インテリマフィアなオルゾさんは思ったよりカンディータという娘を気に入っているらしい。
オルゾはその部屋に入ると、数歩進んだところで跪き頭を垂れた。
彼の正面にあるのは、古風で重厚な椅子。
だがそこは無人であり、誰もいない空間に向けて、ただ敬意を示し続ける。それはどこか真摯なる祈りの姿にも似ていた。
時計の長針が半周するほどの時間が経っただろうか。
オルゾが入ったのとは別の扉が護衛によって開かれ、椅子に男が座った。
彼の前には男の靴先のみが見える。
オルゾは頭を上げて踏み出し、男の差し出す筋張った手の甲に触れるような接吻をした。
そして言う。
「首領、今回のマーレお嬢様とポルポ組の件につきまして……」
首領の手が伸ばされ、続く彼の言葉を留めた。
「許す」
「は……」
「お前の全てを許そう、我が子よ。無論、グラーノたちもだ」
男はオロトゥーリア組の首領であった。
そしてオルゾは首領に不実であった。不実であることは裏切りに他ならない。その説明と詫びをし、死の接吻を賜るつもりで今日この場に赴いたのだ。
だが説明するまでもなく首領はグラーノたちと名を出した。つまり全てを知った上でそれを許すと言っていることに他ならない。
「はいっ……!」
オルゾの目から熱いものが零れ落ちた。
「涙は名誉ある男に相応しくないな」
首領はそう言って手を広げる。
オルゾは涙を拭い、首領と抱擁を交わした。
…………
昼下がり、街を若い女が歩いている。小柄な女、5cmヒールのパンプスが石畳を叩く度に、肩下あたりまで伸ばされた栗色の髪が揺れる。
小さなコンパスを忙しなく動かしての荒い足音からは怒りの感情が垣間見える。
彼女の名はカンディータ。無職である。2月ほど前に職を失ったためで、専門学校を卒業して2年ほど働いていた企業が経営不振でリストラされたのだ。
ーーカンディータちゃんなら若いんだからすぐに次があるでしょ。
上司にはそう言われた。冗談じゃない。
だが反論はしなかった。彼の顔が疲れ切っていたためだ。無理して居座っていてもどうせ先行きは暗い、そうして就職活動を始めたのだがなかなか上手くいかない。
今面接に向かった会社では人事がクソセクハラヤローだった。
ーー面接中、わたしの胸しか見てないじゃない!死ね!
「あれ?」
カンディータは呟いた。
「道、間違えちゃったかな」
いつの間にか彼女が面接のために向かった会社への道とは全く別の光景が広がっていた。
海が近い。潮の香りがする。
はぁ。と肩を落とした。怒りで周りが見えてなかったのだと気づいた。
いつの間にか海に向かう坂を下っていたようだが、この辺りは町の商業地域と漁師町の間くらいであまり人通りがない。特に今は平日の昼下がり、ランチには遅く学校はまだ終わっていない時間。前後には灰色の石畳が広がっているだけだった。
どこかで大通りか駅に向かう道を聞かないと……。
その時ビルの1階、オフィスの扉が開いた。
中から出てきたのはがっしりとした印象の男。少し強面だがどこか隙のある表情だ。上等なスーツを身に纏っているが、いま首元のネクタイを緩めたからかもしれない。
懐から三色旗の色をしたタバコの箱、イタリアン・アニスを取り出して一本を咥えた。
彼女はそこに声をかける。
「す、すいません!ちょっとよろしいですか?」
男がカンディータに向き直る。
「こちら、オルゾ会計士事務所ですが、何か?」
「か、会計士事務所!」
「ええ」
こんな街の中心から外れたところに?と頭をよぎるが、彼女の口から飛び出した言葉はこうであった。
「……お仕事、ありませんか!?」
「はぁ?」
「何でもします!専門学校で簿記を学んでました!お仕事を……お仕事ください!」
男、エキーノはタバコをポケットに仕舞いつつ、その必死な表情を見て、ふーむ、と唸る。
彼の仕えるオルゾは仕事中毒の気がある。ただし仕事が好きなのではない、首領のために働くのが彼の悦びなのだ。
さらに彼の力は裏社会に限らず多くの者たちが必要としている。
多忙なオルゾであるが、深い森にぽっかりと日の当たる空き地があるように今はスケジュールに何の予定もなかった。
それは、先日の首領の娘の失踪について首領に秘密にしていたことの責を取って死ぬつもりだったからである。よって予定などを全てキャンセルしたのだ。
「一応、ここの所長のオルゾ氏に聞いてみましょう」
考えてそう彼女に告げる。
「ありがとうございます!」
ぴょこんと茶色の髪が踊った。
オルゾは不機嫌であった。
その理由は首領との素晴らしい時間の後の副首領との話にあった。とは言え別に副首領が嫌いなわけではない。
だが彼の持ってきた話が見合い話であったのが不機嫌の理由であった。見合いなどと面倒なことを持ち込みやがって……と。
そこにエキーノが持ってきた話にさらに彼の機嫌が降下する。
「あ“あぁ?」
事務所の部屋にてオルゾの発する低い声に、びくり、とエキーノは肩を竦めた。
「追い返せよ。お前、ウチが真っ当な会計士事務所だと思ってんのか」
オルゾはオロトゥーリア組の幹部であり、表向きは会計士事務所を経営しているが、彼の裏の仕事は組の会計である。組の資金の投資と洗浄を行うのだ。
「ですよね。すいません」
「……待て」
部屋を退室しようとしたエキーノを留める。
当然そんなことについて彼が分からないはずはない。ではなぜ女を招き入れた?
