インテリマフィアなオルゾさんと彼の一張羅。
オルゾはナポリという街が好きである。もちろんどこの街が一番好きかと問われれば、敬愛する首領がいて、オルゾが事務所を構える地元と答えるのは間違いないが。
しかし彼の地元は愛すべき街である一方で、正直、漁業の町であり大きな町ではないため、垢抜けない印象があるのも間違いなかった。
ナポリはやはりそこが違う。もちろん大きな街であるから悪いところもあり、例えば貧民層の住まう地域も大きい。だが、プレビシート広場など中心部を歩けば、やはりそれだけでも美意識が違う。
そこらを歩いているおっさん、爺さんどもが散歩をするのに小洒落たナポリ仕立てのジャケットを羽織っているのだ。足はボロいスニーカーだったりするのにである。
この町でもオルゾは目立つ。
もちろんそれは彼の容貌が整っているのもあるが、それ以上に雰囲気が硬いのだ。彼が今着ているのもナポリ仕立てのスーツであるが、ジャケットとパンツの色も同じだし、ネクタイを締め革靴である。ナポリ人からすればカジュアルさ、遊びが無いといえるだろう。
オルゾは広場から外れ、裏通りへと向かった。この辺りには男性向け紳士服の仕立屋が立ち並ぶ一角である。
オルゾは看板も見当たらない一軒の店の前に立った。
よく見ればポストに申し訳程度に『フェリーチェの店』とだけ書かれている。
オルゾは緊張した面持ちで扉を開けた。彼の手には立派な菓子折りがある。
ちりんとドアにつけられた鈴が軽い音を立てた。
建物に入ればすぐに奥から声がかけられる。
「オルゾの若旦那かい。ちょっとそこらへん座って待っててくれ」
店主の男、フェリーチェはそう言うが、この店に座る場所などない。見本のスーツやマネキン、トルソー、積み上げられた高級生地などで埋まっているのである。
「ああ、相変わらずよく分かるものだな」
オルゾから彼の姿は見えない。奥を覗けば、背中を丸めてスーツの肩口を縫っている最中の男の姿があった。
顔を上げることはない。ここの縫いの良し悪しが着心地の生命線であるというのが店主のこだわりだとオルゾは知っていた。
「はっ、碌にいない常連の足音くらい、分からないわきゃないだろう」
オルゾはそれには沈黙で答えた。彼曰く、足音から体格が分かるし、顔を見れば骨格が分かると。
そんな訳はないと言いたいが、似たようなことができる人間がもう一人いることをオルゾは知っている。彼の兄である。あれも異常な知覚力を有しているのだ。
ちなみにこのことをかつてオルゾはエキーノに話したことがある。
彼は不思議そうにこう答えた。
「オルゾさん、普通の人間は株の図表を一見して、次に上がるか下がるかを必中させられないんですよ」
結局のところ、オルゾにとってそんなものは当然分かることであるが、ほとんど全ての人間には分からないことであるらしい。フェリーチェの親方やオルゾの兄であるアキッレーオの知覚力も似たようなものだと思わされたのであった。
ちなみに常連が碌にいないというのはこの店が流行っていないからではない。一着一着手作業で仕立てているので、そもそも客をそんなに取っていないのだ。
手元に集中する店主の邪魔をせぬよう、オルゾは音を立てずに店の中を見て回る。陽の当たらない場所に無造作に積まれている布地には着道楽たち垂涎の逸品も眠っているのだ。
オルゾはそれを見ているだけで待つ時間は苦にならなかった。
「さて……」
フェリーチェがそう言って顔を上げたのはオルゾが店に来てから15分以上は経った頃だろうか。針と布を置き、両手で顔を揉んだ。歳のころは50代の後半、草臥れて、だがかくしゃくとした職人の顔であった。
彼は言う。
「若旦那、まだあんたの予約はだいぶ先だぜ」
「ああ、知っている」
そう言うと、オルゾは直角に腰を折り、手土産の菓子を差し出した。
「今日は詫びに参りました!」
頭上から溜息の音が聞こえる。
「フェリーチェ親方に仕立てていただいた一張羅、汚してしまいました!」
「やめてくんな、マフィアの幹部に頭下げられちゃあ怖くて仕方ねえよ」
そう言いながらも恐れる様子はない。
当然だ。そもそもこの店はオルゾの敬愛する首領の通う店なのだから。
「それに、仕立た服はあんたのものだ。破こうが燃やそうが、それはもう俺に関係はねえよ」
オルゾの着ているスーツは厳密には高級仕立服ではない。オート・クチュールとはサンディカと呼ばれるパリのクチュール組合の加盟店であるシャネルやクリスチャン・ディオールにおいて職人が手作業で作りあげた最高級品のことを示す。
よって定義的には彼の服は注文服というのが正しい。
だが、彼が注文しているのはそのサンディカ加盟店であるジバンシィにかつて所属していたイタリア人の職人の手によるものである。
それがこのフェリーチェ親方であった。故にその服は高級仕立服と言っても差し支えない品であろう。
オルゾがこの店に来る一月ほど前のことである。彼が関わった事件の中で、そのスーツを一着ダメにしてしまったのであった。
「はい……」
オルゾは頭を上げる。
彼がここまで敬意を払うのは、首領を覗けばこの親方だけであった。
「かみさんに渡しておくわ」
フェリーチェは菓子折りを受け取った。この男が持ってくる菓子を彼の妻が好んでいるのだ。
「まあいいぜ、随分と大変だったんだろ」
ぴくり、とオルゾの眉が動いた。目の前の男は仕立屋の親方である。裏稼業の人間とも付き合いがあるとはいえ、オルゾが関わっていた事件のことを知っている素振りを見せたからだ。
フェリーチェは笑った。
「そりゃあ若旦那の地元やローマのことは分からんがね。ウチバタバタされてりゃ分かるってもんよ」
そう、オルゾが関わった事件は彼の地元で始まり、ナポリで解決したのだった。
「すいません、周囲を騒がせましたか」
フェリーチェはいいってことよと手をひらひらと振った。
「いやな、そもそも若旦那がそろそろ来ること分かってたのよ」
「この店と懇意にしてくださる、このあたりの顔であるお貴族様とな、あとは旦那のとこの首領から連絡あってさ」
オルゾの顔に緊張が走る。
「彼らはなんと……」
「俺たちの服の納品は後でいいから、若旦那の服を先に仕立ててやってくれってよ」
つまり、それがオルゾの関わった事件への報酬なのであった。
フェリーチェはオルゾの肩を叩き、店の中を示す。
「さ、見てたんだろ? 旦那の好みの生地はいたかい?」
…………
その日のSNSでちょっと話題となった動画がある。
それは銀髪碧眼のスーツをビシッと決めたイケメンが、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら踊るような足取りでナポリのプレビシート広場を横切っていく動画であった。