インテリマフィアなオルゾさんの鞄持ちであるエキーノは今日も部屋の隅に控えている。
「もう一度言ってみろ」
低い声が部屋の主から発せられると、彼の膝の上で喉を鳴らしていた猫はびくり、と頭をもたげてそこから飛び降りた。
「は、はいっ、あ、あのですね。オルゾさん。ぼ、ぼ、首領のお嬢様が……」
オロトゥーリア組の幹部、オルゾは高級仕立服のスーツについた灰銀色の毛を払うと、ソファーの上で長い脚を組んだ。
話を聞くにつれ、彼の顔、銀縁眼鏡の裏の眉間に縦皺が寄っていく。
オルゾに話をする準構成員、要は三下によるとこうだ。
首領の娘、マーレは首領と喧嘩して男連れで家を出たとのことだ。駆け落ちのつもりか。
だが、彼女の安全は護衛あってのものであり、この街にいてこそだ。組とは地域に根差すものなのだから。
つまり街を移動すれば話は変わる。隣町に逃げて即、その街を牛耳るポルポ組に捕らえられたらしい。
オルゾの口から溜息が漏れる。
部屋の隅に控えていた鞄持ちのエキーノは、急ぎオルゾの配下である構成員たちに召集をかけた。
エキーノの前を猫がちりちりと鈴の音を立てて歩き、部屋を出る。
彼女には分かっているのだ。これからここが慌ただしくなると。彼女の主人の機嫌が悪くなると。
オルゾという男はオロトゥーリア組に入るや否や、めきめきと頭角を現した男であり、まだ30代でありながら組の幹部として会計を任される組織のナンバースリーである。
海際の街で構成員には漁師も多く、腕っ節の太い男達による組織において、なぜこのような地方の組にいるのか分からないと言われる細身のインテリ。
嘘か真かボローニャ大で経済学を専攻する首席であったとも噂され、事実、彼が会計を任されてからの数年で、組の資金は違法行為をすることもなく10倍になったという。
すらっとした鼻梁に乗せられた銀縁眼鏡の裏には切れ長の眦、碧の視線は鋭く、酒場にでも行けば女たちから常に婀っぽい視線を向けられる。
だが一方で彼の配下たる構成員たちは彼の視線をこそ大いに畏れているのだ。
「リッチョと言ったか」
「は、は、はい!」
彼の前に立つ三下が背筋を伸ばして返答する。
「お前はグラーノさんのとこの構成員、カラマーロに付いてるな?彼は首領の娘の警護を管轄していて、今グラーノさんに拘束されてる。
そして首領はまだこれを知らない。バレる前に解決したいって腹だ」
リッチョはまだ何も語っていない。
だがそのくらいは推し量れる。グラーノはオルゾが生まれる前から組に所属する古参の幹部だ。それも武闘派の。
武闘派と言えば聞こえはいいが、荒事がいつだってある訳じゃない。表向きは警備員の仕事に就いている者が多いのであった。
リッチョの脚が震え、崩れ落ちるように跪き、床に手をついた。
「な、なにとぞ、なにとぞ。オルゾ幹部のお力添えを……!」
オルゾの指が不機嫌そうにソファーの肘掛けを叩く。
エキーノは急いで駆け寄り、懐から煙草のケースを取り出す。
黒の箱に銀の文字、シガローネ・ロイヤル・スリム・ブラック。細身の煙草、その一本を差し出すとオルゾは銀の吸い口を咥えた。
ーーキン。
甲高い音。
同じく銀に黒、デュポンのライターで煙草の先端を炙ると、オルゾはゆっくりと紫煙を吐き出す。
指の動きが止まった。
本来ならリッチョが駆け込むべきは顧問の元だ。上を通したくない身内の問題は顧問に相談すべき。
だが顧問は即応的な力には欠ける。
故にオルゾの元に来た。理解できる。
だが首領に隠しておこうという腹が気に入らない。もちろん、その場合カラマーロは責を取って殺されるであろう、なんなら幹部のグラーノもだ。
「……いいだろう。力添えしようじゃないか」
平伏していたリッチョの頭が跳ね上がる。
「あ、ありがとうございます!」
