インテリマフィアなオルゾさんはたまの休日を満喫したい。
オロトゥーリア組の幹部、オルゾは多忙であった。それは仕事中毒の気のある彼にとって常なることではあるが、ステラマリナとの結婚後は特にだ。
ステラマリナは同じく組の幹部であるリーゾの娘である。
かつて彼女と結婚した後、パーティーでリーゾの顔面をドン・ペリニヨンでぶん殴ったし、リーゾの配下たちの大半を脳味噌にクソが詰まっていると思っているオルゾであるが、これでも別にリーゾのことが嫌いなわけではないのだ。
基本的に、彼は世の中のほぼ全ての人間の脳味噌にクソが詰まっていると思っているからであるからだ。
それで言えばリーゾたちはマシなクソだ。それはオルゾが唯一尊敬する人物、オロトゥーリア組の首領に忠誠を誓っている、その一点に尽きるのだ。
では改めてなぜオルゾは忙しいのか。リーゾたちの仕事を改善させているからである。
オルゾ会計士事務所の彼の部屋は、今日も事務員たちが帰った後も灯りが消えることはない。
彼の鞄持ちであるエキーノが、今日何杯目になるかわからない紅茶を淹れ直した。
「オルゾさん、差し出がましいようですが流石に根を詰められすぎでは」
「ああ」
返ってくるのは生返事だ。彼の手はパソコンのキーボードを淀みなく奏で続ける。
「そうよそうよー!」
部屋の応接用のソファを我が物顔で占拠して寝転がっているステラマリナが胸に猫のフラーゴラを抱えながら拳を天に突き上げた。
「われわれはー、待遇の改善をー、要求するー!」
「にゃー」
「もっと構えー」
「にゃー」
「いちゃいちゃしろー」
「にゃー」
ステラマリナは抱えたフラーゴラの灰銀色の手を掲げさせると、鳴き声が唱和する。オルゾは嘆息した。
「……俺はお前の親父とその部下どものために忙しいんだがな?」
「ご迷惑をおかけしております……」
キーボードから音が止まる。彼は眼鏡を外して眉間を掌で強く押さえた。
「まあなんだ。奴らの赤字をこちらで補填してやるだけなら手間も掛からねえんだよ」
エキーノも頷く。
「ウチはオルゾさんのお陰でそれだけ稼いでいますからね」
「だがそれじゃあ、あいつらはいつまでもクソを垂れ流すだけだ。自分たちでしっかり稼がせるようにしないとならん。つまり、猿にでも分かるコンサルティングが必要だ」
マフィアとは、はみ出し者を束ねる側面もある。つまり、問題を起こさない限り解雇はしない。またマフィアとは名誉ある男たちである。その建前を守るオルゾは麻薬も女衒も好まない。金を安易に儲けられるそれらの手段も排除した上で彼らが儲かるように仕事を立て直しているのだ。
「なんでそこまでしてくれるの?」
「勘違いするな。お前の親父たちのためじゃない。組のためだ。それと、あいつらが俺に感謝し、逆らえないようにする為だ」
「パパは旦那様に感謝なんてしないわよ」
ステラマリナは笑ってそう言い、オルゾも酷薄な笑みを浮かべる。
「60過ぎのジジイの感謝なぞいらん。どうせ俺より先に引退せざるを得ないんだ。お前の兄貴や、その舎弟たちが俺に頭が上がらなくなれば、それで充分だ」
そして再びキーボードの上を指が滑り出す。エキーノとステラマリナは肩を竦めた。
「ステラマリナ」
「……な、何かしら?」
「あと三日待て。それで蹴りをつけて一日休む」
「はいっ!」
喜色が声を跳ねさせた。
三日後、万難排してオルゾはステラマリナとのデートに向かった。ランチ、ショッピング、ドライブ、観劇とデートコースを一通り楽しみ、夜はホテルに移動していわゆる三ツ星レストランでのディナー。
ティレニア海を眼下に臨むホテルの最上階でフレンチを楽しんだ後はオーセンティックなバーへと移動する。
カウンターに並んで座り、最初の一杯は二人ともジントニック。
「乾杯」
「ねえ、オルゾ。何かないの? せっかくムーディーよ?」
オルゾは杯をステラマリナの琥珀の瞳の高さに。
「君の瞳に乾杯」
