ローズマリー ~記憶/私を忘れないで~
ローズマリー
花言葉は基本的に同じ品種でも色によって込められた言葉が異なるものですが、ローズマリーはその例ではなく、どれにも“記憶”や“愛”に由来する花言葉が込められています。記憶力と香りの関係性は有名な話ですが、変わらない愛の気持ちは、ハーブとして用いるローズマリーの葉や茎が、乾燥させても強い香りを持つことから由来しているそうです。
今回、彼らが演じるのは、忘れられない大切な思い出のお話です。
「二丈先生!また例の患者さんがいません!」
「またか…。えっと、今の時間なら屋上にいるはずだから。篠原、頼めるか?」
「はっ、はい!」
痴呆症の患者を預かるというのはとてもストレスがかかるものだ。病気の治療だけでなく、介護にも気を配らなくてはいけないのに加えて、記憶が抜け落ちてしまったがためにとる行動は未知数。病室棟5階にある09の病室に入院している患者はそんな中でも昔の記憶を頼りにしているのか病院中のどこかへ、時々ふらっといなくなってしまう人だった。
「あっ、一之瀬さん居た!ほら、病室に戻りますよー!」
「んん~?んんー。」
返事をしてくれてはいるのか、声になりきれていない音を発している。こちらから話しかけたときに発してくれているので、とりあえずコミュニケーションをとることはできているのだと判断しているが実際のところはわからない。
年老いた体で治療も受けている状態では、移動することもままならないと思われるのに、果たしてこの患者のどこにそんな元気があるのだろうか。
例えば今日は木曜日。この曜日なら夕方になると必ず屋上にいる。もちろん安全面も考えて勝手に出歩けないように工夫を凝らしたのだが、痴呆症+老体を相手に一度も成功したことはなかった。せめて出歩く前を発見できれば付き添ってあげれるのだが、何度言い聞かせても伝わっていないのか忘れてしまうのか、一度も病室で待ってくれることはなかった。連れて行かないと必死の形相で唸り始めてしまうが、一度その場所についてしまえば後は不思議なほど従順になる。必要以上に暴れて怪我をされても困るので、先に見つけることができたときは渋々連れて行っている。穏やかな表情に戻れば、病室にすんなり戻ってくれるのだ。
「一之瀬さん、どうしても行かないとダメなんですか?」
「んんー。」
「はぁ…、やっぱり会話は出来そうにありませんね。あれっ、何を持っているんですか?」
病室に戻ってベッドに腰かけていたが、ぎこちない動きのままなかなか寝そべってくれなかったことが気になった。そんな老人の手元を見ると、何かを握りしめていた。拳の隙間からちらちらと見え隠れしているのは、くしゃくしゃに握りつぶされたハンカチだった。
「一之瀬さん、それ…。」
「ん…。」
「洗濯して、アイロンもかけてあげましょうか?」
「んん…!」
この病室で私物を見たのは初めてだった。入院した時も必要最低限の荷物しか持っておらず、それも今では整理されてしまっている。また親族の誰とも連絡が取れず、仲のいい友人も分からないため、お見舞いに来る人は当然いない。そうなれば、もともと住んでいた家から何か持ってきてもらうということもないため、私物が増えるということもなかった。もしかしたら根気よく探せばこのハンカチ以外にも何かが見つかるかもしれないが、意思疎通を満足にとれない老人から何かを教えてもらうというのは無理がある話だ。
だが、ずっとコミュニケーションをとることが困難だと思われているせいで、まともに誰かと交流できなかっただけなのかもしれない。この時、八千代は何をしてあげたら喜ぶのか自然と分かった気がした。そして老人の方もそれにきちんと答えるように生き生きとした表情に変わり、握りしめていたハンカチを差し出してくれた。
よほど大切なものだったのだろうか、肌身離さず持っていたため正直臭いがきつい。刺繍も施されているようだが、保管状態が良くなかったみたいでほつれていた。いや、そもそも全体的に古い。少し引っ張っただけで破れてしまうかもしれないほど布もぼろぼろだ。これは丁寧につけ置き洗いで対処しないと残念な結果を招いてしまう恐れがある。
老人は八千代が何をしてくれようとしているのかちゃんとわかっているようだった。とても大切なものだからこそ綺麗な状態にしたいはずだが、一方で自分の目の届く範囲に置いておきたいという気持ちもあるはずだ。しかし、老人は八千代のことを信頼しているよと言わんばかりに微笑むと、ベッドに横になって眠り始めた。完全に託してくれたのだ。
「一之瀬さん、ちょっと待っててくださいね。」
八千代は小さい声でつぶやくと、物音を立てないようにひっそりとその病室を後にした。
その日の夜、勤務を終え帰宅した八千代は風呂桶を使ってハンカチを洗濯していた。目に見えるほどの汚れが泡と一緒に出てきたわけでは無かったが、鼻に突く臭いは無くなってフローラルな香りを纏ってくれるようになっていた。乾いたタオルで挟んで水気を取り自然乾燥させれば洗濯は完了なのだが、どうにもこうにも刺繍のほつれと布のボロさが気になってしまう。
刺繍の方は恐らく何かの模様だと思われるのだが、もともとがどのようなデザインになっていたのか現状からは判断が難しい。どちらかと言えば布が擦り切れて繊維がほつれている…と言っても過言ではない気がする。そんな特徴が目立つからこそ、全体的にボロく感じてしまうのだろうか。
「私、裁縫は得意な方だけれど、刺繍は元のデザインが分からないと直せないし…。穴が開きそうになってるところを丁度補修するように縫えばいいと思うけれど…。聞き出すことはできないだろうしなぁ…。」
とりあえず衛生面的にはきれいにすることができた。何日も預かるわけにもいかないが、このような状態で返すのはいたたまれない。とりあえずいつでも返すことができるように、角をそろえて畳みながらアイロンをかけ、仕事用の鞄の中にしわにならないように保管した。
翌日同僚にも聞いてみたが、皆首を横に振るだけだった。
「二丈先生、このハンカチなんですけど…、メーカーとか分かりませんか?」
「流石にここまでボロいとなぁ。これで返してあげても十分喜ぶと思うよ。ほら、そろそろ健診の時間だろ?一人一人大切にしてくれるのも良いが、それ以外もな?」
「はーい…。」
入院患者のいる病室を回り終える頃には、日も沈み始めていた。今日は日勤なので後は片付けをすれば業務は終了だが、金曜日でこの時間となれば、そろそろ気にかけなくてはいけない。
「やっぱり、ちょっと心配だし、見に行っておこうかな…。ほんとは今日中にハンカチも返したかったけど、どんなデザインなのか、結局分からないままだし…。」
「あの…。」
本棟のエントランスを呟きながら歩く。手に持っていたハンカチを老人に返すべきか、話が通じなくとも補強刺繍できるまで待っていてほしいとお願いしに行くべきか…、悩んでいたところを見知らぬ少女に話しかけられた。少女は三鷹七海と名乗ってくれた。学生服を着ているところを見るに学校帰りだろうか。どこか調子が悪かったり、辛そうなそぶりも見えない為、誰かのお見舞いに来た人かもしれないが、手荷物は何も持っていない所を見るに、済んだ後ということだろうか。だが念のため聞いておくことにする。
「お見舞いに来られたのでしょうか?受付は済みましたか?」
「お見舞い…、まぁそんなとこです。受付も別に大丈夫ですよ。それよりもお姉さん、そのハンカチですけど…。」
「あっ、これですか?実はある患者さんから預かっておりまして…。だいぶ長い間使われていたのか、とても古くなっていたので修復してさしあげたかったのですが…。」
「見せてもらうことってできますか?」
「ええ、構いませんよ。」
