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第3話

「すまなかった、いきなりこんなことをして」

「………」

 ゲクトはベッドに横たわる京子に声をかけた。

 彼は上半身を起こし、まだ上気している彼女の顔を目を細めて見つめる。

 彼女の裸はとてもキレイだった。

 ルームライトの仄かで優しい光に照らされて、光っていた。

 先ほどまでの情事の跡として、彼女の身体は汗でまだ濡れていた。

「いいんです。これくらいのことしか私にはできませんから。話を聞いてくれたお礼ですから」

「…………」

 彼女のその言葉に、ゲクトは何故か怒りを感じた。いや、怒りよりも虚しさか───所詮自分だけの気持ちなのか。自分はこんなに短い時間でも彼女に恋したというのに、彼女はそうではないのか、と。

 彼を愛するファンは何万人といる。

 中には、彼に抱かれたくてしかたない女もいるのだ。

 それなのに、彼女はまったくそういう態度が見られない。

 そう思ったら、ふっと訝しい思いが浮かんできた。

「君、僕が誰だか知ってる?」

「え?」

「…………」

 じっと自分を見つめる彼女の目は、まったく知らない人間を見つめる目だった。

 もしかして、彼女は自分が誰であるかを知らないのか?

「僕の職業はね、いわゆるアーティストというものなんだけど。ゲクトって芸能人を知ってる?」

「ゲクト…貴方はテレビとかに出てる人なんですか?」

 彼女はゆっくりと起き上がると、裸の胸をゲクトに向けたまま、じっと彼の端整な顔立ちを見つめる。

「ごめんなさい。私、知らなかったです。私、ほとんどテレビを見ないので、今テレビで誰が活躍しているのか知らないんです」

(こんな人がいるんだ)

 彼はさらに切ない気持ちになり、知らず彼女の裸の身体を再び抱きしめた。

 こんな女が好きな彼であった。

 世間に疎く、自分の好みに変えていくことのできる女。

 存在自体が不完全で、これからもっといい女に変わっていく可能性のある女。

 

 僕が変えてあげるよ。

 僕が守ってあげる。

 僕が愛してあげるよ。

 僕がずっと傍にいてあげる。

 僕がいつまでも抱きしめてあげる。

 僕が抱いてあげる。

 僕が君をいい気持ちにしてあげるよ。

 

 だから、僕の傍にいて。

 僕に微笑みかけて。

 いつも手を繋いで眠りたい。

 君を感じて眠りたいんだ。

 一緒に眠ろう。


 君が好きだ。

 君を愛してる。

 

 だから───


 ゲクトは彼女を強く抱きしめた。

 冷えかけた彼女の身体が再び熱を帯びてきだす。

 彼の身体の熱に呼応するかのように。

 ゲクトは囁いていた。

「ねえ、僕のことは嫌い? 僕は君が好きだよ」

「で、でも、逢ってまだ間もないのに。それに、私は貴方のような素敵な人に愛される女じゃ…」

「そんなことないよ。君は素敵だよ。とてもかわいいよ。そうじゃなきゃ抱きたいなんて思わないよ。嘘じゃないよ。僕は好きな人しか抱きたいとは思わない。どんなにいい女が目の前にいたとしても、そんな気分になれないんだ。でも、君は違った。抱きたいと思ったよ。好きだと思ったからだよ」

「ホント、に?」

「ほんとだよ。信じて。君が好きだ。愛してる。嘘じゃないよ。その証拠に、今すぐにだって君と結婚してもいい」

「え、そんな…」

「それくらい好きだってことだよ」

 ゲクトはクスクスと笑った。

 彼女の困った顔もかわいいと思った。不埒な男である。

「ねえ、考えてみておくれよ。僕は絶対に君を幸せにするよ。だから、旦那とは別れて。僕と一緒にこの土地を出よう。ね?」

「わからない。私にはそんな重大なことすぐには決められない」

「だったら、すぐじゃなくてもいい。考える時間をあげるから、しばらくここにいてよ。そして、僕とここを出て行くか、決めて。僕は待つから」

 彼女は抱かれたままで少し考え、そして答えた。

「考えて、みるわ」


 次の日、眠りから覚めたゲクトは一人だった。

 まるで昨日のことは全て夢だったかのようなそんな気持ちになるほどに、彼女の痕跡が感じられなかった。

 だが、それは違っていた。

 テーブルの上に書置きがしてあったから。

 それにはこう書かれてあった。


『ゲクトさん、昨夜は夢のような素敵な夜をありがとうございました。一晩寝ないでずっと貴方のお顔を見ながら、貴方の仰ったことを考えていました。私はやっぱり夫の元に帰ります。あんな人でも愛して結婚した人ですから。だから、夫の理想とする人間になろうと思いました。と同時に、ゲクトさんが私に与えてくれた勇気や自信も信じようと思いました。これからは少しづつでも変わっていけると思います。これも全て貴方のおかげです。正直な気持ち、貴方と一緒に行けたらどんなに素晴らしいことかなあと思いました。けれど、貴方のお顔を見ていましたら、貴方と私の住む世界は違うのだと何となく思い知ったような気がします。でも、こんな私でも貴方のような人が好きになってくれるんだという事実は、きっと私を貴方の住む世界に近づけてくれると思います。今度、もし逢えることがあれば、きっと貴方に相応しい、そんな人間になっていると、そう信じてください。私も頑張りますから。京子より』


「何だよ、こんな紙切れ一枚で帰ってしまうなんて」

 ゲクトはぐしゃっと書置きを潰した。

 惨めだった。

 自分の気持ちは彼女に届かなかったのか?

「俺のほーこそ自信喪失だよ。好きな女一人救うことができないのかってね」

 だが、彼は考える。

 追いかけて行って無理やりにでも連れ去りたい気持ちはある。

 しかし、彼女の決めたことは誰も止めることはできない。

 去る者は追わずの精神でいけば、そういうことだ。

 彼女の意思は尊重しなければならない。

 それに彼女は自分で何とか変わろうとすると宣言している。

「俺の手助けはいらないってことだよな」

 自分の存在で、そして、自分の放った言葉で、誰かが動いて変わってくれれば、それはそれでいいことだと彼も思った。

 それは自分の存在も無駄なことではなかったのだとわかるから。

 そのことでさらに自分も頑張って立ち続けられるから。

 だから、彼女がそうやって変わろうと行動を起こすことは願ったり叶ったりなのだが───

「でも、俺の気持ちは…」

 ちゅうぶらりんのままだった。

 やっと失った人の痛手から抜け出たと思ったのに、また愛する人を失ってしまうのか、と。

 だが───

「彼女は、京子は死んだわけじゃない。いつかまた逢えるかもしれないんだ」

 彼はそう思うことで、自分を慰めようとした。

 そう、きっといつか逢えると。

 きっと───

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