「……カサブランカかよ」
「よく知ってるな。それなら一杯目はシャンパンにすべきだったか」
オルゾは映画、カサブランカの件の台詞が登場するシーンで飲まれている酒の名を挙げた。
「ふふ、おばあちゃんがハンフリー・ボガードの大ファンなのよ」
オルゾは大きく舌打ちをした。
「ムードは死んだ」
そう言ってジントニックを呷る。
ステラマリナはけらけらと笑って酒に口をつけた。
せっかくムーディーな雰囲気におばあちゃんの話では萎えると言うもの、それもオルゾが魔女と嫌う彼女だから。
だがこんな時にまで出来合いの言葉で本心を隠す男が悪い。
暗く、落ちついた雰囲気の店の中。響くのはバーテンダーがシェイカーを振る音と密やかな囁き声。
キン、と甲高い音が一つ。デュポンのライターがオルゾの咥える細身の煙草の先端を炙り、彼の白皙の美貌が闇の中に浮かび上がる。
彼の口から紫煙が吐き出され、それと共に低い声でただ一言。
「ギムレット」
ステラマリナは彼の横顔に琥珀の視線を向けながら注文する。
「マンハッタンを」
ステラマリナは確信する。今日はオルゾの車で来ている。
そして彼は二杯目で強めのショートカクテルを頼んだ。ということは三杯で切り上げて今夜はホテルの一室に泊まっちゃう流れであると。
だが、世界は無情であった。
ピンに刺されたチェリーの沈む、真紅のカクテルがステラマリナの前に供された瞬間。
オルゾの胸元で緊急連絡用のスマートフォンから鋭い音が鳴ったのである。
彼はそれを一瞥し、舌打ちの音が店内に響いた。
オルゾは黒革の財布からカードを取り出すと、それとスイートルームのキーをカウンターに叩きつけるように置いた。
ステラマリナは観念したように目を瞑り溜息をつくと、切り替えたように立ち上がり、ボーイから彼のコートを受け取って、オルゾの背に回って袖を通させた。
「私と仕事、どっちが大切なのって言った方がいい?」
「この埋め合わせは必ずする……」
オルゾはそう言ってバーを後にした。
エキーノもまた今日は休みである。オルゾの鞄持ちとして日夜付き従う彼であるが、久しぶりのデートを邪魔するような無粋な真似をするわけにはいかない。
もちろん、護衛はつけている。今日一日、少し距離をあけてオルゾとステラマリナの周囲を護っていた。
今日はオルゾ会計事務所のカンディータと下町のピッツェリアでランチをし、職場に慣れたかの話などしつつ雑談を楽しんでいたエキーノであるが、その間も片耳にかけたインカムからは護衛からの状況報告が入ってくる。
「オルゾ所長は仕事中毒ですけど、エキーノさんも大概ですよね」
カンディータが呆れたように言う。
「あの方と俺なんかでは比べ物にならん。だがまあ、ちょっと最近は忙し過ぎたな」
オルゾは普段は仕事に忙殺されていてもそういった素振りは見せない。だが、今は彼女から見ても忙しそうであるというのが問題ではある。
カンディータも頷いた。
「お身体が心配で……」
「そんなカンディータにできることがある。君しかできないことだ」
エキーノは呟き、カンディータは顔を勢いよく上げた。
「な、なんですか!」
彼はテーブルに資料を広げる。
それは大学院のパンフレットだった。
「カンディータが会計士になって、オルゾさんの表の仕事の負担を減らすことだ」
彼女は3年制大学で会計、経理、簿記を学んできた。経理の国家試験は合格した。そして今は事務所で実務経験を積ませて貰っている。
だが会計士となるにはさらに経営学修士の資格がいるのだ。
「そんな大学院なんて……」
「もちろん金は出すさ。当然だがその後もウチで働いてもらうことが前提にはなるがな。知っていると思うが仕事を続けながら大学院に行く者は多いぞ」
カンディータの瞳が揺れる。だがそれは将来への期待・夢の詰まったものであった。
「オルゾさんからの伝言だ。勉強しろ。ただ事務所の仕事とは別にだ。それこそ半端なく忙しくなるぞとさ」
