海辺のこと
このままではいずれ死ぬと思ったので会社を辞めた。
俺がどこでのたれ死のうが人生に一片の影響も受けない奴らばかりが、こぞって嘲りながら「辞めてどうすんの」と何回もしつこく聞いてきた。
今の俺のことを本気で心配しているわけじゃない人間に「俺のこれからのプラン」を正直に、精確に教えたところで嘲笑される以外のリアクションはないことが明白なので「まぁ、ちょっと休んでからぼちぼち仕事探しますかね」と答え、入力作業に戻ると「なんかやりたいことでもあんの?」、「仕事ってなんの?」、「帰ったってお前の地元に仕事なんかあるわけねえだろ」となぜか生まれ故郷まで馬鹿にされた。
すまんな、我がふるさと。俺が不甲斐ないばかりに。
生まれ故郷を特別愛しているわけではないけれども、特別憎んでいるわけでもない俺としては故郷になんと謝意を表せばいいのやら、と辞める旨を伝えてから俺に対する態度だけが別人格よろしく悪くなった上司に罵倒されながら、ぼんやり考えこむくらいには仕事に対する熱意もやりがいも持てなくなっていた。
なんとなく入った普通科高校を卒業してから、なんとなく世間にそれなりのネームバリューを持った大学を選び卒業した後、なんとなく受かった会社に入って五年が経った。
金もない。まともな休息もない。恋人もいなければ、仕事帰りに連れ立って飲みに行きお互いを励まし合えるような友達もいない。残業続きの毎日で溜まっていくのは心身の疲労と同僚への愚痴だけ。
水に一滴落とされた墨が同心円状にじわじわと広がるように俺の心もじわじわと黒く滲んで荒んでいった。
いつからだろう。緊張した面持ちで気合充分な挨拶をかます新入社員を横目で見て鼻で笑うようになったのは。
いつからだろう。学生時代はあんなに好きだった酒が喉を通らなくなったのは。
いつからだろう。頭の上がらない相手の金で食べる高い料理をあんなに不味いと感じるようになったのは。
三年で辞めようと思っていた。
一年目、誰の目にも明らかに同期の中で一番頑張っていた女の子がいた。彼女は部署内外の評価も上々だった。けれど、五月まではいなかった休職明けの先輩にいびり散らされて精神を壊し、それから二ヶ月も経たないうちに会社を辞めた。
彼女が退職代行を使って突然辞めたという話はその日のうちにすぐ社内中に広まり、勝手な憶測と心にもない心配の声があちこちで飛び交った。
「大変だったのは分かるけど」、「まさかそれほど追い詰められていたとは」、「彼女のことは気にかけていたんですけどね」、そんなような彼女を心配するフリをした偽物の言葉の後に、彼らは口をそろえて本音を続けた。
「でも、突然辞めるなんて……」――非常識だ。
そう口には出していなくても、聞こえてくるようだった。
俺の直属の上司も例に漏れず、新入社員が辞めたようだと耳にした時、「転職するにしたって三年は続けなきゃ」と腕を組んで嗤っていた。
あんなに真面目にやっていた人があっけなく壊れて嗤われて、自分の怒りをコントロールすることも出来ないヤツらばかりが踏ん反り返って「何もしていないのに壊れた」と柔らかい椅子に座っている。
どうして世間はこんなにも腐っているのだろう、と思った。それと同時に、どうしてあの人はもう少しだけでもうまくやれなかったのだろう、とも思った。
非常識なのは誰だ?