七海はハンカチを手に取るや否や、懐かしむような顔つきになり少しだけ涙目になり始めた。
「だ、大丈夫ですか?」
「あぁ、ごめんなさい。もしかしてこのハンカチを持っているのってお爺さんですか?」
「はいっ、そうです!どうしてわかったんですか?」
「そっか…、樹君、やっぱりもうおじいちゃんなんだ…。」
「?」
「えっと、私の知り合い…、に丁度これと同じのを持っている人がいまして。」
「本当ですか!その、デザインとか覚えていますか?丁度ここの解けてしまっている刺繍のところなんですけど…。」
「もちろんっ!スマホあります?えっと、検索してほしいワードは…。」
ハンカチは見事に美しさを取り戻した。生地自体を交換したわけでは無い為、どうしても賄いきれないところはあるが、小さくて可愛い薄紫色の花々が彩を与えてくれていることであまり気にならなくなっていた。花の名前はローズマリー。ハーブの一種で主に生葉や乾燥葉を用いられることが多いものだ。一本の枝葉にたくさんの小さな花をつける愛らしい姿は、個人的に育てるなどしないと、見られる機会は少ないかもしれない。
「すごいじゃんお姉さん!これならバッチリだよ!…ほんとに、あの時のまんまだよ。」
七海は喜びつつもどこか悲しそうな表情を浮かべる。そのことに疑問を抱きながらも、八千代はこれで老人に返すことができると気分が高揚していた。もし可能なら、時間が空いているのなら、今からハンカチを届ける間だけでも七海に付き添ってもらえないだろうか。彼女のおかげで修復できたことを老人に伝えてあげたい。
「これ、返しに行くの、私も付いて行っていい?」
「は…、はい…!ぜひ、お願いします!」
病室のある別棟までは各階ごとに渡り廊下があり、2人は1階をそのままわたってエレベーターを使って移動していた。その道すがら、八千代は七海に老人の事を教えた。きちんと話すことができなず、コミュニケーションをとることが難しい為、お礼を言われないかもしれないが、心ではちゃんと感謝しているということ。また、時々ふらっといなくなってしまうことに手を焼いていることもあり、もしかしたら今の時間は病室からいなくなっているかもしれないということ。事前に話しておくことで、彼女が不快な気持ちを抱かないように、八千代なりに気を遣っての対応だった。
「あの、どなたかのお見舞いに来られていたんですよね?すみません、お時間いただいてしまい…。」
「全然大丈夫だよ、お姉さん。それに私、お見舞いに来たっていうよりかは…、助けに、来たんだ。」
「助けに?」
「うん。私のせいで、ずっと一人ぼっちになってしまう呪いをかけられた人を助けに…。」
「えっと…、あまり自分のせいだと思わない方が良いですよ?その、ご友人さんですかね?その方も三鷹さんがお見舞いに来てくれたことをきっとうれしく思っていると思います。一人ぼっちじゃないということをきちんと伝えてあげれば…」
七海は俯きながらどこか歯切れが悪くなり、そう呟いていた。詳しい事情を知らない八千代ではあったが、彼女に暗い顔をしてほしくないという一心で励ましの言葉をかけた。人によっては慰めも励ましも、逆効果をもたらしてしまうことがあると途中で思い返して言葉が詰まってしまったが、彼女は笑顔を返してくれた。純粋に好意を受け取ってくれたようだ。
そうこうしているうちに病室の前に到着した。いつものようにノックをしてから入室したが、ベッドの上はもぬけの殻だった。残念ながら、今日はそういう日のようだ。
「ふふっ、ほんとにいなくなっちゃうんだ。どこにいるかは見当はついてるんですか?」
「すみません。恐らく今日なら、2階の渡り廊下にいると思います。その…、申し訳ないのですが…。」
「えっ、待つより迎えに行きましょうよ。大丈夫、私お散歩好きですから♪」
七海は快くついてきてくれた。2階の渡り廊下までは大した距離はないが、それでも連れまわしてしまうのは気が引ける。いつも通り、金曜日ならそこにいてくれるとよいのだが…。
「あっ、一之瀬さん、やっぱりここにいましたね!見てください、こちらのお嬢さんの協力もあって一之瀬さんのハンカチが…。」
廊下の真ん中に佇みそのまま本棟を見ている患者には、八千代の声は届いていないようだ。呼びかけている間にそのことに気づいたのだが、それだけではない。患者の周りの空気も、そこだけが別世界かのように異様な雰囲気に包まれているように感じた。目が離せない。何がそこまで興味を惹かれるのかは分からない。
極限まで集中して行く中で、起きながら夢を見ているかのようにとある風景が目の前に広がっていった。
~
「あ…あのっ!久しぶり…だね…。」
「えっと、君は確か同じクラスの…、ごめん、名前なんだっけ?」
「一之瀬 樹…です。」
「そうそう、一之瀬君!私は…」
「三鷹さん…、ですよね? 今週から、久しぶりに登校して…」
少年が少女を呼び止める。天気が良く、気持ちのいい日差しが渡り廊下に差し込み、明るく照らしてくれている。少女の顔がはっきりと見え、目線が合った少年は気恥ずかしさに負けて伏し目がちになってしまった。少女から視線を向けられていることは感じ取れたが、そこに込められている意思まではくみ取ることまでは流石にできない。
「あはは…、みんな聞いてくるんだもんなぁ…。だから、家の事情でさ…」
担任からの説明も曖昧なまま少女は久しぶりに登校してきた。クラスの人気者…というわけでは無かったが、みんなから既に質問攻めに遭っており、内心は疲れていた。「またか…」と思いつつ、まさか特定のクラスメイトだけに打ち明けるのも、後々面倒になりそうだと瞬時に判断し、他の人に説明した時と同じように、決まり文句を使う。だがその言葉を遮るように少年は声を上げた。相変わらず自信のなさそうな、覇気のない声ではあったが、渡り廊下なら十分に響く声量だった。
「あっ、えっと…、言えないなら無理しなくていいから。」
「え?」
「えっと…、その、久しぶりに会えて、嬉しくて…。」
「えっ…!?」
「ご、ごめん!それだけだからっ!」
少年は耳まで真っ赤にしながらそれだけを言い放ち、少女を置いて、手前の棟に向かって走り出した。それはちょうど八千代が立ち止まっていた方向でもあり、徐々に少年との距離も縮まっていく。目が釘付けのままその光景を見ていたが、迫りくるその勢いに慌てて腕で顔を覆い身構えた。しかし衝撃のようなものは何も感じない。
~
恐る恐る目を開けるとそこは元々居た病院の渡り廊下だった。幻覚でも見ていたのだろうか。少し距離を置いたところに変わらず患者が佇んでおり、八千代の隣には少女もいた。
「ん。」
「さ、お姉さん、次のところに行きましょ。」
「えっ、次のところって…。一之瀬さんも病室はそちらではないですよ?」
2人はそのまま目的地が予め定められているかのように迷いなく歩き始めた。本当はあまり動き回られても困ってしまうため病室に連れて行きたかったのだが、2人を止めるのは何故か気が引けてしまった。八千代は呼びかけつつも、足取りは自然と2人の後を追っていた。
渡り廊下をそのまま進み本棟につく。患者は足腰もあまり良くないので歩みは遅いが、それに対して特に文句も言わず七海は隣に寄り添って歩いていた。患者には親族や友人も居ないと聞いていたはずだが、並んで歩く2人の様子を一歩後ろで見ていた八千代は、どこか特別な関係のように見えた。
着いた先は屋上だった。今日は木曜日でもなく、夕方にはまだ早い時間だった。今までずっと守られてきた行動パターンが初めて違えた瞬間だった。付け加えるとするならば、昨日にだって来ている。病室からふらっと居なくなるのはあくまでも時々であり、毎日の習慣ということではないはずだった。