カンディータは思う。でもそんなキャリアを積ませてくれるのは類い稀な幸運だと。洋服や家族……多重債務者の父の件でも世話になり、今もまたこんな。
オルゾさん、エキーノさんには借りばかり増えていく。いつか、いつか恩返しするために。
「ありがとうございます!前向きに検討させていただきます!」
彼女は勢い込んで資料を手に店を後にした。
初老の職人が笑いながら近づく。
「なんだい、デートから逃げられたのかい」
彼もまたオロトゥーリア組の一員である。
エキーノは笑った。彼女とは10以上歳が離れている。そんな関係ではない。
「ホテルの後にすべきだったかね?」
「はは、それじゃあ疲れて耳に入らないだろうさ!」
その後、エキーノは自分の買い物や、その場で見かけたちょっと洒落た缶に入った菓子を事務所への差し入れに買い、クリーニング屋に行って預けてあったジャケットを引き取る。
「さあ、今こそ旅立ちの時」
店内の有線でかかっていた高名なテノール歌手の名曲。店を出た後、帰宅するエキーノはその続きを口遊みつつ歩む。
「誰も知らぬ土地へと向かおう」
潮の香りと水平線に夕焼けの残滓が漂う坂道に、彼の調子外れな声が響く。
「君と共に」
「動くな」
複数の銃口が突き付けられた。
エキーノは立ち止まり、ゆっくりと手を挙げる。待ち伏せか。数は5人。
「物取りかい?どこから来た?」
エキーノの口からは呑気な声が響いた。
知らない顔だ。この町のチンピラの顔は全員知っているエキーノが知らない顔、そもそもこの町のチンピラがオルゾの鞄持ちであるエキーノに手を出すはずがない。
返答は拳だった。エキーノの顔面に拳が当たり、勢いよく首が跳ねる。当たった瞬間に首をその方向に回転させる殴られ屋の技術。
何発か殴る蹴るされ、吹き飛ばされた振りをしてジャケットと菓子をベンチの上に置く。これで誰か家に置いといてくれるだろうと。
しかし命知らずなものだ。いっそ感心する。
「リーゾさんのとこの若いのか」
まあ、今のオルゾの状況を考えれば分かる。前のパーティーの時の責任を取らされた奴か、麻薬か女衒に手を出していた構成員の下にでもついていたのだろう。
エキーノを殴っていた男の1人が胸倉を掴み上げる。
「てめえ、オルゾ幹部の側近だそうだな。命が惜しくなきゃあいつに連絡を取れ。お前の口出しをやめろとな」
ふむ、後者であるようだと思う。
「オルゾさんは今日はオフだ。明日で良ければ伝えてやるが」
「今だ!」
自分の命なんぞよりオルゾのオフの方がずっと大切である。そうは思うが、ここで自分が殺されればその後はもっとオルゾは多忙になるだろう。
すいません、オルゾさん、ステラマリナさん……そうひとりごちながらエキーノはポケットの機器のボタンを押した。
「……連絡した」
「はあ?」
「今のオルゾさんは休暇中だ。電話なぞとらん。緊急用の呼び出しを今コールしたが、それ以上の連絡はできねえよ。後は向こうからの連絡を待つしかない」
それからおよそ1時間後のことである。
夜闇に覆われた町をもの凄い速度でアルファ・ロメオ4C Spiderのヘッドライトが切り裂いていく。
明らかな速度違反、そしてもし捕まれば酒気帯び運転も追加されたであろう。だが警察車両すらその車を停めようとはしなかった。
誰があの装甲入りセダンを何台も引き連れたアルファ・ロメオを停められると言うのか。
当然だがオルゾにもステラマリナにもエキーノにも、GPSはつけられている。隣町……リーゾの縄張りに連れて行かれたのも分かっている。
「クソが……」
運転席から低い声が漏れる。
後ろに追随する男たちは無線から響くその声に戦慄し、エキーノの無事をそれぞれが信じる神に真剣に祈った。
下町の繁華街を一本外れたところ。売春宿、ラブホテル、安酒屋、マリファナ。
オルゾの嫌う町の様相であった。路上に立つ女たちはこの世のものとも思えぬ美形に声を掛けようとしても声が出ず、チンピラたちは鍵もかけずに乗り捨てられた4C Spiderに近寄ろうともしない。
