インテリマフィアなオルゾさんは押し付けられた結婚相手のステラマリナに振り回されている。
前話の分岐です。
オルゾは不機嫌であった。
その理由は首領との素晴らしい時間の後の副首領との話にあった。とは言え別に副首領が嫌いなわけではない。
だが彼の持ってきた話が見合い話であったのが不機嫌の理由であった。見合いなどと面倒なことを持ち込みやがって……と。
そこにエキーノが持ってきた話にさらに彼の機嫌が降下する。
「あ“あぁ?」
事務所の部屋にてオルゾの発する低い声に、びくり、とエキーノは肩を竦めた。
「追い返せよ。お前、ウチが真っ当な会計士事務所だと思ってんのか」
オルゾはオロトゥーリア組の幹部であり、表向きは会計士事務所を経営している。しかし彼の裏の仕事は組の会計であり、組の資金の投資と洗浄を行うのだ。
「ですよね。すいません」
「……待て」
部屋を退室しようとしたエキーノを留める。
当然そんなことについて彼が分からないはずはない。ではなぜ女を招き入れた?
「面倒臭い日だなクソが」
……副首領からもたらされた見合い話に俺が乗り気ではないと分かってるからか。
「エキーノ、気を回し過ぎだ。俺は見合いを受ける。
その女はお前が雇いたければ雇って構わない、もし無理でもどこか紹介してやれ」
「は、失礼しました」
こうしてオルゾの事務所にはカンディータという名の事務員が増え、オルゾは副首領の勧めで見合いを受けることになる。
実質、政略結婚のようなものだ。前時代的ではあるが一度動き出したら本人たちの意志など無関係。
交際期間もなく結婚式を迎えることとなる。
妻となった女の名はステラマリナ。豊かで波打つ金のロングヘア、琥珀の瞳。
引き裾のあるスリムラインのウェディングドレスは、肌を見せることなく肉感的な身体を魅せつけている。
オルゾと同じオロトゥーリア組の幹部リーゾ。ステラマリナは彼の二番目の娘であった。
若くしてオロトゥーリア組で台頭し、幹部の中でも筆頭と言えるまで成り上がったオルゾに対しやっかみ、反感を覚えるものは組の内外どちらにも多い。
それを抑え、またリーゾにとってもオルゾを義理の息子として迎えられるのは共にメリットある話と言えよう。
そしてオロトゥーリア組の構成員たちが結集する盛大な結婚式を挙げた日、その夜。
用意されたホテルの最上階スイートルームにてオルゾはまだ披露宴のドレスを纏ったままの彼女に言い放った。
「俺はお前を愛してなどない」
「ええ、そう」
彼女は披露宴の際、後頭部に流していたマリアベールを脱ぎ捨てて答える。
「そうでしょうね」
「そして愛することもない」
「それも構わないわ、旦那様。抱くの?抱かないの?」
オルゾは舌打ちすると彼女の身体を抱きかかえ、ベッドの上に横たえた。
翌朝の早く、衣擦れの音でステラマリナは目を覚ました。
彼女の目に映るのは既にシャワーも浴び、髪も隙なくセットされ、スーツを着込んでいるオルゾの姿。
「……んっ」
声に反応したかオルゾの碧の瞳が彼女を捉える。
「事務所に出る」
「おはよう……、こんな早くから?」
これではほとんど寝る時間はなかったのでは、ステラマリナは訝しんだ。
「仕事が溜まっているからな。家の鍵は置いて行くからゆっくりしていろ」
彼女は身を起こしてオルゾの頬に唇を寄せた。
「行ってらっしゃい、旦那様」
誰もいない事務所、朝早いこともあるが、そもそも今日は事務所の職員たちに休みと告げてある。
冷たい空気に混ざるのは、洋蘭をはじめとする贈られた数多の花の匂い。
オルゾは彼の執務室へと向かい、PCを立ち上げた。
今日行っておくのは未処理の案件を整理しておく程度。さっと終えて明日以降のスケジュールを組んでおきたい。
妻もできたのだ。
イタリア人らしからぬ気質と揶揄われることも多いが、女の機嫌を取るのは正直面倒ではある。
純粋な政略結婚だ。身体こそ重ねたとは言え、そこに愛はない。
だがそれは殊更に嫌っているという訳でも無いのだ。友好的であることができるならそれに越したことはない。
だが……。
「……クソが」
オルゾ不在の事務所の仕事に想定以上の滞りがある。