俺はうまくやれる。そう信じて毎日毎日、同じことの繰り返し。
五分おきに設定した爆音のアラーム。好きな曲で一日が始まる方が良いと考え、その時にハマっていたバンドの中でもお気に入りの曲をセットした。
いつからかその曲を耳にすると吐き気を催すようになり、彼らの曲を聞くことが出来なくなった。
毎日スーツを着るのだから、と学生時代のバイト代で買った少しだけお高めの衣類スチーマー。
そのうち本体を掃除するのが面倒になり滅多に使わなくなった。
社会人は靴が大切だと意気込んで揃えた革靴専用のお手入れセット。はじめこそ説明書通りに丁寧に手入れをしていたが、同じ部署の人間以外に会うこともほとんどないからと誰かに指摘されるか、さすがにやらないと、と自分で思うかしない限りは使うことがなくなった。
新生活で張り切って買った大きな冷蔵庫には、期限の切れた調味料と二リットルのお茶のペットボトル、数本のエナジードリンク、仕事帰りに買うコンビニ弁当以外はあまり入れることがなくなった。食材を買っても使い切れずに腐らせてしまうことが何度もあったからだ。
風呂とトイレを最後に掃除したのはいつだっけ? 通帳の記入は何月分までした? 布団はどれくらい干していない? 水道代払ったっけ? あぁ、あのアニメは最後どうなったんだろう。公開日に見に行こうと楽しみにしていた映画は結局行けなかったな。あの漫画は今何巻まで出ているんだろう。
そんなようなことを考え、満員電車で揺られる日々が続いた。
意地でもつり革を掴まないおじさんは電車が揺れるたびに俺の体に頭突きをしてくる。ハイヒールのお姉さんのむせかえるような香水の匂いに気分が悪くなる。大勢の人が乗車して自分のスペースがなくなるからと後ろに立っている人を素知らぬ顔をして肘で押すお兄さん。運よく座席に座れた俺を挟んでぺちゃくちゃと会話を続けるおばさんたち。疲れたとしゃがみこむ子供。
どうして仕事以外でこんなに疲れなければならないんだろう。
就職して三年経っても全く代わり映えのない毎日が続き、俺は辞めるタイミングを完全に逃して、その後の二年もずるずると死んだように働いた。
今年の五月、今からおよそ四ケ月前、遂に俺は出勤途中に倒れ、誰かが呼んでくれた救急車で運ばれてそのまま一週間も入院することになった。
久しぶりのまともな食事を咀嚼している時も、点滴をしながら天井の染みを数えている時も、消灯時間過ぎにスマホを眺めている時も、仕事以外のことを考えている時間の方がずっと少なかった。
様子を見に来た看護師に「今はしっかりと心と体を休めましょう」なんて言われても、俺の頭の中は「早く仕事に戻らなければ」そればかりだった。
週明け、何とか医者を説得して出勤し自分のデスクの前に立つと、俺が受け持っていた仕事はほとんど全て同僚に回されていて、俺に確認や相談をしてくる人間は一人もいなかった。
なんだよ。俺がいなくてもこんなに簡単に回るのか。俺ひとりいなくてもここは何の心配もなかったのか。
「俺がいなくなれば誰かの負担が増える」
そう思って今まで何とかやってきた。だけど、そう思いたかっただけかも知れない。妙に小綺麗になった自分のデスクをぼんやりと見下ろして、「あ、辞めよう」とその時ハッキリと決めた。
かくして「体を壊した」というもっともらしい理由を手に入れた俺は、踏ん切りがつかず辞めたくても辞められずにいた会社から去る決意をいともあっけなく固めることが出来た。五年もずるずると働き続けたのに、たった七日入院した直後のたった一日で。
言っては呑まれてしまうと、それをしたら取り返しのつかないことになると、心の奥にしまい込んでいた考えが自然に再浮上してきて、それは再び沈殿することはなかった。
そうしてその日の帰り際、「お疲れ様です」の挨拶に続いて「辞めようと思います」と上司へ伝えた。
そして出勤最終日、次々と帰っていく同僚たちに形式上の適当な挨拶をすると、彼らからは同じような形式上の適当な挨拶の他にもご丁寧に綺麗に添えられた余計な一言まで頂くことができた。
俺は五年間ずっと自分の上司をしていた男の一人に挨拶をした後、五年前のあの日、聞いてみたかったことを聞いてみた。
「そういえば、ここで働く前ってどこにいらっしゃったんですか」
俺の最後の質問を受けて彼は、「不躾な奴だ」とでも言うように目を見開いて鼻で笑った。
「何言ってんだ、お前。まさか俺が転職組だとでも思ってたのかよ」
***
会社を辞めて諸々の解約を済ませ、実家に戻ってから一か月が経った。その間の記憶はほとんどない。
昼近くにベッドから這い出し、母が数時間前に用意してくれた料理を食べる。本を読み、夕方までまた眠り、風呂に入り、晩御飯を少しだけつまみ、アラームをかけずに泥のように眠る。
そうやって家族とすらろくに顔も合わせず一か月過ごして、俺は唐突に海が見たくなった。
「おじさん、お仕事は?」
突然、横から少し高めの声が聞こえた。
おじさん、と言っていたのでまさか満二七歳の自分が話しかけられているとは思わなかったが、反射的に声のした方を向く。