「一之瀬さん…? その…」
呼びかけようとして言葉が詰まる。なんと問いかけようとしていたのか、自分の考えが朧げになってしまい思い出せなくなってしまった。視界の端から白く淡い光に取り込まれていくように、渡り廊下で感じた感覚と似た夢見心地になっていく。
~
「はぁはぁ…、まだ…、待ってくれてた…。」
突然扉が開く音がして、後ろを振り向くと、先ほど渡り廊下で見た少年が居た。肩を大きく上下させながら声を絞り出している。よほど急いでいたに違いない。
「もう…、なぁに、用事って。こんなに待たせるんだもん、ちゃんとした理由があるんだよね?」
そんな少年の様子を呆れながらも、どこか期待している眼差しで少女は身構えている。
「そ、その…。僕…き、君のことが…」
「待って、その前に聞きたいことがあるんだけど。」
「うっ、うん。なに…かな?」
「あなたは、何かを手にするとき、それで幸せになれる可能性があるとして…、でも絶対に後悔するのが分かり切っているものがあるとしたら、それでも欲しいと思う?」
「えっ…、それは、どういう…?」
「いいから、答えて。」
少女は神妙な顔つきで訴えかけてきている。夕日に照らされて少しだけ赤みがかった眼差しからは、冗談など微塵も混ざっていない、少年を見定めようとしている強い意志を感じる。それは希望を見出そうとしているのか、あるいは何があっても拒絶しようとしているのか…。
少年は生つばを飲み込み、覚悟を決める。普段から口下手な自分だと自覚していたからこそ、この瞬間だけは何があっても言い切ると決めていた。このような質問が来ることは想定していなかったが、自分の意志を、素直な気持ちを嘘偽りなく伝えなくてはならない。
「…絶対に分かり切ってるものなんて、無いと思うんだ。」
「…そう。」
少年が捻り出した答えに、少女は悲しげに呟いた。だいたいこういう問いを投げかければ、返ってくるのは根性論や運命を変えるだのという話だ。もう聞き飽きていた。
「だって、例えば後悔してるってことは、一生懸命になれなかったってことでしょ?全力で楽しんだり、心から幸せを感じたりしなかったってことでしょ?それって、本当に難しいことだと思うよ。」
「えっ…。」
「仮にね、その時一生懸命だと思ってても、やっぱり後になって振り返るでしょ?あの時はよくできたって思ったり、やっぱりこうだったら、その時もっとできたんじゃないかって思うこともある…。」
「それは…、そうだけど…。」
「幸せもね、そんな感じだと思うんだ。後になってから、失ってからどれほど大切だったのか知るって、よく聞くよね。でも僕はそれじゃいけないと思う。幸せを感じたんだっていうことを、きちんと形にするべきだと思うんだ。」
「形に?」
気付けば少年は饒舌になっていた。さっきまで息を切らして、しどろもどろさせていた者とは思えないほど、真っ直ぐな意思を少女に向けてくる。その全てには少年のとある思いが込められている。
気付けば少女は虜になっていた。約束の時間から1時間も待ちぼうけになっていたのに、なぜそれでも少年の事を待っていたのか。何を期待していたのだろうか、それを知りたい。
「だから僕はね、きちんと言うよ。幸せを感じたとき、喜びを感じたとき、言葉にする。だから…」
そこまで言って、少年は深呼吸をした。少女の期待は心臓が鼓動する度に膨れ上がる。緊張感が高まる中、その響きは八千代の耳にも届いた。ドクン…、ドクン…と心音が体の中で呼応する度に、体の外からの音が聞こえにくくなる。
少年が肩を強張らせながら何かを叫んでいる。夕日で顔が赤く照らされた…、なんて目じゃないほど、真っ赤に染まった顔は少女にも映っていた。
~
「また、さっきみたいに…。あっ、いやいや、それよりも…っ!」
意識がはっきり戻り、自分が病院の屋上にいることを認識できた八千代は、立ちながら見ていた夢の続きを自然な流れで自分の隣にいた少女に聞こうとしていた。当の本人は懐かしむような顔つきで、屋上から見渡せる景色を眺めている。その雰囲気にのまれてしまったのか、あるいは少女に聞いたところで分からないだろうと思ってしまったのか、八千代は口をつぐんだ。
でも、本当は分かっていたのだ。どういう訳かまでは分からないにしても、夢に見た2人はお互いを名前で呼び合っていた。老人は夢の少年の面影がある。夢の少女に至っては、七海にしか見えない。きっとあの夢は2人の事に違いない…。でも、それならなぜ2人の間には何十年もの差が生まれてしまっているのだろうか。本当に2人の事なのだろうか…。
「ん。」
「さ、お姉さん、次だよ。」
もはや老人が次々と移動することを止めようとさえも考えつかない。口には出さないが、八千代の中にある好奇心と確信とが八千代自身を突き動かしていた。
次に着いたのは本棟と病室棟の間にある中庭だった。エレベーターを使っているとはいえ、病院の屋上から中庭まで異動するのは老体には応えるとは思うのだが、足取りはいつもより軽く、息も上がっていなかった。目的地が近くなるにつれて、まるで若返っていくかのように、不思議と老人が元気を取り戻しているように見えた。
中庭の中央には噴水があり、敷地は植樹帯で囲まれ、所々が花壇で彩られているため小さな公園のようにも見える。緑やせせらぎが目や耳を通して癒しを与えてくれる、病院には欠かせない場所だ。もちろんベンチもあるのだが、老人はベンチに座ることなく、そのまま噴水の前まで歩みを進め、池を覗き込んだ。
七海はそんな老人の後姿を見つつすぐ隣に並び、老人の真似をした。
「ん…。」
「懐かしいな…、本当に覚えてるんだね…。」
七海は懐かしいと言いつつ、とても悲しそうな声色で呟いていた。
七海が時折見せる哀愁を感じる表情、含みのある言葉、後悔の念に押しつぶされているような雰囲気。それら一つ一つが、八千代にある考えを生み出す。病院の敷地内の行く先々で見る白昼夢に心を動かされてはいるものの、それらは全て、七海だけが抱えている結末へと導かれることに八千代は無意識のうちに察していた。
2人の後姿を見ていると、より一層年の差が引き立つ。だがそんなものは気にしないと、2人の距離感が物語っている。見た目のせいで祖父とその孫のように見えるが、当の2人は…。
「恋人…、だった…。」
その呟きを境に、また八千代の視界が外側からぼやけていく。白く、淡い雲の中は2人だけの世界になった。池を覗いていた2人が視線を中庭の出入り口の方へ移す。八千代がそれを目で追う時には、既に白昼夢の中にいた。
~
「わぁ…、落ち着いてて、いい所だね。」
「でしょ?私の家のすぐ近くだけど、お気に入りの場所なんだ。それに私、お散歩好きだからね♪ 結構どんなところでも…」
少年と少女が公園の入り口の方からゆっくり歩いてきている。お互いの手がぎりぎり触れることのない絶妙な距離感だ。ゆっくり歩くにしてもその歩みはとても遅い。一緒にいる時間を噛み締めているのであれば良かったのだが、どうやらそういうわけではなさそうだ。
「…ごめん、ちょっとだけ休んでもいいかな。」
「うん、もちろん。」
「あっ、そっちじゃなくて…。せっかくだからこっちがいいな。」
少女は自分の笑顔が崩れそうになったことに気付き、少しの間だけ小休憩を挟みたくなった。本当に楽しいという気持ちからくる笑顔に違いはなかったが、どうしても体の不調を無視できなくなってしまったからだ。
少年はベンチに腰掛けるように先導しようとしたが、少女はそれをすぐに引き留めた。公園の中央にある噴水。その池の縁は少年と少女が腰かけるのに十分なスペースを持っている。水深は浅いが、絶えず水が循環しているため、飛び跳ねてきた水で、少しだけだが濡れてしまうかもしれない。
「ふふっ、いいよ。でも気を付けてね。」