もちろん取引先からの大量の祝いの電話などに対応していたのもあるだろう。だが幹部のリーゾから融資、資金提供の要求に時間を取られているからだ。リーゾのみならず、その配下の構成員からもである。
オルゾがいない間に話を進めておこうとしたのだろう。エキーノはじめ事務所の非合法活動を担当させている者たちや、高利貸しのスクアーロがその話を留めるのに動かされていたのが全体の滞りに繋がっている。
その時、慌てたようなノックの音が響いた。急いでいたのだろう、髪や襟元の乱れたエキーノが部屋へと駆け込む。
「す、すいませんオルゾさん!まさかいらっしゃるとは!」
オルゾは咄嗟にデスクの上に置かれていたオールドバカラの文鎮を彼に投げつけた。
それは顔を掠めて廊下へと転がっていく。
「……てめえエキーノ、隠してやがったな」
「も、申し訳ありません!結婚式というハレの日にオルゾさんを不機嫌にする訳には……!」
言い分は分かる。結婚式場を血の海にする訳にはいかないというのは。
オルゾは舌打ちする。
「とっとと終わらせるぞ」
「はい!」
ステラマリナはオルゾが出かけた後、再び数時間ほど微睡んだ後、広いベッドの上で起き上がり伸びをする。
彼女の身体に残る昨夜の残滓。ベッドの外に脱ぎ捨てられたウェディングドレス。
枕元のリモコンを操作するとカーテンが開き、すでに高く昇った日差しが部屋へと差し込む。彼女は裸身に陽光を浴びながらバスルームへと向かった。
広い浴槽のなか、身を揺蕩わせながら、彼女の旦那様となったオルゾのことを考える。
愛さないと言われたことは気にしてない。当然の念押しとすら思っている。
彼の立場からしてみれば当然だ。婚姻で自身の立場を固めようなどとは思っていないのだから。
彼女とてオルゾが首領の娘、マーレとの婚姻を打診されて断っていたのは知っているのだ。わざわざ格の落ちる幹部の娘を選ぶ意味がない。
「……でも、オルゾはちゃんと愛してくれた」
ステラマリナは思う。愛そう。愛される期待はしない。でも愛されるよう努力しようと。
まずは彼を知るべく、彼の事務所に顔を出してみようと思いながらバスルームを後にした。
身支度を整える。シャネルの墨紺のジャケットを羽織り、同じくシャネルの小さなスパンコールハンドバッグ、黒にピンクのトンボの意匠の入ったもの1つ片手にチェックアウト。
荷物は全て新居へと送らせて、オルゾ会計士事務所に向かうと、電気はついていないが鍵はかかっていなかった。
薄暗いオフィス、だが奥には蛍光灯がついている。
先へと進むと廊下に置かれたままの猫のキャリーケージ。
覗き込むと中に猫が鎮座してあくびをしていた。
ケージを開けるとするり灰銀色の身体が出てくるので、掬うように抱きあげて持ち上げる。
「あんた可愛いねー。あ、片青眼じゃない。すごーい」
「なー」
猫は特に抵抗することもなかったので、かかえたまま部屋へと入る。エキーノがキッチンで紅茶を淹れているのが目に入った。
「あ、ステラマリナさんどうも」
「え、何?あんたが旦那様にお茶入れてるの!?ウケる!」
頭を下げたエキーノが顔を戻し、抱えているフラーゴラを見る。
「あ、フラーゴラをケージに入れっぱなしでしたね」
「ちょっと、この子フラーゴラちゃんって名前なの?何よ、可愛すぎるんだけど!」
ステラマリナが彼女に頬擦りすると、いやいやと身を捩り、テーブルの上に飛び出した。
ステラマリアはエキーノが淹れた紅茶を盆にのせてオルゾのもとへと向かう。
彼女の姿を見てオルゾの眉がぴくりと動いた。
「えへ、きちゃった」
「そうか」
オルゾのデスクの空いたスペースに紅茶と小ぶりなケーキを置く。
「お忙しいのかしら?」
「お前の親父たちのせいでな」
ふぅん?と言いながらステラマリナはデスクの上の資料を手に取る。
彼女の父リーゾやその配下からの融資・資金提供の依頼の手紙、メールを印刷したもの、書類などだ。
ステラマリナはそれを持ち去るとソファーの上に転がって目を通し始めた。
オルゾは紅茶を飲み、ケーキを摘みつつ、やってきたフラーゴラを撫でる。
引出しからいなばのCIAOちゅ〜るを取り出すと彼女の瞳が輝いた。膝の上へと飛び乗り、手を伸ばしてくる彼女をあしらいつつ、ちゅ〜るの封を切る。
