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最終話

 部屋に入ると、最上階の窓から外を見やる。それは、所々にポツンポツンと灯りが見えるだけで、寂しい景色だった。

 振り返って部屋を見回すと、そこには立派なクリスマスツリーが飾られていた。

 彼の友人が薫の許可を得て一足早く飾り付けてくれたものだったのだ。

 テーブルにはシャンパンやご馳走、ケーキが置かれ、ツリーの灯りに照らされている。

「君がいなければこんなもの…」

 彼はソファに座り、目を閉じた。

 目を閉じれば彼女の面影が思い出せ、そして、彼女が傍にいるように思えたから。

 忘れることなんかできない。

 もう一度逢えるなら───

 そして、彼はゆっくり目を開けた。

「!」

 彼は驚いた。

 ツリーの傍らに誰かが立っていたからだ。

「京子!」

 そう、それは確かに彼女だった。

 しかし、それは生きている人間ではない。

 そんなことはゲクトにも十分わかっていたことだった。

 だが、彼はそんなことは気にしない。

 幽霊でもいい。

 もう一度逢いたいと思っていたのだから。

「京子」

 彼はもう一度彼女の名前を呼ぶと駆け寄り、彼女を抱きしめた。

 ちゃんと実体が感じられる。

 これが幽霊だなんて信じられないほどだった。

「ゲクトさん、逢いたかった」

「僕もだよ」

 彼女の身体は温かかった。

「ずっと逢いたくて、ずっとここで貴方が来るのを待ってました」

 彼女の声は落ち着いていて、何も感情がこめられていないかのように聞こえた。

「逢いたかったよ、僕も」

 彼らはソファに仲良く座った。

 しっかりと手を握り締め、ゲクトはもう二度と放したくないと思った。それは無理だとわかっていても。

「逢いたかった、本当に」

 呟くように京子はそう言った。そして───

「頑張るって貴方に約束したのに、本当にごめんなさい」

「何を言うんだ。君は悪くないよ。僕がもっと強引に引き止めればよかったのに」

 彼女は寂しそうな笑顔で首を振った。

「貴方は悪くない。戻る決心をしたのは私。だから、運命だった。私がこんなことになってしまったのは」

「でっ、でも」

「それよりも」

 彼が何か言うのを遮る彼女。

「一つだけ心残りがあったんです。これが叶わないと、私はこのまま何処にも行けなくなる。だから、私の願いをどうか聞いてもらいたくて、それでずっと待ってました、貴方を」

「願い?」

 彼女はゆっくり頷いた。


「え、歌?」

「はい、そうです」

 去年のクリスマスイヴの夜───もっとも夜中過ぎで朝にかけてだったので、すでにイヴの夜は過ぎていたわけであるが、あの夜に彼が有名人であると知った彼女は、すやすやと寝入るゲクトの端整な顔立ちを見詰めながら思った。

 ゲクトの声は彼女の好きな低くて落ち着いた声で、こんな人が歌を歌ったのならどんなに素敵だろうと。

「僕は自分の声があまり好きじゃないんだよ」

「そんなに素敵な声なのに?」

「うん。何というか、僕の声って鼻詰まりしたような声でしょ」

「ぷ…」

「あ、笑ったな」

「ご、ごめんなさい」

 幽霊でもこんなふうに笑うんだと、変なところに感心するゲクトだった。

「でも、それでも、私にとっては貴方の声は初めて聞いたときから素敵で…こんな人に愛を囁かれるなんて、なんて自分は幸せなんだろうって思ったんです」

 彼女は恥ずかしそうにそう言った。

「馬鹿ですね。結婚してたのに。そんなことを思うなんて酷い女ですよね」

「そんなことないよ!」

 ゲクトは強く否定した。

「素敵なものを素敵と言ってどこが悪い。結婚してたって、素敵な人を素敵だと言えないなんてそんなの間違ってるよ」

「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」

 彼女はにっこりと微笑む。

 ゲクトはその笑顔に胸が締め付けられそうになる。

 そして、思わず彼は京子を抱きしめた。

「でも、こんなふうに抱きしめられるのはいけないことだってこともわかってた。本当は貴方にあの時抱かれちゃいけなかったんだって、わかっていたけれど…」

 京子はうっとりするような表情でそう呟いた。

 ゲクトはもう何も言わなかった。

 彼女が喋りたがっているのに気付いて、そのまま喋らせようと思ったのだ。

 その代わり、彼女の言葉を聞きながら、物思いにふけっていた。

「私、本当はあの時、夫よりも貴方に気持ちが傾いていたのを気付かないふりをしていたんだと思う。ただ、心が変わっていくのが許せなくて。自分の心変わりが許せなくて。たとえ、夫が暴力をふるうとしても、私はこの人を愛して結婚したわけだから、私がもっと頑張れば、この人も変わるはずなんだから、だから離れちゃダメなんだって思い込もうとしてた。もう夫に愛情を持てないとわかってても、それでも…私、どうして貴方に逢っちゃったんだろう…」