騒々しい町の中央に、静寂の空白ができているかのようだった。
彼の構成員がそっと近づき声をかける。
「幹部、先行して突入……」
「いらん」
オルゾは一言で切って捨てた。当然ながら彼の護衛として決して認めてはならない発言である。だが止めようがなかった。
「あ、あの。せめて入口の確保を……」
振り返った碧眼が男の身体をその場で射竦めさせた。
視線の意味は、爆発物を使ってスーツを汚したら殺すである。
「餓鬼の弾が当たるか」
そう言って無造作に扉を蹴破った。
安っぽい酒場だ。バーのようなカウンター。酒瓶が並んでいるが、先ほどまでオルゾがいた店とは品質も品揃えも比べ物にならない。
「よ、よくきたなオルゾ!」
奥から声がかけられる。
カツカツと革靴が剥き出しのコンクリートを叩く音。
「お、おい止まれ!」
銃口がこちらの方を向いているが狙いも構えも甘い。無視して先へと進むと奥の一段高くなった舞台のような場所。天井まで伸びるダンス用のポール。
そこにエキーノが手錠をかけて捕まっていた。
舌打ちが響く。
「止まれよ!」
オルゾは舞台に飛び乗るとエキーノの前に立ち、そこで彼の動きが止まった。刹那の沈黙。
「てめえなに取っ捕まってるんだ!」
そして怒号。全力で右脚が振り抜かれる。
「すいません!」
夕暮れ、町で彼が殴られていた時とは違う鈍い音がする。
崩れ落ちそうになり、しかしそれを堪えたエキーノの頭に、いつ持っていたのか酒瓶が振り下ろされる。
硝子の破片が煌めき、膝をつき項垂れたエキーノの背にオルゾは腰を下ろした。
「で、俺と交渉したいという馬鹿はどいつだ」
「お、俺だ!」
チンピラの一人が前に出る。
「そうか、それはお前の独断か、お前の上役のフェルッチョ構成員の命令か、リーゾ幹部がフェルッチョ構成員に命じたのか答えろ」
「おい、舐めた態度取るんじゃねえ!」
「自分の危険も分からない馬鹿か。話すだけ無駄だな」
チンピラは拳銃を突きつけようとし、その銃が弾き飛ばされた。
拳銃が床を転がっていく。
「なっ?」
「お前ら自分の胸を見ろ」
照準器が彼らの胸に赤い光点を示している。
銃で狙われているということだ。
「動いたら殺す。まあ動かなくても殺すがな」
オルゾは常に周囲の視線を奪う。彼の部下にとってみれば周囲への警戒の途切れた者たちに銃口を向けるのはあまりにも簡単な作業であった。
つまらない、あまりにもつまらない男たちだ。エキーノがわざと捕まったとしか思えない。つまりリーゾの部下の中で反発する馬鹿を無惨に見せしめにするための奇貨にすべきという意図は分かる。
組の中での大々的な抗争になることを避け、尻尾切りさせろということだ。
舌打ちが響いた。
「エキーノ、寝たふりしてんな。行くぞ」
そう言ってオルゾはその場を去った。その夜のうちにその酒場にはトラックが突っ込んで閉店を余儀なくされた。
翌朝、いやもう昼のことである。
あの後ステラマリナはバーで五杯のカクテルを開け、スイートルームでさらに一本一万ユーロはするヴィンテージワインを開けてふて寝してからオルゾ会計事務所にやってきた。
「おはようございます、ステラマリナさん」
事務員のカンディータが奇妙な顔で彼女を迎える。
「なによ、どうしたの」
「なー」
足元でフラーゴラが鳴く。オルゾの部屋から脱走した。つまり部屋の空気が悪いのだろう。そう思ってノックをして部屋に入ったステラマリナは笑う。
エキーノが綺麗な日本式土下座をしていたのだ。その横の立て看板には、『デートの邪魔した罰を受けています』の文字。
「おはよう、オルゾ」
オルゾもわざわざ椅子から立ち上がり頭を下げる。
「ああ、昨日は悪かったな。すまなかった」
「そうね、一人にはベッドが広すぎたわ」
ステラマリナはデスクを回り込むとオルゾの頬に唇を押し当てた。
「次は最後までエスコートしてね」