小学校低学年くらいの、浅黒く日に焼けた少年と目が合った。彼はまっすぐに俺の目を見据えていた。ということは、直前の「おじさん」とは俺のことだろう。
彼の問いかけが自分に向けられたものだと認識すると、ドキリと胸が痛んで体が強張った。
「……君こそ、学校はどうしたの」
何もない九月の平日の昼間に、Tシャツにハーフパンツ姿で何も持たず、浜辺で体育座りをして海を眺めている大人がいたら「何の仕事をしているのだろう」、と思う人はそれなりにいると思う。「変」か「変じゃない」か、で言えば「変」なことだと思う。少なくとも俺の地元では。
だけどそれよりも、何もない九月の平日の昼間に、未開封のアイスを片手に浜辺を歩く小学生の方がずっと「変」だと思う。「普通」なら小学生は今頃冷房の効いた涼しい室内でお勉強中のはずだ。
少年は自分のした質問の返しを待つ前に、俺の質問に答えてくれた。
「今日は休んだ」
俺から海へと向き直り、ぶっきらぼうにそう答えた彼は心なしか不貞腐れているように見え、少し伏せた目は寂しそうに思えた。
「……何かあったの?」
子供にはなるべく笑っていて欲しい。年齢を重ねるうち、嫌でも笑えなくなる日は誰にだって当たり前にやってくる。なにもこんなに小さいうちからそんな顔をすることはないんだ。そんな風に暗い顔をされると胸がざわついて落ち着かない。
俺は少しでも彼の気がラクになればと思い、そう聞いた。誰かに話せばラクになることもある。知らない人にこそ話せることだってあるはずだ。
彼は伏せた目でパチパチと何度か瞬きをしたあと、閉じた口をもごもごと左右に動かして、言い淀んでいるようにちらりと俺を見た。
目が合い、俺が意識的に微笑むと彼は観念したように口をへの字に曲げ、俺に倣って同じように砂浜の上に直に座った。
「……昨日、クラスのみんなとケンカした」
泣いているのかと思うほど弱々しい声だった。それでも俺は、少年が発した「喧嘩」というワードに羨ましさを覚えた。目の前の彼のことも、彼が喧嘩したという「みんな」のことも俺は何一つ知らないが、正面切って喧嘩ができるのは子供のうちだけだと思う。
彼の言う「みんな」が一体どれだけの人数を指しているのかは分からない。だけど、年齢を重ねるにつれて自分と相手との立場の違いや周りとの関係までもを嫌でも考えてしまい、喧嘩なんてとてもじゃないけど出来ない。そもそも喧嘩にすらならないんだ。
自分で行動を選択することが格段に増えていった高校時代、嫌だと思った人間に限らず縁なんてものは割とあっけなく切ることが出来てしまうということに気付いて驚いた。
そして俺は会社を辞めたあの日以降、会社関係者の誰とも連絡を取っていない。その事実に対して驚きは全くと言っていいほどなかった。
「言いたくないなら言わないでいいんだけどさ」
そう前置きして、俺はうっすらと群青色に光る水平線を眺めながらゆっくりと尋ねる。
「どうして、喧嘩になっちゃったの?」
視界の端に映る浅黒い顔が一度、俺に向いて、再び正面を見据える。彼の黒い髪が潮風にふわりとなびく。膝の上で組まれていた腕にグッと力が入るのが分かった。半そでのTシャツからのぞく彼の頼りない二の腕に、細い指が食い込む。
「オレはやってないのに、『あやまれ』って言われたんだ。みんなに。オレは何回も『やってない』って言ったのに。『やってない』って言ったら『あやまれ』って言われて、『本当にオレじゃない』って言っても『あやまれ』って言われた。だれもオレのはなしをきこうともしてくれなかった。……先生も助けてくれなくて」
「そっか……。それは辛かったね」
俺の言葉を受けて彼は「うん」と波の音に溶けて消えそうなほど小さい声で頷いた。
同じような空気に包まれた覚えが自分にもあった。「聞いてくれ」と叫んでも誰も聞いちゃいない。一人残らず俺を見下ろしているのに、誰一人として目が合う人間はいない。いくら声を張り上げても、まるで水の中にいるみたいに声は自分の鼓膜を微かに揺らすだけで、精一杯に口から出したその言葉たちは発信源である自分自身にさえ途切れ途切れにしか聞こえない。誰の耳にも届いちゃいないんだ。
そんな恐ろしい空気を思い出して少しだけ背筋に寒気が走った。
会社を辞めてからしばらくは誰とも話なんかしたくないと思っていたし、出来ないと思っていた。なるべく他人と同じ空間に居たくない、とも。けれど、今はこの少年にほんの少しでもラクになってもらいたいと考えてしまっている。どうにか彼を元気付けることが出来る言葉はないかと必死に探す自分がいた。
右目の端で、彼が小さな口を少しだけ開けているのが見えた。続ける言葉を選んでいるのかも知れない。俺は彼が発する次の言葉を黙って待った。すると、案外早く彼は言葉を繋いだ。
「それで、今日行ったってぜったい『あやまれ』って言われるとおもって。でも、すなおに『休みたい』って言っても休ませてもらえないとおもって……」
「うん……」
