第5話 西暦20XX年問題
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「この……クソったれが!」
激しい怒声に続いて、「パーン」という、大きな音が室内に響き渡る。
議員会館の自室に戻るや否や「大河内 健蔵」は分厚い答弁資料を壁に叩きつけると、全身をわなわなと震わせた。
「先生、今の音は?」
「どうかなさいましたか?」
パーテーションで仕切られた、隣の部屋から男女二人の秘書が慌てて飛んでくる。
荒い呼吸をしながら怒りを露わにする健蔵を前に、二人は言葉を失う。普段の温厚な健蔵とは別人だったから。
「……済まない。大きな声を出して」
視線を壁の方へ向けたまま、健蔵は息を吐き出すように呟く。自分がひどく取り乱しているのがわかった。
「コーヒーでも召し上がりますか?」
女性秘書が努めて明るい口調で言う。
「いや、今はいい」
健蔵は革張りの椅子の背に身体を預けるように座ると、ネクタイを緩めながら静かに目を閉じる。
男性秘書が答弁資料を拾い上げてテーブルの上に置く。しかし、健蔵は何の反応も示さない。
顔を見合わせた二人は小さくお辞儀をしてその場を後にした。
その日、「衆議院衛生医療委員会」が開催された。
内閣府の特命担当大臣で「国力回復推進会議」を取り仕切る立場にある健蔵は野党の質問攻めに遭い、六時間にわたり、ボクシングのサンドバッグのように打たれ続けた。その場で倒れることこそなかったもののノックアウト寸前の状態で、その結果がこの有様。
「いつまで続くんだ……? こんな状態が……」
右手で顔を押さえながら健蔵は力なく言った。
★★
二十一世紀初頭、これまで使われてきた「四大疾病」――がん、脳卒中、心臓病、糖尿病を示す言葉に《《精神疾患》》が加わり、「五大疾病」と呼ばれるようになった。
人が社会生活を営む上で確執や衝突の類は避けて通れないが、ここ数年、それらに起因する精神疾患の発生件数が著しく増大していた。
学校の友人や会社の同僚はもちろん、血の繋がった家族との関係も希薄になり、悩みや不安を相談できる相手がいないことで孤立し、自らを死に追いやるケースが後を絶たなくなる。さらに、精神疾患者を言葉巧みに誘い出し、虫けらのごとく殺して楽しむ者まで現れる。
こうして、右肩上がりに増えていく、自殺と殺人は精神疾患がもたらす社会現象として問題視されるようになった。
十二歳以上の国民を対象に行った調査では、症状が軽い者を含めると、実に「四人に一人」が精神疾患を患っているとの結果が得られ、特に、十代半ばから三十代前半の若年層の伸びが目立っていた。
高齢化が急速に進む中、労働力人口の減少による国力低下にただならぬ危機感を抱いた日本政府は、非常事態宣言を発令し、内閣府に「国力回復推進会議」を設置する。そして、精神疾患の予防と治療を国が取り組む最優先事項に指定し、施策の検討に入る。
推進会議は、全省庁に対し精神疾患の予防施策の洗い出しを指示するとともに「国立精神・神経研究所(NISN:National Institute of Spirit and Nerve)」と協力のうえ、精神疾患者の症状や原因を分析し、効果的な治療法の確立を試みた。
一般的に、精神疾患の成因及び病像形成には、脳科学的要因、心理的要因及び社会的要因の三つの要因があり、スタンダードな治療方法として、脳科学的要因に働きかける「薬物療法」、心理的要因に働きかけるカウンセリングなどの「精神療法」、社会的要因に働きかけるリハビリなどの「社会的療法」があげられる。
推進会議は、三つの治療方法を掘り下げ、また、組み合わせることで効果的なアプローチを模索したが、精神疾患者が社会復帰へ向かうケースは極めて低く、しかも、復帰した者の多くはフォローが必要で「完全復帰」と呼べるには程遠い状況だった。
一口に精神疾患と言ってもその症状や原因は十人十色で、数千万規模の患者を社会復帰させる術など見つかるわけがなく、「十年で患者の八十パーセントを社会復帰させる」といった目標はまさに「絵に描いた餅」。
打ち出した施策はどれも期待した効果をあげることができず、政府は国会で槍玉にあげられ、世論からは強烈なバッシングを受け、内閣の支持率は急落していった。
一方、プロジェクトの責任者である健蔵は野党からだけでなく党内からも強い批判を浴び、針の蓆のような状態に置かれる。
反撃に転じるにも弾となる施策がない状態で、党内では「トカゲの尻尾切り」の話が囁かれていた。
三十八歳で初当選を果たした健蔵は、二十年余り、医療・衛生の分野一筋の政治活動を行ってきた。
特命担当大臣になる前は衆議院衛生医療委員会の委員長を務めていたことで、大学の付属病院の教授や衛生・医療関連の大企業とは太いパイプがある。的確な情報収集や迅速な根回しには定評があり、党上層部からも絶大な信頼を得ていた。
特命担当大臣としてそれなりの成果を残せば次回組閣では《《格上大臣》》への登用は確実で、しばしば聞こえる「将来の総理候補」といった声も現実味を帯びてくる。
しかし、ここで責任を取って辞任したとなれば、これまで積み上げて来たものは音を立てて崩れ落ち、政治生命を絶たれるような状況に追いやられてしまう。「天国から地獄」という表現がピッタリだった。
★★★
不意に机の上のスマホが鳴った。
それは国から貸与を受けているものではなく、健蔵の家族の写真を待ち受けに使っている、プライベートなもの。
重い身体を起こしてゆっくり立ち上がると、健蔵は机の上のスマホを覗き込む。画面には「大河内 健吾」の表示。健吾は健蔵の息子で衛生医療省のキャリア官僚。普段から二人は密に情報交換を行っていた。
「健吾、何か用か?」
「急な話で申し訳ないけど、明日、《《ある男》》に会ってもらいたい」
健吾の一言に、健蔵の表情が俄かに険しいものへと変わる。
「お前もわかってるだろ? 今は国会の会期中、しかも、党にとっても私にとっても大事なときだ。緊急の用件でなければ会期明けに――」
「それは承知している。だからこそ、俺は言っている」
健蔵の話が終わらないうちに、健吾は語気を強めて言葉を被せる。
健吾は常識を持ち合わせており、理由なく非常識な行動をとる男ではない。頭が良く判断力にも長けている。健蔵はそんな健吾に厚い信頼を寄せ、いずれは自分の地盤を継がせたいと考えていた。
「……どういうことだ? 国会よりも優先させることがあるというのか?」
「詳しいことは会ってから話す。一つ言えるのは、親父がその男の話に耳を傾けるかどうかで、俺の将来も大きく変わるってことだ。なぜなら……そのことが親父の政治生命を大きく左右するからだ」
健吾は高揚した様子で力強く言い放った。
これまで健蔵は「直感」というものを大切にしてきた。
人は必ずしも本当のことばかり言うわけではない。政界では嘘の方が圧倒的に多い。しかし、そんな偽りに塗れた世界に身を置くことで「人や物を見る目」が養われた。
健蔵が今の地位まで上り詰めることができたのは、自分の直感を信じ、要所要所で適切な決断を下してきたからに他ならない。
健蔵の直感が言った。「優先すべきは健吾の話を聞くことだ」と。
「誰なんだ? お前が会わせたい人物というのは」
健蔵の声が落ち着きを取り戻す。
健吾の口元が少し緩む。
「姫野冬夜。この局面を打開できるのは、あいつしかいない」
つづく(第1部へ)