「面倒臭い日だなクソが」
……副首領からもたらされた見合い話に俺が乗り気ではないと分かってるからか。
別にエキーノはその雇う女を恋人にしろと言ってるのではない、ただ弾避けには使えるということだろう。
「いいだろう、会おうじゃないか」
コンコンコン、とカンディータは扉を叩いて許可を待ち、ガチャリと扉を開いて部屋に入る。部屋の奥には執務用のデスク、手前には応接用のソファー。ソファーには映画から飛び出したようなあまりにも美しい容貌の貴公子が佇んでいた。
髪はオールバック、銀縁眼鏡の奥に碧の鋭い視線。しなやかな細身の身体に纏うシャツやスーツは、そんなものに縁のないカンディータでも分かるほどの高級仕立服。ソファーの肘掛けにゆったりと片肘をついた姿勢でも一切の型崩れがなく皺のラインは彫像のよう。
ーーイケメン!
「よ、よよろしくお願いします。カンディータ・フルッタと申します」
「オルゾ会計事務所所長のオルゾだ」
音は聞こえなかったが、ふん、と鼻で笑われた気配がした。
ちょうどカバンにあった履歴書をローテーブルの上に置き差し出す。彼はざっと一瞥するとそれを机の上に投げ出した。
「お前、就職活動上手く行ってないだろう。災難だな」
自己アピールなどする隙もなかった。
「は、はい……。何が問題なのでしょうか」
「お前の親父のせいだ、分かってるだろう?」
カンディータが俯く。
彼女の父は多重債務者だ。黒名簿に載っている親族がいると、本人に咎はなくとも金融や経理といった就職は厳しいのが実情である。
「なぜそれを……」
勿論彼女もそれは分かっている。
だが今、飛び込みの面接で何も調べずに彼が言えるのかを理解はできなかった。
「隣町のホテル火災のニュースは知ってるか」
「は、はい」
先日のポルポ組への殴り込み、彼らはメディアへの情報を統制しきったのだ。あれは公式には火災事故ということになっている。
「あそこにあったカジノの常連の名簿にお前の親父の名前を見たからな。つまりカモの名簿ってことだ」
「お父さん……」
一瞥したリストから家族構成まで覚えているのはもはや異常と言っても良いほどの記憶力だ。
その時ちりん、と鈴の音がした。
カンディータのソファーに飛び乗ってきたのは灰銀色の猫だ。
「猫ちゃん……?
うわあ、片青眼なんですね」
片青眼、あるいは金銀妖瞳と呼ばれるそれは片目が黄色、片目が青という珍しい瞳の色合いであり、珍重されるものである。
猫はカンディータの腿に顔を寄せた。
「……ばかな」
部屋の隅に控えていたエキーノは呟いた。
「フラーゴラがオルゾさん以外の人間に懐くだと……?」
事務所の猫、フラーゴラは気位の高い猫と職員からは思われていた。
オルゾもまたその表情に驚きを浮かべ、カンディータからは見えないように中指をちらちら振り彼女を呼び寄せようとする。
「にゃん」
だがフラーゴラはその場でごろりと寝転がった。オルゾの表情が罅割れたように、絶望が漏れる。
カンディータはそれには気付かず、喜色を顔に浮かべて彼女の腹を撫でた。
「……おい、女」
オルゾは地の底から響くような声を出した。
そう言いながら指を2本立ててエキーノに合図すると、彼はオルゾに近づき何やら手渡す。
「はははいっ!すいません!面接中に!」
カンディータが慌てて顔を上げると、フラーゴラは尻尾をぱたぱたと上下させて離れていく。
「カンディータと言ったな。てめえを雇おう」
「ほ、本当ですか!ありがとうございます!」
カンディータはばね仕掛けの玩具のような動きでぴょこんと立ち上がって頭を下げた。
「だがなぁ……」
オルゾは彼女の胸元、ジャケットを掴むとぐいっと身体を引き寄せる。
額が触れ合いそうな近距離。
「ひっ」
「……安い吊るしのジャケット、ヒールの擦り減ったパンプス、玩具みてえな時計、こんなのが俺の視界に入るのは許されねえよなぁ」
セクハラとか乱暴とかいう意識は彼女の脳内に浮かばなかった。
それはオルゾの手つきに、碧の瞳に一切の色欲がなかったからであり、なんなら彼女の脳裏に浮かんだのは『うっわ、睫毛長っ』であった。
さらに言えば彼の言うことが尤もだと感じたからでもある。
この事務所の調度が全て一級品であること、オルゾ自身はともかく秘書のように動いているエキーノですら、高級既製服を纏っているからだ。
オルゾは彼女を放り出すように椅子に座らせると、ばん、と机に手を叩きつけた。
「20000ユーロある」
机に置かれたのは200ユーロ紙幣の札束であった。今エキーノに用意させたものである。
「ひっ!?」
「出社は週明けからだ。それまでに一式揃えてこい」