リッチョは低頭した。それは感謝ゆえではない。あまりにも鋭い碧の視線がリッチョを射竦めたからだ。
オルゾは思う。グラーノは馬鹿だ。そして時代遅れの老いぼれだと。
だが彼が首領を敬愛し、忠誠を誓っているのは間違いない。
彼自身が首領の娘を警備していたのなら即座に首領に報告し、首を差し出していただろう。
だが目を掛けている部下がそうなると、動けなくなったか。
くそ売女めが……。
オルゾは誰にも聞こえないように呟いた。
だがエキーノはびくりと震え、顔を青くした。
そもそもマーレが逃げ出しているのが全ての問題である。
オルゾは首領に忠誠を誓っているが、首領の娘には誓っていない。
彼にとってグラーノやその地位を継ぐであろう名誉ある男たちの命が、小娘の我儘如きで脅かされるのはあってはならないことであった。
次々と男たちがオルゾの事務所にやってくる。伝統的なマフィアの構成員たちは個人事業主だ。普段は別の仕事に着いているが、組の命あれば動くものたち。
オルゾも表向きは会計士であるが、裏での仕事は組の資金の投資や洗浄である。
そんなオルゾ会計士事務所に漁師や床屋、酒場の店主らが入ってくる。それぞれが密輸屋であり、殺し屋であり、高利貸しだ。
オルゾより歳上の者も多いが、彼の有能性を理解する忠実なる部下たち。
彼らは自分たちが会計士事務所には不似合いであることをきちんと理解している。
裏口から入る者、人の見ていないのを確認してから入る者。
だが……。
事務所の窓、ブラインドカーテンを指でずらして道を見下ろすオルゾの眉が寄せられる。
今回の件、グラーノ幹部の傘下の構成員との合同作戦である。
それは当然だ。敵対組織、ポルポ組から首領の娘を奪還せねばならないのだから。
だが彼らは偽装という言葉を知らないらしい。警備員とチンピラが肩並べて会計事務所にやってくるという喜劇のような光景。
その事務所が自分のものでなければ笑ってやれるのだが、これではただの悪夢である。
カシャリ。
オルゾがブラインドから手を離すとアルミが軽い音を立てた。
「脳筋どもめ……」
そう呟いてソファーに座り直す。ソファーの前のローテーブルに地図やペン、マーレの写真、ポルポ組の資料などを並べていたエキーノは苦笑する。
オルゾは眼鏡のブリッジに中指を当てると、そのまま目を瞑り、顔を隠すようにして動かなくなった。彼が深く考える時の姿勢だ。
そうして構成員たちが集まり、事務所の部屋に人が増えていく。オルゾは動かず、エキーノが案内と挨拶をする。
部屋が人でいっぱいになった時、オルゾの瞳が開き、前置きもなく言い放った。
「作戦は簡単だ。ポルポ組を正面から叩き潰す。今の組なら力量差は明らかだ」
隣町の地図、ポルポ組の人員がいる場所に点されているものに、赤のペンで進行ルートとして矢印を何本も書き始め、時刻まで書きつけた。
騒つく室内。
「け、警察はどうしますか?」
「“壊し屋”ファゾーロを脱獄させてやればいい」
今、隣町でパクられてるポルポ組の荒事師の名を上げた。
「あ、あの脱獄されたらせっかくポルポ組の勢力が落ちているのに」
「脱獄させてわざと武器を与えてから居場所をチクり続ければいいんだ。警官をそっちに釘付けにしろ。そもそもポルポ組が存在するのは今日までだ」
再び部屋が騒つく。
「た、大義名分は。私闘の範囲を超えています」
「ポルポ組はホテルで大規模な賭場を経営している。名誉ある男の仕事ではない。しかもイカサマ師を抱えている。充分だろう」
「……ですがそんなのは初めから分かっていることです」
賭博と売春は名誉ある男の仕事ではないとマフィアの間では忌避される。だがそれに手を染めるものがいるのは当然のことだ。
オロトゥーリア組とて、オルゾの配下にはそれらの仕事をするものはいないが、他の幹部の下には女衒をやっている者がいるのも分かっている。
