第6話 夢と現実
★
視界を遮っていた、厚い灰色の霧が少しずつ薄らいでいく。
目の前には広大な緑の草原が広がり、遠くには万年雪を頂く、高い山々が連なる。
真っ青に晴れ渡る空からは陽の光が燦々《さんさん》と降り注ぎ、時折暖かな風が優しく頬を撫でる。風が吹くたび、緑色の海は微かな音を立てて小さな波を描く。
それは、とても心地良く、そして、懐かしい景色だった。
「ウィノナ」
不意に名前を呼ばれた。
振り向いた彼女の目に、優しい笑みを浮かべる両親の姿が映る。
「お父さん! お母さん!」
白いワンピースに身を包んだ、幼いウィノナはブロンドの長い髪を靡かせながら、両手を広げて両親のもとへとうれしそうに駆けていく。
しかし、何の前触れもなく、穏やかな景色が一変する。
空が黒い雲に覆われ、あたりに地鳴りのような音が轟く。台地が激しく揺れてウィノナはその場に倒れ込む。
次の瞬間、ウィノナと両親の間に深い亀裂が走り、両親の足元が崩れ落ちる。二人に向かって小さな手を一杯に伸ばすウィノナ。しかし、それは何の意味も持たなかった。
金切り声を張り上げ、狂ったように名前を呼ぶウィノナをよそに、二人は真っ暗な奈落の底へと吸い込まれていく。
両手と両膝を地面につけて呆然とするウィノナを嘲笑うかのように、再びあたりに地鳴りが響き渡る。
すると、崩れた台地は隆起し亀裂は跡形もなく消え失せる。空は真っ青に晴れ渡り、何もなかったかのように穏やかな景色が再現された。
一つだけ違っていたこと――それは、両親の姿がどこにもないこと。
取り残されたウィノナは、虚ろな眼差しで青い空を見上げると、陽の光を遮るように右手を翳した。
★★
「――どうかなさいましたか? エレンブルグ博士」
天井の照明に向かって右手を翳すウィノナに、左隣に座る、黒服に黒いサングラスの女が声を掛ける。天井の照明が点いたのは、飛行機が間もなく着陸態勢に入るから。
ポーンという電子音に続いて機内に流れた、ロシア語のアナウンスが乗客にシートベルトの着用を促す。
「なんでもありません」
ウィノナは、翳した右手でブロンドの髪を整えながら、いつもの無機質な口調で答える。
「それなら結構です」
女は視線を左隣に向ける。
すると、同じ黒服にサングラスの男が無言で頷いた。
時々同じような夢を見た。
それは決まって、心に大きなストレスやプレッシャーを抱えているとき。
飛行機に乗る前、ウィノナは《《あの夢》》を見るような気がした。
なぜなら、そのときの彼女は、三十四年間生きてきた中で一番と思えるぐらいプレッシャーを感じていたから。
窓のシェードを半分ほど開けて外に目をやる。そこには、闇の世界――夢の中で両親が吸い込まれていったのと同じ世界が広がっていた。
『私がいる世界も似たようなもの』
ウィノナはポケットから白いレースのハンカチを取り出して額の汗を拭う。
「珍しいですね。博士が汗を掻くなんて」
黒服の女が正面を向いたままポツリと呟く。
ウィノナの一挙手一投足に目を光らせているのがわかる。
「これより当機は着陸準備に入ります。揺れますのでご注意願います」
そんな機内アナウンスが流れて十秒も経たないうちに、機体は、車が凸凹の道を走っているような激しい揺れに襲われる。同時に、無理やりシートに押し倒されるような不快な圧迫感を覚えた。
国営航空の旅客機が老朽化しているとは聞いていたが、それは紛れもない事実だった。
ウィノナは黒服の二人に気付かれないよう、ハンカチに忍ばせた、小指の先ほどの小さな白い錠剤をそっと口に含んだ。
★★★
スウェーデンの首都ストックホルムの北約四十五キロに位置する「ストックホルム・アーランダ空港」。三つの滑走路と四つのターミナルを有する、スウェーデン最大の国際空港で、年間の利用者は約千七百万人。そのうち、国際線は千三百万人と全体の四分の三を占める。
一九八四年十二月九日午前四時。旅客棟二階の第四ターミナルのロビーに、入国手続きを終えたウィノナと黒服の二人が姿を現す。
ウィノナは、長い取っ手の付いたキャリーバッグを引きながら、氷のような冷たい眼差しで人がほとんどいないロビーをグルリと見渡す。
上下グレイのスーツに、ファーの付いたベージュのロングコートを纏った、細身のシルエット。肌は透き通るように白く、切れ長の目が艶やかな雰囲気を醸し出す。優雅な足取りに呼応するように、腰まで伸びたブロンドの髪がフワリと靡く様は、ランウェイを歩くファッションモデルを彷彿させる。
両脇にいる黒服の二人がウィノナにぴったり寄り添って、サングラスの奥から周囲に鋭い視線を送る。
男の名は「ルドルフ・アガフォノワ」。身長が二メートル近くある大男で、胸板の厚い、屈強な身体はプロレスラーや相撲取りにも引けを取らない。女の方は「タチアナ・ベレフスカヤ」。ルドルフと並ぶと小さく見えるが、女性としては大柄で、ウィノナよりも身体がひと回り大きい。
二人ともスーツの上からでも首から肩にかけて盛り上がる筋肉の様子が見て取れる。
ウィノナと二人はかれこれ五年の付き合いになる。ただし、プライベートな話をしたことは一度もない。年齢不詳で名前も本名かどうかわからない。わかっているのは、二人の役割と性別だけ――護衛の名目で《《監視》》を担当する男と女。
ウィノナたちが乗ってきた旅客機は|ソビエト社会主義共和国連邦《ソ連》の国営企業・アエロフロート社の専属輸送機《チャーター便》。
三人はこれから一階のロビーで大使館のスタッフと合流し、ストックホルムの中心にあるソ連大使館へと向かう。翌日開催される、ノーベル生理学・医学賞の授賞式へ出席するために。
つづく