ぺろぺろと必死な様子で舐める彼女を見るオルゾの碧の瞳は、銀縁眼鏡の下で優しく弧を描いた。
休憩し、仕事を再開するとしばらくしてステラマリアが戻ってきた。
「旦那様、これとこれだけはお願いしてもいいかしら」
オルゾは彼女がおずおずと差し出した書類に目を通す。
「へぇ」
思わず意外の感嘆が口から出た。ステラマリナは問う。
「どうかしら……?」
「お前、こういうの分かるのか?」
1つはリーゾの仕事の要、もう1つは回収できることが見込める融資だった。
残りの話は全てクソだ。
「ふん、やるじゃないか」
ステラマリナの頬が緩む。
「な、なによ。当然じゃない。おーっほっほっほ!」
高笑いがうるさかったのかデスクで丸まっていたフラーゴラは耳をぴぴぴと振ってデスクから離れていった。
こうして、ステラマリナはオルゾ会計事務所に出入りするようになった。仕事を手伝っていたかと思うと、エキーノとマカロンの盛り付け方について議論したり、女性事務員と化粧について喋っていたりする。
仕事を手伝っているのか邪魔しているのかは微妙なところだ。
だが少なくとも事務所の雰囲気は柔らかくなった。
「オルゾさん、ステラマリナさん、お茶がはいりましたよ」
エキーノがトレーに紅茶とマカロンを積んだ皿を載せて持ってくる。
ソファーにだらしなく身体を預けて書類を見ていたステラマリナはローテーブルに手を伸ばすと、置かれたマカロンの山に指を突っ込んでひっくり返し始める。
「は?ピスタチオ味なんて混ぜるんじゃないわよ。向こうの事務員の女にでも食わせてなさい。ショコラも色が地味だから持っていっていいわ」
笑いながらエキーノは小皿に摘み出されたマカロンを持って部屋を出た。
「緑色って嫌いなのよね……」
「だがお前が一番好きなのはシャインマスカット味だろう」
デスクからオルゾの声がかかる。
ステラマリナの眉が驚きに持ち上げられた。
「分かるの?」
オルゾの眉は不快に顰められた。
「なぜ分からないと思うんだ」
「旦那様はもっと私に興味ないと思ってたわ」
「それより、緑は嫌なのか」
「そうね」
仕事の手を完全に止めて、オルゾはデスクからソファーへと移動した。ステラマリナの向かいに座り、紅茶を一度口にする。
碧の瞳がじっと彼女の琥珀に据えられた。
「なぜだ」
「何よ、別にいいじゃない」
「俺はお前を愛してはいないが、不快にさせたい訳ではない。
例えばお前にドレスや宝飾品を贈るとして、お前の好みを知っておくことは大切だろう」
「何かくれるの!?」
「お前が理由を教えてくれるならな。お前には俺が贈ったドレスを着て夜会に出てほしいと思う」
それは政略結婚が上手くいっている、仲良くやっているという対外的なアピールのためであるのはステラマリナにも分かっている。
だがそれはそれとして頬が緩むのを隠せないのであった。
「……濃い緑とか苔色が苦手なのよ」
「ほう」
「子供の時ね。おたまじゃくしをたくさん捕まえてきたの」
「ふむ」
「ほら、おたまじゃくしって大きくなったらウーパールーパーになると思うじゃない?」
「思わねーよ。んで?」
「なかなかピンクにならないから忘れてた頃に、部屋中に緑色のカエルが……いやーっ!」
自分で言っていて寒気がしたのか二の腕をさすりながらソファーの上で転がる。
オルゾはため息をついた。
「なるほど、バカだったんだな」
紅茶を飲み、マカロンを摘み、オルゾは横に手を伸ばす。
エキーノが差し出したコートに袖を通し、歩きながら言った。
「じゃあ俺は会合に行ってくる。後は任せた」
オルゾは去り際にステラマリナの豊かな金髪をかき乱すように、くしゃくしゃと頭を撫でて出て行った。
「……なんなのよ、もう」
エキーノは茶器を盆に戻しながら苦笑する。
「オルゾさんがなんで緑色について気にされたかお分かりになりますか?」
「エキーノは何でか分かってるの?」
「オルゾさん、あなたに嫌われてないか気になったんですよ」
「はぁ?何バカなこと言ってるの?」
「オルゾさんの目も碧ですから」
ステラマリナは慌ててソファーから立ち上がるとオルゾを追う。事務所の入り口付近で追いつき、車に向けて叫んだ。