「あぁー、子ども扱いしてるでしょ。」
「そんなことないよ。」
軽い冗談を返すことができるくらいならまだ元気が残っているようだ。少年は微笑みながら少女の隣に腰を掛けた。少女はわざとらしく頬を膨らませて少年に怒っているぞとアピールしたが、気恥ずかしさに負けて少年に笑顔を返した。
少女は腰を掛けるそのままの流れで噴水の方へ振り向き、池の水面に映る自分の顔を見た。小さい波紋によってランダムで小刻みに揺れる自分の顔に向かってため息をつく。
「ごめんね…。」
「えっ、どうしたの急に」
「私のせいで、こんなところぐらいにしか来れなくて…。本当は一之瀬君もいろいろ考えてくれてたのに…。」
「…。」
少年は返す言葉を失ってしまった。確かにいろいろ計画はしてきた。だが結果的にそれらは悉く断念した。少女の身を案じれば、あまり遠方には行けない。緩急があればそれが負担になり、人ごみに入れば緊張してしまう。学校でさえも本人が強く望むため許しているものの、2日目以降は保健室で休みがちになっている。
近場で、尚且つ休日の通学路の途中で、程よい自然があり、良く知っている安心感のある場所となれば、おのずと選択肢は狭まっていった。
どういえば、どのように伝えれば少女は傷つかずに済むだろうか。一緒にいられるのならどこでも良かったと、伝えたところで、少年の真意はきちんと届けられるのだろうか。公園も素敵なところだと同調することが、気を遣わせてしまっていると捉えられないだろうか。少年は本心で、今この時を大切に思っているのだ。
「ほら、見て?」
「ん?」
少年は身を乗り出して、少女と同じように水面に自分の顔を映した。相変わらず噴水の影響でたわんでいるが、細かい所まで気にしなければ表情ぐらいなら見て取れる。
「どんな風に見える?」
「どんなって…。」
水面には口角の上がった表情と、水面をただ見つめている気の抜けた表情が写っている。完全に対極的とは言えないにしても、少女なりに情報を得ることができた。
「楽しそうだね…。」
「だって、本当に楽しいからね。いや、正確に言ったら嬉しい…かな?」
「気を遣わなくてもいいよ。こんな味気ないのなんて、デートなんて言えないよ…。」
「ふふっ…。」
「な、なにがおかしいの?」
少年は脈絡もなく満足そうに微笑む。少女には、立ち上がって、また歩き出すのに十分な元気はないが、それでも口答えぐらいならできる。
「三鷹さんの方がもっと気を遣ってくれてるのが、嬉しくてね。」
「?」
「僕はね、本当にうれしいんだ。今まで見てることだけしかできなかった僕が、今では君の近くにいられる、君の隣に座って一緒に話すことができる。それがとっても…。それに今日は学校も休みだし、そんな日にわざわざ会ってくれてるのに、これがデートじゃなかったら、なんて呼べばいいと思う?」
「だって…、遊びに行くことも…、買い物とか、ご飯を食べたりだって…。こんなの全然普通じゃないよ…。」
少女はそういいながら姿勢を戻し、うつむいたままため息をついた。少年がどんな言葉を投げかけても、それを卑屈にとらえてしまう。少年が知る限り、少女に対してはそんな印象を持っていなかった。元気に見せていた教室での姿は無理をしていただけなのだろうか。
それでも少年はめげることはない。幾らでも、何度だって言い返すことができる自信がある。
「じゃあ特別ってことだね。」
「えっ…?」
「どんなところでも、何をしてても…。君と一緒だから、特別だね。」
「っ!? い、一之瀬君って、そんなキャラだった!?」
「えっ…、ぼく、何か変なこと言ったかな?」
「ほ、本気で言ってるの?気を遣ってるんだったら…、無理してそんなこと言わなくても…。」
「あの時言ったでしょ? きちんと形にするからって。信じて、これが僕の本心だから。」
水面ではくっきりとは分からなかった少年の顔を見つめる。その屈託のない笑顔は少女の曇り掛かった心を温かく照らした。少年が気を遣ったり、偽っていたりしていないことは見れば分かった。
少年の本気に気づいた瞬間、少女は目頭が熱くなった。自分がどれだけ否定しても、少年は気にも留めていない。それは決して悪い意味ではない。肯定的に捉えているから、それがさも当たり前かのように振舞っていることが、少女の心に安らぎを与えるに至った。
「もう…、ああ言えばこう言うんだから…。」
「えっ、ご、ごめんね?」
「ふふっ、冗談だよ。一之瀬君のおかげでちょっと元気出た。」
「そう?それなら良かった。」
「ほら、もう少しだけ歩こ。」
少女は体調が完全に回復したわけでは無かったが、少年の優しさで救われた心が小さな勇気を生み出し、その力で立ち上がった。
くるりと回転し、少年の方に向き直った少女の顔は嬉しさや恥ずかしさでぽっと頬を染めていた。おずおずと差し出された手が示していることを察せないほど少年も鈍感ではない。
少女が浮かべていた表情は鏡に映るように少年にも映し出された。同じ歩幅で歩きだした2人の距離は、公園を訪れたときよりもぐっと近くなっていた。
~
白昼夢に完全に意識が囚われていたはずの八千代は、いつの間に自分が戻ってきていたのか認識するのに時間がかかったように感じた。この夢見心地のまま、2人の行く末を見届けたい気持ちが無意識に生み出されており、現実と夢の境目があやふやになっている。
いや、夢に見えるこの現象が、2人の記憶なのだと直感しているからこそ、過去に実際にあった現実なのだと信じているからこそ、八千代は夢中になっている。
当の本人は気付いていないが、実際に朧げに見えていたはずのイメージは回数を重ねるごとに、徐々に明瞭になりつつある。
「つ、次はどこですか?」
「ん。」
「こっちだよ、ついてきて。」
もはや何の疑いも躊躇も無くなった八千代は、先導してくれている2人の後ろを刷り込まれた雛鳥のようについていった。渡り廊下、屋上、中庭に続いて次に訪れたのは踊り場だった。屋上に近い階段の踊り場だったが、八千代はただ2人についていっただけで、どの道を通って辿り着いたのか全く気にしていなかったため、正直なところ、ここがどこなのか分かっていなかった。
とにかく、辿り着いてからしばらく待つと、また視界の外側から白い靄がかかっていった。景色はほとんど変わることがないが、この夢を見ている間だけ病院ではなく2人が通っていた学校にいるのだと、無意識のうちに理解していた。
~
「あ~あ、せっかくなら屋上とか中庭でお弁当食べて貰いたかったな。」
「仕方ないよ、外雨だし。うわぁ、すごくおいしそうだね!」
「外で食べる方が絶対美味しいのに…。」
耳を澄ますと屋上へ続くドアの方から雨音が聞こえてくる。廊下に音が響きやすいことも影響しているかもしれないが、しんしんと降るような小雨ではないことは、この音が既に語っている。確かにそんな状態の外に出ようものならお昼ご飯どころではなくなってしまう。少女は目に見えて残念そうにしていた。
しかし、少年の方は嬉々としている。少女お手製の鮮やかなおかずがお弁当箱に詰まっていたからだ。
ご飯は鰹節をまぶした上に、醤油の味をしみこませた海苔を載せている。しなしなになるまで柔らかくなった海苔は、少年の好みに合わせたものだ。アスパラのベーコン巻きは塩コショウの香りが食欲を刺激し、少しだけついた焦げ目がベーコンらしいカリカリの触感を生み出していることを、見た目だけで判断できる。薄くスライスされた竹輪とピーマン、パプリカで作られた甘辛炒めは見た目を彩るだけでなく、ゴマの香ばしさも感じさせている。極めつけは少年が一番好きなおかずである卵焼きだ。丁寧に何重にも丸め重ねられた層は、中までしっかりと火を通しているため黄色と白のコントラストが眩しい。