「お、多すぎます!」
「てめえ一着しか買ってこなかったら海に沈めるからな。使い切ってこい。店が分からなきゃエキーノに聞け」
オルゾは彼女の胸に札束を突きつけて手に取らせると、手を払うような身振りで彼女を部屋から追い出した。
部屋の扉が閉まり、札束を手に呆然とした表情のカンディータが呟く。
「あのう、ひょっとしてこの事務所ヤバいところだったのでは」
エキーノは彼女の肩に手を置いて言った。
「おう、会計士事務所なのは間違い無いが、見ず知らずのところで『何でもする』って言うのは不味かったな。さ、雇用契約しようか」
こうしてカンディータはオルゾ会計士事務所で仕事するようになった。
「あいつはどうだ」
そして終業後、しばしばオルゾはエキーノに尋ねるようになる。
「良くやってますよ。表の仕事と雑用しか任せていませんが、仕事は丁寧ですし飲み込みも悪くない。それに誠実です」
実際初日に20000ユーロ渡しても持ち逃げもしなければ、自分のものを買うことも無く、数十ユーロの釣りを返却してきた。
それ以外にもわざと隙のある状況を与えても金を懐に入れる事はなかった。
「小娘から何か要望はないのか」
「はい」
オルゾは口ごもる。
「……困りごととか」
「大丈夫と」
オルゾの指が椅子の肘置きを叩く。
エキーノは懐から黒に銀の文字の煙草、シガローネ・ロイヤル・スリム・ブラックを差し出した。
ーーキン。
そして甲高い音を部屋に響かせ、デュポンのライターでオルゾの咥えた煙草の先端を炙った。
「無え訳ねぇんだよなぁ……」
紫煙とともに言葉が漏れた。ふっとエキーノが笑みを零す。
「なんだよ」
「いえ、申し訳ありません」
だがある日のことである。
「おい、カンディータ」
オルゾはカンディータを呼び止めた。
「は、はい!」
「時計はどうした」
びくり、と彼女の肩が揺れた。
「きょ、今日は忘れてしまって」
彼女が買ってきた時計、バッグ、あと財布も。サルバトーレ・フェラガモのアイコンとも言えるΩ型の留め金デザインのものだった。
ブランド初心者には最適とも言える選択だろう。
そして彼女がそれを忘れる筈もない。
安いものでないのは勿論だし、自身がとても気に入っていて、嬉しそうに文字盤を見ているのを、鞄を撫でているのを知っている。
「そんな訳ねえな」
「い、いえ……。本当になんでもないです!」
オルゾは彼女の顎に右手の指を当て、強引に目を合わせさせる。水色の瞳が揺れた。
頬、化粧の下、僅かに腫れている。
「涙の匂いさせてなんでもねぇだと?俺に嘘をつくとはいい度胸だな」
後退り、話そうとはしない彼女を逃さない。同じ速度で前へ。部屋の中では逃げ場もない。追い詰められた彼女の頭の脇に、左手を壁に突く。
「話せ」
彼女の脚の間にオルゾの脚が差し込まれる。
逃げることも、崩れ落ちることも、目を逸らすことも許されなかった。
「あ、か、家族の事なので」
「そうか」
オルゾは手を離す。
「いいか、1つ言っておく。
この事務所に所属すると言うことは家族ということだ。俺も、エキーノも、お前もな。それだけは覚えておけ」
そう言って彼の部屋へと歩み去った。
その日の休憩時間、カンディータとエキーノはキッチンに。足元には猫のフラーゴラ。
冷蔵庫から取り出したマカロンの個包装を解いて皿に盛り、紅茶を淹れながら今朝の話をする。
「そりゃあ、オルゾさん心配なのさ」
「でもそんなご迷惑をおかけする訳には……」
「それを水臭いって言うんだ。食べな」
エキーノは積んでいるマカロンから緑のそれを彼女に渡した。
「ありがとうございます。でもこんなお金いただいたのに迷惑しかかけてないとか……」
「家族って言われたんだろ?迷惑なんかじゃない」
カンディータはマカロンを小さく齧る。ぱっと目が大きく開かれる。
「ピスタチオ味、初めて食べたけどおいしいですね!」
「そうだな」
フラーゴラが立ち上がり、ととと、とキッチンを後にする。
「あれ、どこ行くの?」
カンディータは呟き、エキーノはヤバっと身を竦めた。
ガン!と壁を蹴られる音が響く。
「あ“あ?日本のあまおう味が至高に決まってるだろぉ!」
唖然とするカンディエータの前で、ロングコートを羽織ったオルゾは皿に盛られたマカロンから真紅のそれを取ると自らの口に放り込んだ。
そして紅茶を流し込むと一言口にする。
「出る」
オルゾは踵を返してキッチンから出て行った。
カンディエータは慌てて立ち上がる。
「は、はい!いってらっしゃいませ!」
エキーノもまた慌てて立ち上がる。
ーーオルゾさんがあまおう味のマカロンを食べるのは荒事の直前と決まっている!