そりゃそうだろう。むしろ昨日のことがあったから、と警戒して行ったら「みんな」は何事もなかったかのようにいつも通りに話しかけてきた、という展開の方が気持ち悪い。当人のいないところで「やっぱり許してあげようよ。明日はいつも通りに話しかけてあげよう」と上から目線で話し合いが行われていたのかと思うと吐き気がする。ソイツ自身が何も悪いことをしていないのなら尚更だ。
そして、口ぶりからして彼は保護者に「休みたい」と言わずに海へやってきたようだ。彼はきっと自分の保護者は彼が学校を休むことで生まれる、周りの人間との学生としての経験値の差を心配するだろうと思っているのだ。
俺の母親も基本的には何があっても「みんなから遅れる方が嫌でしょう」だったので、たった一回の喧嘩から一旦距離を置くよりも、学生としてのたった一日分の経験値のほうが重要だと自分の保護者は思うだろうな、という少年の考えは容易に想像できた。
例えただの通りすがりでも、一度関わってほんの少しでも情が湧いてしまえば出会ったことのない人間の幸せよりかは、情が湧いた人間の幸せを願うだろう。大抵の人は。
実際、もう既に俺は右隣に座る少年に「なるべく暗い顔をせずにうまく生きて欲しい」と願い始めている。それと同時に、「どうして彼のクラスメイトは彼の話をほんの少しでも聞こうとしないのだろう」と少しばかりの憤りを覚えてしまっている。事のいきさつさえよく知らないクセに。
始まったばかりの彼の人生にとって、所詮、俺などNPCだ。最初の村の海辺にただ座り込んでいるだけの。近づいてAボタンを押すと同じセリフしか吐かないような。決められたセリフはきっと、そうだな「俺はおじさんじゃない。お兄さんだ」、あたりかな。
太陽の光が反射してキラキラと輝く海を並んで見つめる。彼は言いたいものは出し尽くしたからもう言うことはない、といった感じで口を一文字に結び、組んだ腕の中に顔の下半分をうずめた。
「別にいいんじゃない。仲直りなんか出来なくても」
そう俺が言葉を発すると、少年は驚いた顔でこちらを向いた。俺の横顔を見ながら「え?」と首を傾げる。
「なんで? 大人はみんな、ケンカしたらなかなおりしなさいって言うよ」
俺は顔を動かさずに目だけで彼の表情を見る。先ほどまでの寂しそうな表情は消え、目と口を大きく開けていた。
俺が海に目線を戻すと、突然、俺の右肩が下がり「うわっ」とバランスを崩した。かと思ったら、今度は左肩が下がる。右に顔を向けると少年が俺の右肩をゆさゆさと揺さぶっていた。「なんでなんで」と繰り返し、俺に解説を求めてくる。ううん、どうしよう。
「君はさ、何のために子供は学校に通うんだと思う?」
「べんきょうするためでしょ」
揺さぶられながら質問をすると、間髪入れずに返ってきた。俺も彼のその答えに間髪入れずに返す。
「いいや、学習するためだ」
「なにがちがうの? おんなじでしょ?」
少年は俺の肩を掴んだまま上目遣いで俺の目をまっすぐに見つめてくる。肩は掴まれたままだが、揺さぶるのはやめてくれた。俺はそんな少年の手を掴み、肩から剝がして両手で彼の右手を包むように握った。
「俺は、違うと思ってる。ただ勉強が出来る人間を育てたいなら、それぞれに相性のいい人間でもつけて一人一人に合った勉強法をした方が多分うまくいく。高校なんて全ての授業を真面目に聞いているヤツの方がずっと少ないんだ。大学ならなおさら。だけど、全員が全員、授業態度と成績が比例しているかと言うと、それはない。絶対にない」
一度、言葉を区切る。きっとまだ自分の三分の一も生きていないだろう人間にこんな暗い話をしてもいいのだろうか。そのうちどうせ、彼も知ることになる。だけどそれまでは笑っていて欲しい、なんてついさっき思ったばかりのくせに。だけど今更になって強制的に会話を終わらせることも憚られ、居た堪れなさから視線を海に戻す。同時に彼の手も解放する。
説教臭くなってはいないだろうか、と脳の片隅で多少不安になりながらも、口は錆び付いていた滑車に油がさされたようにカラカラと回って止まらない。この尋常じゃない汗の量は暑さのせいだけではないだろう。
乾いた口内で舌を動かし、染み出た唾液をゴクンと飲み込む。
変に間が開いたことで、少年に「どうして?」と先を急かされた。俺は口内に空気を含んだ状態で三秒間目をつぶり、それを吐き出してから続けた。
「何回も同じことを繰り返してもうまくいかないヤツもいれば、なんでも初めてでほとんど完璧に出来るヤツもいる。自分でどうにかしようとして誰にも頼れず悪い点ばかり取るヤツもいれば、他人をうまく使って良い点ばかり取るヤツもいる。そんなもんだ。だけどそれを憎んでしまったら誰と関わるのもしんどくなるだけなんだ」
「ほぁ……」と、間抜けな声が返ってきた。
「俺はね、小中高大と一六年間学生をやって来たけど、いつだって羨ましいなと思うのは好きでもないくせに勉強ばっかりして、テストの点こそ全てだとしかめ面で息巻いているようなヤツらじゃなくて、人を頼るのがうまくて、結果がついてこなかったとしても、目の前のことに口角上げて一生懸命取り組んでいるヤツらだった。それが好きでも嫌いでも、どっちでも」