「早速食べてもいいかな!」
「はぁ~、ちゃんと味わって食べてね?」
見た目より幼く見えてしまうほどの無邪気さに、呆れ半分、安堵半分で少女はため息をついた。すぐに食いつくのではなく、盛り付けや香りなど、少女がこだわったところにもきちんと注目してくれているのが嬉しかった。もちろんがんばって練習した甲斐もあり、味も申し分ない…はずだ。少年がそれぞれの品を一口食べるたびにうんうんとうなづきながら少女の方を向いてくる。モノを口にしているから言葉で表現できない分、身振り手振りでおいしさを表現してくれる。
少年は大柄というわけでは無い。食べるスピードも少女と同じくらい、ゆっくり目だ。少女が見守る中、これで卵焼き以外のおかずを一通り口にした。少年は一呼吸おいて自分の感じたことを素直に少女へと伝える。
「どうしよう…。」
「ん?どうしようってどういうこと?」
「幸せすぎて、にやけ顔が…。」
「もう!紛らわしい言い方しないでよ!美味しくないのかと思ったじゃん!」
少女は冗談半分でペチペチと少年の肩を叩いたが、もちろん怒っているわけでは無い。2人は抑えきれなかった笑い声をひとしきり踊り場に響かせると、昼食を再開した。
少女は安心した様子で自分のお弁当に手を付け始める。メニューは少年のものと同じだが、量は少女の方が少ない。味見した時と同じで、冷えても美味しく食べられるように味付けしておいてよかったと、料理を教えてくれた自分の母親に感謝しながら箸をゆっくりと進めていると、隣から硬いものをかみ砕くような音がした。
嫌な予感がする。少女は油を注していない機械のように小刻みに首を動かし、恐る恐る少年の方を見た。少年は幸せ一杯だった表情から一転、何とも気まずそうな顔をして咀嚼が止まっていた。
2人して切り口を見つけられずにいる。少女も物を口に含んでいるため、安易に声を上げられずにいる。そんな中、どういうわけか少年は咀嚼を再開しだした。
ガリッ、ガリッ、と明らかに卵の殻を噛み砕いている音が少女の神経を逆撫でする。少女は十分に咀嚼も済んでいないまま急いで飲み込み、抗議をし始める。
「ちょっと!無理して食べなくていいよ!ティッシュあるから、ここに…。」
「んっ…、もう食べちゃったよ。」
「…ごめん。せっかく楽しみにしてくれてたのに…、よりにもよって一番好きな、こほっこほっ…。」
「大丈夫!?」
急ぎ過ぎたせいで案の定せき込み始めた少女を介抱するために、少年はお茶をコップに注いで渡した。その時の驚き様は、噛み砕かれた卵の殻の音が響いた時に引けを取らないかもしれない。
「んぐっ…、はぁ、ありがと。」
「急いで食べたりするからだよ。気を付けないと。」
「ご、ごめん…って、そうじゃなくて!どうして食べちゃったの!?」
「だって、せっかく僕のために作ってくれたのに、粗末にしたくないからさ。」
「うぅ…、だからって、殻が混ざっちゃってるんだよ? 喜んで貰いたくて作ったのに…、私のばかぁ…。」
両肩をがっくりと下げて意気消沈してしまった少女にいたたまれなくなってしまった少年は、一旦弁当箱を脇に置いて少女に向き直った。少女の手に自分の手をそっと重ねて、微笑みかける。
「ありがとう。本当においしいよ。」
「嘘つき…。」
「僕は、君と一緒に居られるだけでも幸せなのに、嘘をつく余裕なんて無いよ。」
「っ!?何恥ずかしいこと言ってるの!」
少女は指先まで熱くなるほど照れ顔を隠せなくなってしまったので、声を上げながらそっぽを向いた。急に投げかけられる少年の言葉に未だに慣れずにいるため、どんなふうに反応すればいいのか分からないからだ。
顔の火照りが残る中、ゆっくりと少年の方を振り返ると、変わらず微笑みかけてくれていた。優しさに包まれるような安心感が少女の荒ぶる感情を落ち着けてくれる。
少年が気にかけず、許してくれようというのに、これ以上引っ張ってしまってはその厚意を無下にしてしまうというものだ。
「はぁ…。樹君には敵わないなぁ。でも次こそはちゃんと成功させるし、もっとおいしく作るんだからっ!」
「ふふっ、ありがとう。じゃあお弁当の続きを…。」
「あっ…、えっと…。卵焼き、不安ならもう食べなくても…。」
「さっき言ったでしょ?ちゃんと全部食べるよ。それに殻が入っちゃったときでも、ひとかけらぐらいしか入ってないでしょ。」
ガリッ
「うぅ…、ごめんなさい!吐いていいから、食べなくていいから~!」
「あっはっは!」
うるうると涙ぐませる少女と、これでもかと笑い続ける少年の両極端な表情が、八千代の心に響いた。当人でなくても、大切なひと時のかけがえのない幸せを感じさせてくれた。
そんな幸せな気持ちに、もっと浸っていたいと思ったのは八千代の本心からなのか、夢がそう思わせてきたのか、考える前に八千代は次の目的地へ歩き始めた。
「ここで、2人が同じ時間を…。」
八千代が歩いていく先に、ふわりと2人の姿が現れ、そして消えていく。並んで廊下を歩いたり、教室の机を囲い談笑したり、階段の途中ですれ違ったりと、何でもないような日常の一部一部が通り過ぎて行った。
どれも他愛のない会話や、目が合って微笑み返し合うなど、目に留まるのは特別な出来事ではない。それゆえに、それらの出来事が少年と少女の記憶の深いところに根付いている、鮮明に思い返せるようなものには見えなかった。
今まで見てきたものも、どちらかと言えば劇的なものではない。馴染みの場所で、普段と同じことをして、笑顔が生まれた、ただそれだけだった。
「それだけなのに、どうしてこんなに2人が眩しいんだろう。」
それは少女にとって、どんなに些細なことであっても、少年の言葉によって、日常がかけがえのない大切な思い出に変わっていたから。
なによりの証拠に、どんな思い出の中の少女もなんだかんだ笑顔の絶えない印象だった。
しかし、八千代が歩き続けていくと次第に2人の思い出に変化が訪れ始める。徐々に少女は思い出の中に姿を現さなくなり、必然的に少年は孤独な時間を過ごすことが増えていった。
時々映り込む少女の様子も、無理に作り笑いをしているようにしか見えない。それは少年と共にいることが嫌になっているわけでは無く、少年に心配かけまいと気丈に振舞っているものだということは、直接対面してなくともすぐにわかった。
そんな健気な少女の様子に、いたたまれなくなった八千代は無意識に駆け出していた。
だが八千代が見ているのは、あくまでも思い出の中の2人なのだ。虚像との距離が縮まることはなく、八千代の思いは宙に空ぶる他なかった。
ふと思う。仮に、駆け寄ることができたとして、八千代に何ができるのだろうか。2人の思い出に介入することは絶対にできない。2人とは生きた時間が違う。
「分かってる。私には何もできないことぐらい…。でも、こんなに素敵な2人の事を…。」
「本当にね。とても素敵な日々だったよ。」
「!?」
八千代がどうすることもできないと立ち止まり呟いていた時、突然自分の隣から少しだけ嗄れた老齢な声が聞こえた。
驚いて反射的にのけぞってしまった八千代だったが、その老人がいつの間にそこに居たのか尋ねる前に、誰なのか気づくことができた。
「えっ、一之瀬さん? やっぱりここは一之瀬さんの…、あっ、それよりも一之瀬さん喋れて…」
「彼女はね、本当に素敵なんだ。笑顔がね、一等素敵なんだよ。だから僕は遠くから眺めているだけでは満たされなくてね。彼女のそばにいたいと、そう思ったんだよ。」
「一之瀬さん…。」
「何から何まで幸せだった。これ以上のものなんて、僕にはなかったよ。」
老人は終始笑顔だったが、そこには懐かしむような哀愁も漂っていた。
そしてゆっくりと歩き始める。体が不自由だから早く動けないというわけでは無く、その場で見ることのできる2人の幻を反芻するように眺めているからだ。