 京子は顔を巡らせて、ゲクトの顔を見つめた。

 暗くした室内で、クリスマスツリーの電飾の灯りに照らされた彼の顔を手を伸ばしてなでる。

「あの夜、誰かに呼ばれたような気がしたの。そしたら、いきなり貴方に抱きしめられた。嫌な気持ちはまったくなかった。とってもいい香りが私を包んでくれて。普通ならこのまま見知らぬ男に犯されてしまってもしかたない状況だったんだけど、でも、あの時は本当にそんなことどうでもいいと思ってた。けれど、出逢ったのは貴方だった」

 涙が一粒、彼女の右目から滴る。彼女は言葉を続けた。

「私は本当に幸せだったわ。こんな素敵な人に巡り合えて。でも、あの朝、夫にまた殴られ蹴られているとき、もしかしたら私は今このまま死んでしまうのではないかと思ったの。けれど、それでもいいと思った。何もいいことなかったけれど、それでも私はひとときでも貴方と素敵で幸せな時を最期にもらうことができたから。けれど、この人は? これが元で私が死んでしまったら夫は殺人犯になってしまう。酔いが覚めたらひどく後悔するかもしれない。これからずっと苦しんで生きていくかもしれない。もしかしたらもっと酷い状態になってしまうかもしれない。それに、私を好きだと言ってくれた貴方は? 貴方も私が死んでしまったと知ったら、とても苦しむだろう。そう思ったら、死ねないと思った。それに、私は貴方の歌をどうしても聴きたいと思ったから。だから、だから、逃げようとして身体をひねったの。けれど、それが結果的に私を死に追いやってしまった」

「京子」

 ゲクトは泣き崩れる京子を強く抱きしめた。

 彼女はそんなふうにずっと他人のことを考えて生きてきたんだ。

 なんと優しい人だろう。

 人のために強く生きようとする。そんな人もいるんだ。

 彼はどうしようもなく彼女が愛しくて、このまま時が止まって欲しいとまで思ってしまった。無理だとわかっていても。

「京子、わかったよ。君に歌を、君だけに歌を聴かせてあげよう」

 彼女は顔を上げた。

 涙で濡れた顔は、彼と同じくイルミネーションの瞬きに照らされている。

 なんてキレイなんだろうとゲクトは思う。まるで、天使のようだと。

「君に歌を歌ってあげる。たった今君のために作った歌だよ。誰にも聴かせない歌だよ」

「嬉しい」



君の温かな身体を思い出してる

僕の大切な天使

いつのまにか僕の心に住んでいた君


いつも呼んでいるよ

いつも手を伸ばしているよ

いつも君のために歌っているよ


ずっとずっと傍にいて

ずっとずっと囁いていて

ずっとずっと抱きしめていて


ツリーが七色に輝いている

粉雪が二人に降りかかる

優しい微笑みが君と僕を包み込む


君に逢いたくて

君を愛したくて

君と歩きたくて


もう一度僕と一緒に

あの夜空を見上げよう

星が雪に変わるまで

二人で眺めていよう


君を愛しているよ

君を忘れないよ

君が見えなくても

僕は君をずっと見詰めている


心は繋がっているから

この手のように

しっかりと繋がっているから


愛してるから・・・


 歌っている途中から、だんだんと彼女の身体が透けていくのに気付いていた。

 だが、ゲクトは心をしっかりと保ちつつ歌い続けた。

 もう少し、もう少しだけいてほしいと願いながら。

 

 そして───


 歌い終わったとき、完全に彼女の身体は消えてしまった。

 微かに彼の身体に彼女の身体の温かさを残して。


『貴方の歌はやっぱり素敵だった。私も貴方を愛してます、ありがとう』


 その言葉だけを残して、彼女は旅立っていった。

 ゲクトはしばらくソファに座ったまま、ぼんやりとしていた。

 泣いてはいなかった。

 何故か泣けなかった。

 そして、ぽつりとこう呟いた。


「僕の方こそありがとう。来年のイヴもこの歌を君のためだけに歌ってあげるよ」


 彼の目に映る窓の外は、いつしか雪が降り出していた。

 静かに優しく、雪は振り続ける。

 まるで京子の置き土産のように、何時までも静かに降り続けていた。

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