「……あたまはいい方がいいんじゃないの?」
「んー、そうなんだけどね。俺は頭がいい人じゃなくて、賢い人になりたかったんだよ」
俺がそう言うと、少年はフッと微笑んでゆっくりまばたきをした。
「それも、おんなじじゃなくてちがうの?」
彼のその問いに俺もフッと笑って答える。
「うん。これもやっぱり違うと思う。君はさ、誰かに対して『もっとうまくやればいいのに』って思ったことない? あるいは自分に対して『なんでもっとうまくやれないんだろう』って」
「んー。よくわかんないよ。むずかしい」
「……そっか」
今は分からなくてもいいと思う。いつか思い出してくれたらいいと思う。
相槌を打つように波の音が聞こえる。
口を尖らせて眉を寄せる彼のあどけなさが少し微笑ましかった。
「人間って不思議でさ。綺麗であろうとすればするほど、嫌われる」
俺がその人の顔を思い出して右側の奥歯を強く噛み合わせると、少年は首を傾げて脚を畳んだまま体を前後に揺らした。
「……そういうもんなの?」
俺は、彼のその不安や寂しさや落胆がほんの少しずつ混じり合った問いとも言えない問いに、なるべく柔らかく返す。
「そういうもんだよ」
パッとつま先に目線を下げると、欠けた貝殻が乾いた砂に半分ほど埋まっていた。この貝の最期はどんなものだったのだろうか。俺の最期はどんなものになるのだろうか。あの人は今、どこかで息をしているだろうか。
「だけど俺は、それでも綺麗であろうとする人が好きだよ」
四ヵ月前のあの朝、やけに小綺麗になった自分のデスクを見下ろしたとき、このまま死ぬのは嫌だと思ったんだ。自分の力で何かを手に入れたという実感もないまま死ぬのは、なんとなく、嫌だと思ったんだ。
「あんな狭い教室の中で一生付き合っていく人間を見つけろっていう方が不可能に近いと思うよ。あんなちっぽけな、たかだか四〇人の教室で、そんなの出来たら奇跡だよ。出来る人がすごいんだよ。出来なくたって別に、何もおかしくない」
「……オレのクラスは二八人だよ」
少年は膝の上で組んだ腕にあごを乗せて言う。どうやら軽口を叩けるくらいには元気が戻ってきたようだ。よかった。安堵からか、無性に少年の頭を撫でたくなって一思いにグシャッと撫でてみた。
「なに」と一瞬だけ驚いた顔をしたが、彼は忠犬のように静かに、俺の気が済むのを待ってくれた。
「まあ、だからさ、別に仲直りなんてしなくたっていいとは思うよ。ただ学校って厄介だからさ、それなりにうまくやっているように見せかける努力はしているつもりです、って顔をしていないと居づらくなる。『気にすんな』がアドバイスになる人間以外にとってはね」
周りが「気付かなかった」と嘯けるくらいの素人芝居でいい。他人が隠しているものをわざわざ詰め寄ってまで暴こうとするやつは実はそういない。面倒だからだ。口で言うほど他人の人生なんかに興味がないからだ。
それでも隠しているものを無理に吐かせるヤツがいたとしたら、きっとそれは、利己的な正義を振りかざして誰かを救う自分に酔っていることに気付いていない場合か、自分より不出来な人間を見つけて安心したいという邪な気持ちを抱いている場合か、はたまた純粋にそいつにとってその人がよほど「大切な存在だから知りたい」場合か。それのみだと思う。
「だから子供が学校に通うのは、いかに人生をうまく生きるか、それを何度も何度も繰り返して脳と体に学習させるためだと俺は思うよ。自分の得意な武器を探して、磨いて。苦手なものは苦手じゃなくなるまでひたすら練習するか、うまくカバー出来るように工夫する。どうしても受け入れられないものは『そういうもんだ』とだけ認識してできるだけ関わらないようにすればいい。そういう技術を身に着ける」
「うけいれられないって、なに?」
「えっと……。認められないってこと、かな。いくら説明されても、どうしてそうなるのか『分からない』って」
「分からないことからにげちゃダメなんじゃないの?」
「分かろうとしたうえで、それでも、どうしても分からないのなら、しょうがないんじゃないかなぁ。自分のために、相手のために、お互いのために、逃げた方がいいこともあるよ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんだよ」
それにしても、どこかで見た顔のような気がする。俺が地元に帰ってくるのは三年振りだけど、その時に会ったのだろうか? でも、その時はほとんど家から出なかったから顔見知りの大人はもちろん、子供になんてなおのこと会っていないはずだ。
となると、誰かの子供か? かつての同級生の子供ならば多少なりとも面影があるだろうからな。うん、きっとそうだろう。
そう考え、名字を聞こうと口を開く。
「ねぇ。君さ……」
そこまで喋ってから、やめた。いやいやいや、知らないおっさんに名前聞かれるとか怖くない? 警察案件になっちゃわない?
