インテリマフィアなオルゾさんとイカれた彼の兄貴。
「よう、オルゾ」
ある昼下がりのことである。
オルゾ会計士事務所の所長室の扉がノックされ、返事も待たずに開け放たれた。
「……兄貴か。どうやって入った」
「可愛い女の子が通してくれたぜ」
ちっ、とオルゾは舌打ちを一つ。カンディータだ、間違いない。他の職員ならこいつを入れることはない。彼女はこの疫病神に会ったことがないから入れてしまったのだろう。後で教育しておかねば。
エキーノに用事を言いつけて外出している隙を狙ったか。姑息な男だ。
などと考えるが、今はまずこの男への対処をせねばならない。オルゾは端的に尋ねた。
「で、何の用だ」
「金貸してくんない?」
返事は卓上に置かれていたオールド・バカラの文鎮だった。それは男の顔面の中央を狙って真っ直ぐ飛翔したが、彼はしゃがみ込んでそれを避け、文鎮は扉に当たって激しい音を立てた。
「ひゃあ!」
扉の向こうからカンディータの間抜けな悲鳴が上がる。
気を利かして茶でも淹れてくれようとしたのであろうが余計なお世話である。
「カンディータ! この男をもてなしてやる必要はない!」
「紅茶がいいなあ」
「安物でいいぞ!」
そっと扉が開き、カンディータの顔がおずおずと覗く。
彼女の足元では猫のフラーゴラが部屋から脱走して行った。突然の大音に驚いたのだろう。
「あの、オルゾさん……安物の紅茶とか事務所に置いてませんよね」
返答は舌打ちだった。
…………
ニコニコと愛嬌ある笑みを浮かべながら男はカンディータの淹れた紅茶を飲む。
オルゾが銀髪であるのに対してこの兄という男は金髪である。瞳の色はオルゾと同じ碧系統であるがずっと淡い色だ。
ーーイケメン! ……ちょっとチャラそうだけど。
カンディータは思う。
彼女がこの男を招き入れてしまったのは、そもそもオルゾに似ているというのが大きい。ただ、同じイケメンでもオルゾの美しさが美術品如き隙のなさであるとしたら、この兄の雰囲気は柔らかく、わざと崩したようなものを感じさせた。
「カンディータ、教えておこう。この男、アキッレーオは確かに俺の兄ではある」
「アキッレーオだよ。よろしくね、カンディータちゃん」
ぬっと手が伸ばされてカンディータのそれを取り、ぶんぶんと縦に振られた。
着ているものは安物ではない。紳士服のブランドに詳しくはないカンディータが、それでも彼の体躯に完璧に合っていると分かるオーダーメイドのシャツにスーツ。だがタイを締めず、ワイシャツの一番上のボタンを留めていないし、時計もしていない。革靴も良いものだが、少し草臥れているように見えた。
スーツをかっちりと着込み、左腕からはやはりどこのブランドか知らないがどう見ても高そうな時計が覗き、先端がぴかぴかに磨き上げられた革靴のオルゾとは正反対に見えた。
「だがこの男は多重債務者だったお前の親父よりクソな奴だ。数百万ユーロの借金がある」
「え……」
「何、カンディータちゃんの親父ってそんな酷いの? 殺してこうか?」
あまりにも自然に殺すという言葉が出て、カンディータの反応は遅れた。少しの時間を空けてびくり、とカンディータの身体が後ろに下がる。
オルゾは言う。
「トンノに監視させて地中海の真ん中で漁業をさせているから問題ない。ともあれこいつは金勘定のできない殺し屋だ。カンディータ、お前の付き合うべき男ではない」
トンノはオルゾの部下であり、漁師であるが密輸屋でもある。真っ当な漁業かは怪しいところであった。アキッレーオは笑う。
「金を扱う才能は俺の分もオルゾに。殺しの才能はオルゾの分も俺にあるのさ」
オルゾは困ったように眉をひそめる。
「やめろ、彼女を困らせるな。……カンディータ、下がっていい。ああ、フラーゴラを捕まえて機嫌とっておいてくれ」