加えて、八千代が歩いてきた道の先を進んでいるため、2人が一緒にいる幻はそこまで多くない。
そうやって進んでは眺め、進んでは眺めを繰り返す内に、とうとう少女の幻は姿をみせなくなってしまった。
老人と八千代の目には一人ぼっちの少年の姿が映っている。心の器にぽっかりと穴が空いてしまい、何をやっても満たされず、笑顔は形だけで生気を感じられなかった。
八千代を先導しているのが老人から少年にすり替わっていた時には、既に幻を見る道は行き止まりを迎えていた。
行き止まりには「三鷹七海 様」と書かれた部屋名札が張り付けられている。
少年がノックをしてから入室する。ドアが開いているうちに老人と八千代もその敷居をまたいだ。
「あっ、樹君…。」
少女は力なく少年の名前を呼ぶ。体に力が入らない為、ベッドに横たわったままだが、その笑顔から察するに、少しだけ元気が出たように見えた。
少年は笑顔でそれに答える。声を出せば悲しみのあまり裏返ってしまいそうになっていることを自覚しているからだ。
ベッドの横に備え付けられている椅子に少年が腰かける。少しだけ2人の目線が近くなった。
投げかける言葉が見つからず、少年は口を開いては閉じ、少女の顔を見ては俯き、沈黙の時間が続いた。
そこに突然終止符を打ったのは、少女のストレートな言葉だった。
「私の体の事は…、私が一番理解してるつもりだから…、かな。なんとなく、わかるよ。」
本人から一切誤魔化されず告げられた事実に、少年の心は完全に砕かれた。もう望みはないのだと薄々分かっていたからこそ、少女の言葉が胸に突き刺さる。それと同時にかつて少女に投げかけられた質問の真意を理解した。
『あなたは、何かを手にするとき、それで幸せになれる可能性があるとして…、でも絶対に後悔するのが分かり切っているものがあるとしたら、それでも欲しいと思う?』
脳内を反響するように少女の言葉が駆け巡る。少女はあの時から既にこの瞬間が訪れることを、逃れることのできない現実だということを理解していたのだろう。
「お願い…、お願いだよ…。」
そんな風に思わないでほしい。別れが訪れるなら、いっそのこと仲良くなるべきではなかったと、そもそも出会うべきではなかったと、そんな悲観的に思わないで欲しい。うまく言葉にできず、涙ばかりが流れていく。いつもは心が思うまま言葉を連ねることができたのに。
涙が止まらない少年を見兼ねて、少女は手に持っていたハンカチを差し出した。腕を動かす力がほとんど残っていない為、ハンカチ程軽いものであっても満足に運ぶことができない。
「もうほら、これで涙拭いて…。」
「うん、うん…。」
「ふふっ、もうびしょびしょだね。」
「だって…。」
大粒の涙がハンカチに染み込む。水分を吸収して布の色が濃くなっていく様は、あまりにも早かった。
「しょうがないなぁ…。じゃあそれはプレゼントってことで。」
「ぐすっ、ありがとう…。」
少年が知らないのか、知らないふりをしているのか。様子が変わる気配はなかった。冗談の一つや二つでも言っていないとこの空気に耐えられない気がしたのだが、少女の目算は外れた。
「えぇ…、ほんとに、樹君は仕方ないなぁ…。」
「どういうこと…?」
「ううん、何でもないよ…、そんな鈍いところも私は…。」
そこまで言いかけて、はっと気づく。もしこの言葉を口にしてしまうと、残された少年はどうなるのだろう。彼が言っている言葉はきっと全て本物だ。だからこそ、少女はそんな彼の未来を詰まらせることをしてはならないはずだ。
少女は溢れ出る気持ちを、そっと胸にしまい込む。
思いを抑え込むのは、いつ以来だろうか。そうだ。彼に声を掛けられる以前の事だ。いつも、叶うはずのない希望や、訪れることのない未来を考えては気分が沈んでしまっていた。だから、どれだけ気丈に振舞って笑顔を保とうとしても、根本的な解決には至らなかった。
それが少年と付き合うようになってからは、日常の中に笑顔以外の表情が増えた。苦しい時は少年を頼り、悲しい時は素直に露わにし、喜びを感じたときは心の底から笑うことができた。いつも気を張り詰めている必要がなくなったことによって少女の心は救われていた。
そうか。彼だけだったのだ。彼だけがここまで自分に向き合ってくれた。付き合ってくれた。尽くしてくれた。
抑え込むはずだった感情が、思い出が、いとも容易く溢れ出る。少女の中で少年は、何物にも変え難い、とてつもなく大きな存在になっているのだと気づかされた。
だから、少女はついポロっと言葉を零してしまった。
「ごめん…。やっぱり君だけは、私の事、忘れないでいてね?」
しばらくの沈黙の後、少年は流れ続ける涙をそのままに、少女の手をやさしく握った。その顔はお世辞にも勇ましさとはかけ離れたものだったが、何かを決意した、凛々しい表情だった。
「もちろん。君の事は絶対に忘れない。毎日、君の事を想うよ。」
彼の言葉が心地よかった。彼が覚えてくれているだけで報われる気がした。
彼の言葉で後悔の念に駆られた。彼を束縛してしまったのではと考えずにはいられなかった。
抑えようとしていた感情が昂った。彼にとっても、私は大切な存在になれていたのだ。
頭が冷えたのではなく血の気が引いた。彼に訪れるはずの幸せを、奪ってしまったのだと悟った。
胸の奥が温かい。あぁ、私は幸せに包まれている。
目頭が焼けるように熱い。あぁ、謝ってもきっと許されない。
「(ありがと…。ごめんね…。)」
少年に伝えたかった言葉はどちらだったのだろうか。どちらの言葉を伝えることができたのだろうか。
少年の声が遠退いていく。自分は彼に何を残したのか。かけがえのない思い出か。生涯縛られる呪いか。
相反する感情の揺れ動きに、少女はついに気力を使い果たしてしまった。
2人の幻はそこで消えた。雲を掻き分けるように、形を失い霧散していく。2人の幻が消えると同時に、色も失われてしまった。それはまるで色褪せた写真のように、遠い過去で時が止まっているようだった。
「彼女はそのまま眠ってしまってね。最後に泣かせてしまった…。彼女には笑っていてほしかったのにね。」
「一之瀬さん…。」
老人は幻をまだ見ているかのように、一点を絶えず見つめている。老人も時が止まってしまったみたいに、この場から動きそうにない。
代わる代わる見ていた色鮮やかな幻は、今やどこにもない。だが目を閉じれば、不思議にも鮮明に思い出すことができた。当事者でない八千代であってもだ。
最初、導かれるように見ていた幻は、気づけば魅了され、自分から好奇心のままに求めるようになっていた。幸せそうな2人が、八千代の心に深く残ったのだ。
「あの、一之瀬さん。あれっ、一之瀬さん?」
老人に呼びかけても反応が返ってこない。完全に何かに意識が囚われている。
「樹君にはね、私と別れた後からの時間がないの。」
突然死角から声が聞こえた。八千代がゆっくりと声のする方に振り向くと、そこにはいつの間にかいなくなっていた不思議な少女、もとい、樹とかつて付き合っていた七海が哀切この上ない表情で立っていた。
「時間がない?」
「そう。止まったまま。う~ん、というよりも過去の思い出の中をずっとぐるぐる回ってるだけ。身体だけ時間が進んで、心はずっと囚われたままなの。」
「…。」
八千代はその瞬間返す言葉を失ってしまった。現に老人が歩き始めると、今まで見てきた幻をもう一度一つずつなぞり始めたからだ。七海の言いたいこと、秘めた気持ちを何となく察してしまう。
「樹君はね、私の言った通り、毎日…。こんなの呪い以外の何でもないよ…。」
「(一之瀬さんはきっとそういう風には思ってない…。でも、どうやって三鷹さんにそれを伝えてあげれば…。)」