もだもだと考えこんでいると、横から声が飛んできた。
「おじさんもだれかとケンカしたの?」
「え?」
唐突な少年の問いかけに体が固まる。
一瞬、自分の話が掘り下げられようとしていることが分からなかった。そのうろたえを肯定に捉えられてしまったらしい。彼は頬をほんの少し紅潮させて立ち上がった。
左手に下げた透明なビニール袋から透けていたアイスの袋を取り出し、両手の親指と人差し指の四本を使っておもむろに開けた。チューブ型の容器が二つくっついているアイスだ。
彼は二つがくっついて一つになっているそれを引きはがし、片方を俺の胸に押し付けてきた。
意図が分からず「降参」のように両腕を宙に浮かせていると、彼はすうっと鼻から空気をめいっぱい吸い込んで「あげる!」と俺に向かって大声で言った。
「だってさぁ、おじさんものすごくつかれた顔してるよ。クマもねぐせもすごいし。オレさ、ずっと向こうから歩いてきたのに、ぜんぜん気づかなかったでしょ。かなーり、つかれてるんじゃないの?」
先ほどまで自分が心配していた小学生に心配されてしまった。しかも彼は見ず知らずの大人の男にアイスまで恵んでくれようとしている。眉根を寄せて俺の顔を覗き込んでくるその顔は、どうやら本気で俺のことを心配しているらしかった。
少しは警戒するべきだ、と言ってやりたいが、既に会話の主導権は彼の方に渡ってしまっていた。俺は口角を上げる。
「大丈夫だよ」
確かにそう言ったはずなのに、彼は眉一つ動かさずしかめ面のままだった。
アイスを押し付けられ、着ているシャツの胸のあたりがじんわりと濡れていって染みをつくる。同時に、ただでさえ高い気温にさらされていたのに、俺の体の熱と少年の右の手のひらの熱までもを吸収させられたことによって、押し付けられたアイスがじわじわと溶けていくのも分かった。
「ぜんぜん、大丈夫じゃない。大丈夫の顔してないよ」
ヒュッと喉が痙攣したような気がする。彼のその言葉を否定しようとしたのに、声が全く出てくれなかった。金魚みたいに口を開けたり、閉じたり。パクパク、パクパク。
深く息を吸い込み、倍の時間をかけて、肺に溜まったものを出来るだけすべて吐き出す。
彼のまっすぐな瞳には、「どうしてウソをつくんだ」以外に隠された思いは感じられなかった。
俺は自分の心の内側に巣食い、毛を逆立てて暴れまわっている黒い気持ちを誤魔化すように、外に出さないように、と務めて平静を保った声で「ありがとう」と言う。再び意識して口角を上げる。続けて「溶けたらもったいないよな」と、とりあえずアイスを受け取ることにした。
チューブ容器の蓋に見立てた部分を捻じって取り、口当たりの良い柔らかいシャーベットを口に流し込む。
残暑厳しい九月の真っ昼間に少年に連れまわされ、およそ三六度の熱を容器の外から少しの間とはいえ与えられた氷菓は、既に溶け始めていた。それでも、ひんやりとした爽やかな人口の甘さが口内を一気に冷やしてくれて気持ちいい。
久しぶりに食べたからか、記憶の中の味よりもずいぶん甘ったるく感じた。
右を見ると、少年は既に半分近くも食べ終わっていた。彼は何も聞いてこない。たまに容器に口をつけて口内を冷やしては、押したり引いたりする波を俺と一緒に見ている。
出来ていると思っていたものを出来ていないと言われるのは、それなりにショックだ。作り笑いは人生における必修科目のひとつなのになぁ。
「友達と喧嘩したわけじゃないんだ。ものすごく居心地の悪い場所だったけど、そこに居なくちゃならなくて、それを我慢して何年もずるずると居続けてきたんだ。でもちょっと前に体を壊してさ、ちょうどいい機会だからってやっとそこから離れることが出来た」
アイスの容器を片手で押し、中身を口に含む。それはあっという間に溶けて口内は空っぽになる。
「……出来たんだけど、辞めて一か月も経つのに、俺は毎日毎日あの息が詰まる地獄のような日々を思い出すんだ。顔を洗ったあと、歯を磨いている途中、テレビを見て思わず笑ったとき、湯船に浸かっているとき、寝るために部屋の電気を消す前」
はぁ、と溜め息が零れる。胃が燃えるように痛む。おでこにじんわりと脂汗が滲むのが分かった。
