………あれはだな…………」
クリスは歯切れが悪い。まあ、よい。言いにくいこともあるだろう。
「とにかく、しばらくウチに泊まってもらうわよ? あなたは気づいてないかもしれないけど、けっこうな頻度で毒を盛られてるわ。毎日、会社ごと浄化するのタイヘンだし、ウチなら安全だから」
聖女の力が「浄化」「治癒」「結界」であるのは世間の常識である。浄化スキルを駆使すれば、当然毒は無効化される。
「毒?! 会社で? いや、それより女性の家に世話になるわけにはいかない」
「大丈夫よ。今、妹の社交界デビューのために、兄が来てるから。部下を守るのは上司の役目よ。それにもう家に向かってるから」
有無を言わさぬ物言いに、クリスは一言「すまん……」と大人しく従う意思を示した。
その様子に私は思わず口角を上げ、勝ち誇った。
「貸し一つね」
読んでいただき、ありがとうございました。