「樹君…、やっぱり私なんかと会わなければ、付き合ったりしなければ。」
「…それは三鷹さんの本心なのですか?」
「…そう、だよ。だから、樹君を助けるために来たんだもん。私が樹君の幸せを、未来を奪ったんだから…。」
「奪っただなんて、そんな…。三鷹さんにとって一之瀬さんは!」
「大切な人だよ!大好きな人だよ!だから私の事なんて忘れて、幸せになってほしかった!」
「三鷹さん…。」
大切に想うが故に、自分の事を忘れてほしかった。そんな儚い思いを抱いたことのない八千代は口を噤んでしまった。
共感どころか、理解することさえも難しい。そんな繊細な七海の想いに対して、八千代に何ができるだろうか。
「痴呆症なのに、私と過ごした場所は記憶に残ってるみたいで…。もうおじいちゃんになっちゃったのに、いつまでもいつまでも囚われたままだから。」
「そんな風に思わないでください…。」
考えても考えても、最善の答えは思いつかなかった。だから八千代の感じたままの、素直な感情を言葉に紡いだ。
「未来を奪ったなんて、いつまでも囚われていたなんて、三鷹さんとの出会いを、思い出を、呪いだなんて、そんなこと思わないでください!」
「お姉さん…?」
「私はあなた方と同じ時を過ごしたわけではありません。あなた方が感じたことの全てに共感できたわけでもありません。」
「…。」
「でも、一之瀬さんが不幸な人生を歩んでいたとは思いません。三鷹さんのことを考えていることが、彼を苦しめることになるとも思いません。」
口から自然に出てきた言葉は確かに八千代の本心からだったが、それ以上に、何か見えない力に背中を押されているように自分の言葉に強い意志を感じた。
その意思に圧倒されたのか、七海は似ても似つかない姿を八千代に重ねた。
「一之瀬さん(僕)は幸せなんです!三鷹さん(君)に会えて、三鷹さん(君)と過ごすことができて、何度も何度も言って来たのに、まだ分からないんですか!?」
「…っ!」
一之瀬の記憶を廻った時に見た表情はどうだっただろうか。何を語っていただろうか。何をしていただろうか。
本当にあれが不幸な人の姿なのか。そんなはずがないだろう。笑顔が絶えず、幸せを語り、共に過ごした日常が、どうしたら不幸になるというのだろうか。第三者から見ていた八千代がその世界に羨望し、思わず取り込まれそうになるほどだったのに、当人がその感情を否定することはできない。七海は気づいたら大粒の涙を零していた。
「分かるよ。だって、私も幸せだったんだから。」
思い詰めていた七海の強張っていた顔が涙と共に和らいでいく。
「私、まだ樹君のことを思っていて良いのかな。許されるのかな。」
「当たり前です。だって一之瀬さんは三鷹さんのことを…。」
七海は揺るぎない八千代の意志を感じたことで、最後の胸のつかえがとれた。
「ありがとう。お姉さん。」
その顔は安堵に包まれており、今にも霧が晴れるように消えそうになっている。
「お姉さん、最後に一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「もちろん、私にできることであれば!」
七海はいつの間にか手に持っていたハンカチを八千代に手渡した。それは七海が一之瀬に送ったものであり、一之瀬が唯一持ち続けていた私物であり、八千代が修繕に努力したものだった。
「これって…。」
「お姉さんにプレゼントしたいんです。」
ハンカチを贈ることは、相手に対して別れを揶揄していると言われている。別れの際に涙を流し、それを拭うことから来ているようだが、迷信だと思うならそれまでかもしれない。だが、八千代は一度見たことがあった。七海が一之瀬に別れ際に贈っていた時のことだ。
七海の心の内を聞いた今ならその時の真意が分かる。直接伝えられるほど気力は残っていなかった。相手を前に口に出せるほど勇気がなかった。叶わないと理解していても、まだ一緒にいられる時間を望んでいた。
だからこそ、遠回しに一之瀬に別れを告げようとした。結局その意図は理解してもらえなかったかもしれない。結局「覚えていて」とお願いしてしまったことで、このハンカチも意味を成さなかった。
そんな一度は思いを届けきれなかったモノに、もう一度思いを込める。必ず別れを告げる、そんな強い決意を込めなくてはならない。
「私、やっと自分のことを受け入れる覚悟ができました。」
「三鷹さん…。」
「私が行かないと、ダメなんですよね。だから樹君は…。」
「分かりました。では、ちゃんと言ってあげてくださいね。一之瀬さんに、私も幸せだよって。」
「うん。ありがとう、お姉さん!」
きっともう大丈夫だろう。八千代は自然と胸を撫で下ろした。
夢の世界はそれを確認したかのように、次第に眩くなっていく。色を認識できないほどの強い光は、まるで世界に始まりを告げる朝日のように八千代を包み込んでいった。
~
「篠原!篠原!!」
「え、あれ?」
「あれじゃないだろ。こんなところで寝るなって。」
八千代が目を覚ますと個室の病室にいた。ベッドメイキングも済んでいたようで、寝るにはもってこいの状態ではあるが、八千代が自分の意志でここで眠りについた記憶はない。決してサボっていたわけではないが、状況的に謝らずを得ない。
「す、すみません。」
「いや、いいんだ。最近忙しいからな。だが、ぷっ…。堂々と寝たらだめだぞ?」
「う~。」
二丈は特に咎めることもなく笑って許してくれたが、実際に寝てしまっていた事実は変わらないため、何も言い返せないし、受け入れるほかない。
やりきれない気持ちのまま病室を後にしたとき、八千代はふと気になって病室のプレートを確認した。508号室。一之瀬が入院している病室の隣だったが、当の病室は見当たらない。
「あれっ、二丈先生。確か509号室に一之瀬さんが入院されていたと思うのですが。」
「509?何言ってるんだ。9なんて数字、そもそも使われないだろ。ん?一之瀬…?」
二丈から指摘されて初めて気が付く。そういえば9という数字は「苦」を連想するという理由で、部屋番号などからは除外されることが鉄板なはずだ。そういった常識を八千代も持ち合わせていたというのに、どうして自然と受け入れていたのだろうか。
だが、とても鮮明に記憶にあるそれらが、単なる気のせいや嘘とはどうしても思えなかった。
「その、一之瀬さんは曜日ごとに病院内の決まったところに行って、昨日だって…。」
「昨日だなんてそんなはずはない。あの爺さんはずいぶん前に…、いや待て待て。篠原その時いなかったんじゃなかったか?どうして知ってるんだ?」
「えっ…。」
二丈に話を聞くと、その特徴が確かに一之瀬と一致している。ふらふらといなくなってしまうこと。うまく話せないためにコミュニケーションが取りにくいこと。親族の誰とも連絡がつかなかったため見舞いに来る人が誰もおらず、孤独のまま亡くなってしまったこと。
「そんな…。」
「悔しいけどな、そういう人もいる。俺たちにできることなんて限られてるんだよ。」
二丈もやるせない気持ちがあるのか、黄昏るように俯いてしまった。思い出すように呟くも、その記憶は曖昧なものでしかない。
「だが、本当に不思議な人だったな。どれくらい前だったか、俺もあの爺さんに振り回されたもんだ。う~ん、だが結局それぐらいしか覚えてない…な。」
「一之瀬さんは思い出していたんです。」
「思い出していた?」
「彼女のことを、いつも思いを馳せながら、色褪せることのないように、決して彼女の存在が消えることのないように…。」
「そうか。」
二丈はそれ以上、口にしなかった。八千代の眼差しが真実を訴えかけていたように見えた為、そうだったのかもしれないと、疑う心が生まれなかった。