「首領の娘がそれに居合わせて先走ったことにすればいい。そのくらいは娘に泥を被らせろ」
「お、お嬢様の安全は?」
「ポルポ組からまだ連絡がないのはなぜだ」
その問いに答えられるものはいない。
「無論、幾つも理由は考えられる。だがあの我儘・じゃじゃ馬・猿娘ならこうである可能性は高いと思わないか。
一度捕まってから暴れて逃げ出していると」
おお、と声が漏れる。
「その可能性がそれなりにあるのだとしたら拙速は巧遅に勝るはずだ。さっさと分担を決めろ。俺はグラーノさんの配下が何を得手としているかまでは知らんからな」
オルゾの周囲で積極的に意見が交換される。
オルゾは視線を地図に固定しつつ用意された紅茶を口に含んだ。
ーーちっ。
舌打ちの音が小さく部屋に響いた。
男たちの身体がびくり、と震える。
「幹部、何か問題が」
構成員が尋ねる。
「……何でもない」
エキーノには分かる。紅茶がぬるかったのだ。
見知らぬ女が動いていた。恐らく、女だからという時代錯誤な理由で茶を淹れさせられていたのだろうが、紅茶の淹れ方が不味いのでは意味がない。
オルゾは極端に嗜好にうるさいのだ。
エキーノはそっとソファーの側から離れると、キッチンへと向かった。
冷蔵庫に常備されたダロワイヨのマカロンをお茶請けとしてそのまま皿の上に盛って部屋に運ぼうとしている女を見てエキーノはぞっとした。
個包装のビニールを開封すらしないとは!
この女はマフィアの幹部に自らの手でちまちまとビニールを破かせようというのか!
「あー、ご苦労だった。俺が運ぼう。後は座って休んでいてくれ」
エキーノはキッチンの入り口で皿の上に盛られたマカロンを全て袋から取り出しつつ、ちらりとオルゾを見る。椅子を叩く指の速さが彼の不快さを示しているのだ。
エキーノはため息をつくと、赤いマカロンを下に、緑のマカロンを一番上に積みなおして部屋へと戻った。
人の間を縫ってソファーの側へ。
「オルゾさん、紅茶を交換しましょう。それと茶請けです。どうぞ」
オルゾが手元の資料、突入するホテルの構造に集中しているタイミングを見計らって、片手で紅茶を遠ざけてから、マカロンの皿を差し出す。
資料を見つめたまま彼の左手が横に伸び、エキーノはそこに皿を合わせた。
見ることもなくマカロンを口に運んだオルゾの薄い唇が開き、マカロンを咀嚼する。
彼の喉仏が上下に動き、そして彼は動きを止めた。
オルゾの左手がゆっくりと伸び、エキーノの後頭部を掴む。そしてそれを全力でローテーブルに叩きつけた。
頭がマホガニーに叩きつけられる鈍い音。
散乱する資料、写真。飛び退いて唖然とする構成員たち。
「てめえエキーノ!何年俺の鞄持ちやってんだオラァ!」
オルゾの左手はエキーノの襟首を掴み、その細身の身体からは想像もつかぬような力強さで彼を釣り上げると、右の拳を顔面に何度も振り下ろす。
鼻血が飛び散った。
「荒事の前はいちご!それも日本のあまおう味に決まってんだろ!」
髪とシャツを持ってエキーノの身体を向かいのソファーに投げ飛ばした。
「すいません兄貴!」
オルゾは立ち上がりながらローテーブルを持ち上げる。それをエキーノに叩きつけた。
「それも俺の嫌いなピスタチオ味を出すとはいい根性してるじゃねえか!あ”あっ!?」
さらに足が出る。フェラガモの革靴の爪先がエキーノの腹に何度も沈む。
「すいません!すいませんでした!」
ガタガタと震えるエキーノを見下ろして、オルゾは懐からエミリオ・プッチのハンカチを取り出して血のついた拳を拭い、床に投げ捨てた。
目を見開いて絶句し、彼を見つめる男たちに低い声で言う。
「……お前ら、殴り込みの相談は終わったのか?」
「はい!!」
一糸乱れぬ返事が返った。
「良し、じゃあ行くぞ」
「はい!!」