だが追いかけようとした彼をオルゾは振り返りざまに手で留めて出ていった。少しして地下の車庫から独特のノイズの入る爆発的なエンジン音が飛び出していく。
アルファ・ロメオの4C Spider、独特なヘッドライトが夕暮れの街に軌跡を刻んだ。
下町の酒場、まだ夜には早い時間で客も少ない。
その入り口に一台の車が止まった。まるで店の入り口を塞ぐような位置に。
入ってきたのは安酒場などまるで似つかわしくない風貌の男。本来ならホテルの最上階のバーでウィスキーでも嗜んでいるのが相応しい。
店主は入り口を塞がれたことに文句を言うでもなく、恭しく彼に頭を垂れる。オルゾは店内を一瞥すると、カウンターに座る50歳前後の男に気さくに声を掛けた。
「やあ、兄弟」
「ああ?なんだよ」
「カチコミさ」
オルゾの拳が男の顔面をとらえた。
「あ、あが……な、にを……」
鼻から血を流して顔を押さえる男の鳩尾にフェラガモの革靴が埋まる。
酒瓶を巻き込んで倒れ、呼吸もままならず床に唾液を垂らす男。
ついた手を軽く足で刈り、顔面を床に突っ込ませる。そして背を踏みつけた。
「人の金で遊ぶとはご機嫌な身分だなと思ってな」
男の手がナイフを隠し持つ腰へと走る。
だがオルゾは背骨を強く踏みつけた。骨と骨の間をこじ開けるように踵を差し込む。
「ぐあっ」
激痛が走る。男が痙攣するかのように動きを止めた。
「分かるぜ、ポルポ組の賭場が無くなって久しぶりに家に帰ってみたら娘が分不相応な金目のモノ持ってたんだろ。ちょっと質流して懐に入れても仕方ないよなぁ?」
「あ……、そ、そうだ!」
先程ナイフを抜こうとしていた手首を踏み砕いた。
「んな訳ねえだろカスが!!」
サッカーボールのように頭が蹴り飛ばされた。
夜、オルゾが機嫌良さそうに事務所に戻ってきた時、エキーノとカンディータは唖然とした。
彼がずたぼろの男を引き摺って戻ってきたからだ。
「なんだ、お前たちまだいたのか」
「ええ、それは……」
「お父さん!?」
びくり、とずたぼろの男が顔を上げた。
「あ……。か、カンディータ。助けてくれ……」
「お父さん……」
「頼むよ、俺が悪かった……反省するから……」
オルゾはぐっと男を持ち上げて立たせ、カンディータに告げた。
「お前に買わせたモノ、こいつが質に入れて酒代にしたのは分かっている。あれは俺の金だ。その分のケジメはつけさせた。
カンディータ。お前はどうしたい」
答えは何よりも雄弁な無言の拳だった。
カンディータの右拳が真っ直ぐに父である男の顎を捉えた。
オルゾが手を離すと、男はその場に崩れ落ちた。カンディータは息も荒く殴った姿勢のまま肩を怒らせて硬直する。
人を殴った経験などまずあるまい。その衝撃は自らにもかえるのだ。
「オルゾさん……ごめんなさい」
「何に謝る」
「オルゾさんに、隠し事をしようとしたことを」
「そうだな」
オルゾは懐からエミリオ・プッチのハンカチを取り出すと、赤くなった彼女の拳を包んだ。
カンディータの瞳から涙が落ちる。オルゾが彼女の栗色の頭に手をやると、彼女はオルゾに抱きつき、泣き出した。