八千代は一之瀬と七海から託された思い出を尊ぶように、目を閉じた。瞼の裏には、誰よりも日常を大切にした2人の姿が映っている。
誰かに伝えよう。彼らが生きていた日々を。日常がどれほど美しいのかを。
気さくな医者役 陸斗
誠意のあるナース役 八千代
孤独な入院患者役 樹
不思議な少女役 七海
「はいっ、通し稽古終わり!みんなお疲れ様!」
燈佳の手を叩く音を合図に、役者たちの緊張が一気にほどけた。
「ふぅ~、お疲れ様やっちゃん!」
最初から最後まで主役として動き続けていた八千代が一番疲れているだろうと思い、七海は自身の胸の高鳴りをよそに、八千代に抱き着いた。
「わっ、お疲れ様、七海ちゃん。」
先ほどまで演技とは言え哀哭していた七海がいつものように接してきたのを境に、八千代もようやく演劇を終えたのだと実感した。
「篠原さん、良かったよ!いつもの感じだと、あんまり叫ばせるのも無理させちゃうかなって思ってたけど、ちゃんと感情もこもっていて、私びっくりしちゃった!ね、ね、一之瀬くんと二丈くんもそう思うでしょ!」
皆をずっと見ていた燈佳は、やや興奮気味に樹と陸斗に話題を振る。そんな2人は思っていたよりも自身が緊張するタイプだったのを実感しており、図らずも疲れが溜まっていたが、燈佳の熱意に答えてあげた。いや正確には、2人も認めざるを得ない程、八千代の演技が凄かったのだ。
「いやぁ、ほんと凄かったって。」
「僕も驚きました。いろいろ表情が移り変わる大変な役だと思っていたのですが…。」
今回の脚本と配役、衣装や小道具などは燈佳が用意して決めていた。そして役が発表された時から、七海は是が非でも八千代のナース服姿を見たい一心で、意気揚々と応援していた。その勢いは凄まじく、きっとできると、やってみようと、写真を撮らせてほしいと、その懇願の勢いに圧倒され半ば抱き込まれるような形になっていたように見えたのを樹と陸斗も見ていた。樹の主観ではあまり押し付けるようにはしたくなかったのだが、終わってみると八千代はきちんと最後まで演じ切ることができた。とても消極的な性格からは想像できなかったことだ。
「やっちゃん、ほらポージングしてよ!こんな感じで!」
「な、七海ちゃん…、コスプレとかじゃないんだよ?」
完全に二人だけの世界になっていた。樹と陸斗の声はきっと届いていない。既に七海は自身のスマホのカメラアプリを起動させ、その被写体を捉えることに必死になっている。
「聞いちゃいねー。」
「まぁまぁ、練習前に我慢してくれてたんだし、少しくらい多めに見ようよ。」
「ははっ、そういう樹は始める前に何度も深呼吸して、どれだけ緊張してんだよって感じだったけどな!」
「しょ、しょうがないだろ?やるからにはきちんとやりたいし…。」
「甘~い言葉も言わなくちゃ、だもんな?」
「…っ!」
台本を渡されてから樹たちは全員、そのセリフに目を通していた。特に自分がどんなセリフを言うのかは気になる。その中でも樹は今までの人生で微塵も口にすることのなかったセリフを目撃し、一瞬で頬を紅潮させた。陸斗に役を代わって貰えないか、その考えは確かに脳裏を横切ったのだが、自分がこの部活に入りたいと初めに考えた思いを大切にしたかったので決意を固めていた。
そんな一大決心をしていたのに、陸斗が冷やかして来たので、つい樹はむくれてしまったのだ。
「わ、悪かったって樹!でも、思ってたよりもやりやすかっただろ?」
「どういうことでしょうか。」
「樹、敬語でキレるのは怖いからやめてくれって…。ほら、『幸せ~』とかは何回か言ってたけど、『好き』とは一言も言ってないだろ?」
陸斗に言われて初めて気づいた。確かに七海に向って好きとは一度も言わなかった。恋人という役柄なら何度言っててもおかしくはないと思われるが、これはどういうことだろうか。
「あっ、二丈くん気づいた?こっちの方がみんな演じやすいかなって。私もそんなに好き好き言うの得意じゃなくて…。演劇とは言え、表現するんだったら自分が経験してきたことじゃないと想像もつかないでしょ?」
「経験してきたこと…ですか。」
配役が決められていても、きちんと燈佳なりに配慮はあったようだ。確かに樹も、幾ら演技で私情が無いにしても、クラスメイトの女子に向って好意を伝えるなんて不誠実極まりないことはできるだけ避けたい。陸斗に言われ、燈佳に教えてもらって改めて気づいた。
「って言うことは、とうかちゃん先生は好きって言えなかったってこと?それとも言って貰えなかった方なの?」
「七海ちゃん、どういうこと?」
いつの間にか落ち着きを取り戻し、燈佳の話に聞き入っていた七海がふと質問を投げかける。瞬間、燈佳は肩をビクッと震わせた。リラックスしている空間に一人だけ、緊張が走る。
「だって経験したことなら表現しやすいってことは、一之瀬君のセリフにずっと『好き』って入ってなくて、でも幸せって言ってたのは、とうかちゃん先生もそうだったからなのかなって。それに、やっちゃんの夢の最後のセリフに『ちゃんと言ってあげてくださいね。』って…。」
「ち、ちちち違うよ三鷹さん!わ、わた、私の時は好きとか伝えたら良くなくって、会えるだけで別に幸せだったからで!あっ…。」
別にそこまで追い詰められていなかったはずなのに勝手にボロを出してしまった燈佳は七海と陸斗から眩しいほどの期待の目で見つめられてしまった。
「「とうかちゃん先生!その話、もっと詳しく!」」
「ひっ、ハモらないで!それにとうかちゃん先生って言わないで!」
演じているときにその迫力を発揮してほしかったが、そう思いつつも燈佳は2人の勢いに負けてしまい自身が学生時代に経験した初恋を渋々語りだした。
「いや~、その先生も罪な人だな~。そりゃ~とうかちゃん先生も恋に落ちちゃうわな~。」
「そっかそっか。とうかちゃん先生の初恋は実らないままで終わっちゃったんだね。今度はちゃんと声にしようね。」
「うぅ~、恥ずかしいよ~。」
陸斗と七海は燈佳のことを面白半分で慰めてあげていた。
あまりにもふざけが過ぎていたら樹が黙っていなかったかもしれないが、そういえば先ほどから大人しいままだ。
会話の中に入り込めていなかった八千代が不思議に思い、そんな樹のことを見ると真剣な顔で考え込んでいた。
「そうか…、だから玖島先生は…。」
「もう、2人ともいい加減にしないと、私怒るかr…」
「だから玖島先生はいい先生だと感じるのか。憧れた、尊敬されていた先生のようになりたいと感じ、努力したから。クラスの皆も親しみやすい印象を持って接しているのはそういうことなのか…。」
もう少しで怒りを曝け出すところだった燈佳の耳に、うれしい言葉が入ってくる。最もそれを言っていた本人は頭で考えているだけだったつもりのようで独り言になっていることに気づいていない様子だ。
「い、一之瀬くんっ!」
「えっ、どうしました?」
「あ、あの、玖島先生が…。」
「え、えへへ…。」
燈佳は教師になって初めて褒められたこともあり、にやけ顔が止まらない様子で身体をくねらせながら喜んでいた。八千代に呼びかけられても状況をいまいち掴めていない樹のもとに、難を逃れた陸斗と七海も集まってくる。
「あぶねー。ちょっとやりすぎてた。樹、サンキューな。」
「えっ?」
「い、一之瀬くんのおかげだったね。」
「ん?」
「確かに、声にするって大事なことなんだね。だって、とうかちゃん先生、すごく嬉しそうなんだもん。」
「???」
「ははっ、まぁ樹は気にすんな。さ、今日の練習は終わったんだし、片付けして帰ろうぜ。」
陸斗の掛け声で場に区切りがつく。衣装を整え、小道具も損傷が無いか確認し今日の部活は終了。病院の一室や、夢の中になっていた世界はとある高校の教室に戻った。