誰かに言って欲しいのかもしれない。「まだそんなこと気にしてんのかよ」って。「そんなしょうもないことに躓いてるタマじゃねえだろ」って。
「あのさ、おじさんはずっとずっと、苦しかったんでしょ。辛かったんでしょ。悲しかったんでしょ。それなのに、たったイッカゲツでそれが消えるわけないじゃん。体のケガとおんなじだよ。ケガがひどかったらずっとなおらないし、なおってもアトがのこるし。なおったように見えてもケガしたことはなくならないでしょ。大人なのにそんなことも知らないの?」
ああ、と思い喉が開いた。中学だか高校だかの時に同じようなことを考えたことがある。あった。どうして忘れてしまうんだろう。
「大人の『つらい』は子どもの『つらい』より、もっともっともぉっと大きくてむずかしいんでしょ。きっと、今のオレが『いやだぁ』って思ってるこのきもちよりも、もっと大きい『いやだぁ』なんでしょ」
「そ……んなこと、ないよ。比べるものじゃ、ない。君が辛いなら、それは辛いんだよ」
気が付くと残りのアイスは溶けて液状になっていた。それを全て口に流し込む。少しぬるくて、水か何かでゆすぎたくなるくらいの甘さが胸の奥の奥までいっぱいにこびりついた。
「そっか」という少年の呟きに、「そうだよ」とぽつりと返す。ていうかさ、という声が隣から聞こえた。
「おじさん、つくりわらいヘタだね」
「そう? 言わずにいられないくらい?」
「うん」
「そっか……。でも、これでも君に言われるまではヘタだって言われたことなかったよ」
大人なんてそんなもんだ。例えあからさまに引きつっていても、笑ってさえいればそれは「笑顔」になる。そうすると周りの「気付かなかった」も通じてしまう。
「いっぱい、がんばったんだね」
眠っている赤ん坊に話しかけるような優しい少年の声が右耳から入ってきて脳に広がると、ぼんやりと眺めていた沖が急に荒れだした。天気はいいのにどうしてだろう。入道雲だってないのに。
そんなことを考えていると、隣から「わぁっ!」という、驚いた声に続いて「どうしたの?」という、慌てたような声が聞こえてきた。疑問に思い右を向くと、右肩を小さな両手で押さえつけられた。割と痛い。……えっ! なに?
「なに!」思うと同時に、声に出ていた。久しぶりに大声を出した気がする。
「オレが『なに!』だよ! おじさん急になくんだもん! びっくりしちゃったよ。どっかいたいの?」
本当に不思議そうに目を丸くして首を傾げている。そこに悪意は微塵も感じられなかった。
下を向いて頬に触れると、指先が濡れた。どうして泣いているんだろう。突然出てきた涙に混乱していると、頭に何かが乗せられた。髪の毛が潰されてクシャっと軽い音が聞こえる。
膝の間からボタボタと涙を砂浜に落とす。ゆっくりと頭が撫でられた。見ず知らずの小学生に頭を撫でられる無職の俺。なんだそれ、笑える。ズズッと鼻をすすると、振動でまた涙が砂に落ちた。なぜだか、このよく分からない時間が無性に心地よかった。
どうして涙が出たのかは考えなくてもすぐに分かった。
ああ、そうか。本当に欲しかったのはこっちの言葉だったのか。
彼は何も言わずに先ほどとは逆のポジションで、また俺の気が済むのを待ってくれた。
しばらくして涙が止まるころには太陽が少し、西にズレていた。久しぶりに泣いたせいか、撫でられたおかげか、単に海を見たからか、ベットの上で目を覚ました時よりも気持ちは少し晴れていた。
「おちついた? 大丈夫?」
少年が俺の顔を覗き込んでくる。涙が乾いて目の下が少しだけ痛むが、多分きっと、大丈夫だ。
「大丈夫だよ」
一拍おいてから勢いよく立ち上がって伸びをして、吸い込んだ空気を吐ききると、まだ座りこんだままの少年の小さな頭を軽くわしゃわしゃと撫でる。汗で湿っているけど、それもなんだかいい。
「ありがとう」と小さく言うと、「どーいたしまして」と小さく返ってきた。
また二人で海を眺める。
***
「ほら」
「……? なに?」
「ゴミ、貰う。アイスもらっちゃったし、せめてそれくらいさせてよ」
授業を終えたクラスメイトと会うと気まずいから帰ると彼が言うので、ゴミを回収しようとそう言った。彼は素直に「ありがとう」と言ってゴミを入れたビニール袋を俺に差し出す。それを受け取って、自分が食べたアイスの容器を中に放る。