「オルゾっ!あんたの目はカエルじゃないわ!」
アルファ・ロメオの4C Spider、その運転席でオルゾの唇が動く。
「当たり前だ……バカめ」
融資の件に関してリーゾに返答を送ると、少しして彼らのパーティーに呼び出された。
身内向けのパーティーに、新たに親族となったオルゾを招くことで関係を内外にアピールするのが主目的、実際は戦闘員で囲んで追加の金を出せと恫喝しようという話だろう。
面倒だ。バカの相手ほど面倒なものはない。
オルゾはタキシードに黒の蝶ネクタイ、ステラマリナは少しくだけた印象で青いカクテルドレスを纏った。
斜めに被った小振りなカクテルハット、肩出しでスリムラインのドレスだが、裾が割れて腿を覗かせる、膝下程度までの長さのもの。
耳にはエメラルド輝くピアス。
「ほんと旦那様は嫌になるほどイケメンね」
「褒めてるのか?」
「サイコーよ!」
彼女はその場でくるりと回った。耳元のエメラルドが煌めき、ドレスの裾が僅かに浮く。
「で?どうなの?」
「よく似合っている」
「他は?」
「俺は船乗りではないが、たとえお前が最果ての海の彼方の岸辺にいても、これほどの宝物を手に入れるためなら危険を冒しても海に出よう」
オルゾはステラマリナの手を取り情熱的な言葉を囁くが、それは感情のこもらぬ棒読みであった。
「何それ」
「ロミオとジュリエット」
「もう!」
彼女はばしばしとオルゾの腕を叩いてから、2人は車に乗り込んだ。
運転するエキーノから見て、ステラマリナは機嫌良さそうであり、オルゾも満更ではないように見えた。
だがそれはパーティー会場である屋敷に着くまでであった。
オルゾが不快を露わに舌打ちをする。
エキーノから見ても分かる。タキシードの型が崩れている奴が多すぎるのだ。それはタキシードの下に防弾ベストを着込んでいるということを意味している。
歓迎ではなく恫喝と警戒
ボディーガードを置くなとは言う意味ではない。だが露骨な武装は身内となったものを招く態度ではない。
会場の中央、恰幅の良い60代の男がオルゾを手を広げて迎える。
「結婚式以来だな、オルゾ」
「ええ、リーゾ。お招きいただきありがとうございます」
2人は抱擁を交わした。
「ステラマリナ」
「こんばんは、パパ」
次いで親娘で抱擁を交わす。
乾杯のシャンパンがウェイターから渡される。
リーゾは機嫌良さげに口径の広いクーペ型のシャンパングラスを掲げた。泡立つシャンパンゴールドがシャンデリアの煌めきを映す。
「オルゾよ、うちのバカな娘をよろしくたのむわ」
「ふむ」
オルゾは机の上に置かれていたシャンパンの瓶からモエ・エ・シャンドンのドン・ペリニヨンを取ると、軽く投げ上げて半回転。首を掴んで横薙ぎにスイング。リーゾの顔面を張り倒した。
誰もが呆然とする中、瓶を投げ捨て、懐から飛び出しナイフを抜き放ち突きつける。
エキーノは誰より速く飛び出して前へ。机を蹴倒して振り回し、銃を抜いた護衛たちを後退させると、彼らとオルゾの間、自らの身体でオルゾを護る位置に立って銃を抜いた。
「動くんじゃねえ!」
オルゾが投げ捨てた瓶はシャンパンタワーの中ほどに衝突、ガラスの塔が崩れ落ち、女たちから悲鳴が上がる。
リーゾが呻くように言った。
「てめぇ……、何を……」
「リーゾ、あんたもあんたの部下も、開栓されて放置されたドン・ペリニヨンのようなザマだな。
かつては価値があったかもしれんが、気が抜けすぎだ。この場の立ち回りも、お前たちの仕事もな」
「てめぇ、何をしやがったかわかってるのか……!」
オルゾは鼻で笑う。
「ステラマリナはもう俺の家族だ。こいつをバカって言って良いのは俺だけなんだよ。
妻への侮辱を黙って聞くほどオルゾという男が温厚だと思ってたのか?」
ステラマリナはオルゾの横で頬を押さえながら身をくねらせた。
「ステラマリナ……こいつを殺すぞ」
リーゾは低い声で呟いた。
ステラマリナは軽い動きで彼に駆け寄りながら、カクテルハットを脱ぎ捨てる。そして中から黒光りする護身拳銃を取り出して実の父の額へと突きつけた。
「もう、殺させる訳ないじゃない」