カンディータは笑みを浮かべて部屋を後にした。
二人きりになった部屋でアキッレーオが言う。
「カンディータちゃんかわいいじゃん」
「やめろ、お前の手出ししていい女じゃない」
「カタギっぽいもんねえ。それともお前の彼女?」
「そんなわけあるか」
軽口の応酬が始まる。
「ところで、オルゾ久しぶりだよねえ。大きくなった?」
「馬鹿か。三十路男捕まえて大きくなんてなるわけがないだろう」
「なったさ。嫁さん貰ったんだろう? 立派になった」
オルゾは返答に窮した。
アキッレーオが優しい瞳でオルゾを見ている。
オルゾは不機嫌そうにソファーの肘掛けを指で叩き、エキーノがいないのに気づいて舌打ちをした。
アキッレーオが懐から箱を卓上に置く。マックス・ポンティによって描かれた踊り子の影、最も秀逸と呼ばれる煙草のパッケージ意匠である。
「これでよければ」
「ジタンか……まあいい、いただこう」
安価な使い捨てライターで先端を炙る。黒煙草の独特な香りの紫炎が昇った。
「結婚式に呼んでくれれば良かったのに」
「馬鹿を言うな。お前、オロトゥーリア組の幹部連中からも恨み買っているだろう。結婚式会場を血の海にする気か」
アキッレーオはフリーの殺し屋である。このあたりの組織ではだいたいのところで恨みを買っているということであり、それはオルゾの所属するオロトゥーリア組も例外ではない。
それ故に旅に出て、ほとぼりを冷ましていたのだが。
「……フランスに居たのか?」
オルゾはジタンの箱を眺めながらいう。アキッレーオは笑った。
「ふふ、ジタンだからか? フランスの煙草だがどこだって買えるさ。確かにフランスも行ったし、日本の暴力団の世話にもなったよ」
どうやら世界を巡っていたらしい。オルゾはそれでどうやって連絡をつけろというのだと思ったが、口には出さなかった。
「で、稼いだ金がなくなってここに来たと?」
「んー……、まあそんなとこだ」
オルゾは知っている。この兄は社会不適合者の一種であると。
彼は天才だ。スポーツをやらせても勉強をさせても、誰よりも上手くこなした。例えばオルゾは子供の頃に頭が良いと言われた記憶がない。なぜなら兄が自分よりも天才であったからである。
だが、アキッレーオには致命的な欠陥があった。
「兄貴、今の預金額は?」
「半年前から0だな」
これである。アキッレーノには価値という概念が無いのだ。
例えば手元に金があれば前菜一皿だけで50ユーロはする最高級レストランで毎晩ディナーを楽しみ、素寒貧になれば一食で5ユーロもしないハンバーガーばかり食べて文句も言わない。そんな男だ。
もちろんそれは食事だけではなくあらゆるものに及ぶ。そう、命でさえも。彼は殺しをしても心が痛むどころか動くこともないのだ。人の、命の価値が分からないから。
「貸してくれるのか?」
「言葉は正確に言え。貸すとか借りるってのは返す人間が言うことだ」
オルゾは舌打ちを一つ。
どうせ自分はこの男に金をやってしまうのだという自嘲の音であった。
「で、いくらいるんだ」
「何、いくらでもいいんだ」
「意味がわからん」
「ある金でなんとかする」
オルゾは立ち上がると金庫の前まで歩き、そこから200ユーロ札の束をいくつか投げつけた。
アキッレーノは危なげなく、胸に抱きとめるようにそれを受け取る。
「いいのか?」
「俺の気の変わらんうちにとっとと持っていけ」
「ああ、ありがとう! 我が最愛の弟よ!」
そう言って風のように去っていった。
机の上にはジタンの箱と使い捨てライターが出しっぱなしである。
「ふん、馬鹿兄貴め。マズい煙草吸わせやがって」
オルゾはそう言って加えたままだった煙草を灰皿に押し付けた。