「じゃあ、バイバイ」
「うん、バイバイ。帰り道気を付けて」
少年は何度か振り返りながら、そのたびに大きく手を振って、砂浜の向こうに消えて行った。それを見届けて再び海に向きなおる。相変わらずキラキラと光る海面を眺めていると、ありきたりだけど自分がちっぽけに思える。だけど、それが落ち着く。だから俺は海に来たんだ。
「俺も帰るかぁ」
少年が歩いて行った方向とは逆側から帰路につく。道路と砂浜を繋ぐ砂まみれの階段を上って歩道を西に歩く。
「おかえり」
家に帰ると、リビングでは母がテレビでドラマの再放送を見ながらガラスのコップに入った麦茶を飲んでいた。結露したガラスの中身がとても魅力的に感じられ、俺も飲みたくなってくる。
「ただいま」
リビングを横目に対面式のキッチンに足を踏み入れる。勝手口のすぐ側に置かれたゴミ箱までまっすぐ歩き、蓋が付いたペダル式のゴミ箱のそのペダルを踏んで右手に持っていたゴミの入った袋を放って入れる。ガサッと、小さくて小気味良い音がした。
「海、行って来た」
中学生でもあるまいに母にそんな報告をしてみると、「そう」とだけ聞こえて隣の和室の襖を開ける音がした。夕方になり冷えてきたから羽織るものでも取りに行ったのかもしれない。
洗面所で手を洗っている最中に、ふとあることを思い出した。
そういえば小さい頃、一度だけ学校をサボって海辺を散歩したことがあった。そのとき確か、ちょうど今日の俺みたいに砂浜に直でおっさんが座っていて、その人に家から持ち出したアイスを半分くれてやったんだった。確か、あの時おっさんにあげたのは今日、少年にもらったものと同じアイスだった。
どんな話をしたのか、その人がどんな顔をしていたのか、食べた後のアイスのゴミをどうしたのかは思い出せない。
けれど、あんまりにも元気がないのに無理して笑うその人を少しでも元気付けたくて、家の冷凍庫から持ち出してきたお気に入りのアイスを半分押し付けたのだ。本当は海を眺めながら一人で食べるつもりだった。
どうして平日に大人がこんなところにいるのか、なんて自分のことは棚に上げて思ったっけな。
キッチンに戻り、氷を入れたガラスのコップに麦茶を注いでリビングのソファに腰を下ろす。
「ん? これどうしたの。アルバム?」
隣の部屋から戻っていた母に、そう確信しつつ尋ねる。
ローテーブルの上に紺色の分厚いアルバムだろうものが二冊重ねて置いてあった。母はそれとは別のアルバムをめくり、ニコニコしながら「うん。そう」と答えた。
重ねてあったうちの上の一冊を開いてみると、目も開いていない状態の生まれたての赤ん坊が写った写真が見開きの左上にあった。おそらく俺だろうなとページをめくっていくと、滑らかなパラパラ漫画のようにゆっくりと赤ん坊は幼児を経て少年になった。
どのページにも所狭しと挟まれていた写真の中で、あまり日に焼けない体質の俺は大抵歯を見せて笑っていた。
ふと、一枚の写真に手が止まる。それは上からのアングルで小さい俺の背中が遠くに写っている写真だった。その写真のほとんどをキラキラと光る海面が埋めている。おそらく砂浜に座る俺を、海岸沿いの舗装された道路から撮ったものだろう。
「あんた、小さい頃から何かあると、いつも海で一人でぼんやりしてたわよねぇ」
「そうだっけ?」
あまり覚えてはいないが母が言うならそうなのだろう。出かける前はふと思い付いた名案だと思ったのに、そう指摘されると少し恥ずかしくなってくる。その恥ずかしい気持ちを誤魔化すようにアルバムをめくる。
「え」
そして目に入ってきた写真を見た瞬間に俺の胸が早鐘を打った。どういうことだ?
家の縁側でアイスを頬張る俺。無論、今日も食べたあのアイスだ。その写真に写っている俺は珍しく笑っていなかった。そして、めくってきたページに挟まれていた写真とは違い、半そでのシャツやズボンから覗く手足も、顔を含めた首から上も、白かった肌はこんがりと日に焼けていた。
「ああ、何でかしらね。その年だけあんた、真っ黒に日焼けしてたわよねぇ」
俺がどの写真を見て手を止めたのかに興味があったのか、アルバムの写真を覗き込んできた母がのんびりと笑った。
そこにいたのは、先ほどまで並んで話をしていた少年だった。
いや。まさか、な。