第34話 超人研究(その1)
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閑静な住宅街に佇む、煉瓦造りの洋館。タクシーを降りた冬夜は、表札のない門を潜って石畳のアプローチを玄関へと向かう。
色鮮やかな緑の芝生で覆われた庭には、柱に蔦が絡まる西洋風あずまやと白いガーデンファニチャーが配され、塀に沿って立ち並ぶマグノリアの木には大きな白い花が咲き零れる。
足を止め、洗練された雰囲気が漂う景観をぐるっと見まわす冬夜。ドラマに出てくるような豪邸に「メイドと二人で住むには贅沢過ぎるのでは?」といった言葉が脳裏を過る。
しかし、すぐに自分がおかしな発想をしていることに気づく。なぜなら、国家への貢献度を考えれば、ヘレナがこの程度の家に住むのは至極当然のことだから。
玄関の呼び鈴を押すと、ガチャリと鍵を開ける音がして、隙間からエプロンドレスを身に纏ったドロシーが顔を覗かせる。
「いらっしゃいませ」
半分だけ開いたドアを手で押さえながら、ギョロリとした目で、冬夜の頭の先から爪先までを、まるで品定めをするように眺める。
「冬夜、呼び立てて悪かったな。入ってくれ」
家の中からヘレナの声がする。
その声に応えるように、ドロシーはドアを全開にして冬夜に中へ入るよう促した。
「お邪魔します」
冬夜は軽く会釈をしてヘレナの後について進む。
背中から突き刺すような視線を感じたのは気のせいではなかった。
★★
八月初旬の土曜日の午後、ヘレナは冬夜を自宅へ呼んだ。
自分の過去に関する話をするため。
第三者に聞かれるのを避けることを考慮した結果、消去法でヘレナの屋敷が打ち合わせ場所となった。
「何から話そうか……」
ヘレナが独り言のように言ったとき、キッチンから、紅茶とチーズケーキを載せたトレイを手にしたドロシーが現れる。瞬時に冬夜の視線がドロシーに向く。
「彼女は大丈夫だ。『ウィノナ』のことは私の次に詳しい」
「ドロシー・マンハッタンです。ヘレナとは三十年来の付き合いになります」
紅茶のカップを冬夜の前に置きながら、ドロシーは視線を逸らしたまま自己紹介をする。
「はじめまして。姫野冬夜です。NIHの研究員です。ヘレナさんにはいつも大変お世話に――」
「存じています」
ドロシーは冬夜の挨拶に言葉を被せる。どこか不機嫌な様子でリビングを後にする。一度も目を合わせなかったところを見ると、冬夜のことをよく思っていないのは間違いない。
「ドロシーは私のことをとても心配してくれている。悪気はないんだ。許してやってくれ」
「大丈夫です。理由はわかります」
声を潜めるように言うヘレナに、冬夜は小さく首を縦に振る。
ドロシーはヘレナの世話係兼護衛役。長い間、秘密を共有しながらヘレナに仕えてきた。そんな彼女の前に、突然どこの馬の骨ともわからない者が現れて、二人だけの秘密が共有されてしまった。
冬夜がドロシーの立場だったとしても、あれほど露骨ではないにせよ、不快な気持ちを露わにしただろう。
「では、私が旧ソ連で研究してきた『超人研究』のことを話す。長い話になるが、キミが知りたがっていることだ。
できるだけわかりやすく話すが、ところどころマニアックな内容が含まれている。理解できない部分は遠慮なく質問してくれ」
ヘレナは紅茶のカップをテーブルの上に置くと、淡々と話し始めた。
★★★
人間の脳は大きく分けて「大脳」、「小脳」、「脳幹」の三つに分類することができる。「大脳」は考える・決定するといった知的機能を、「小脳」は歩く・走ると言った運動機能を、「脳幹」は呼吸・体温・ホルモン調整といった生命維持機能を、それぞれ担っている。
生命維持機能は生物が個体を保存するのに必要不可欠なものであり「脳幹」は下等生物にも備わっている。俗に「爬虫類の脳」と呼ばれている。
さらに、「大脳」には、喜怒哀楽を掌る「大脳辺縁系」と、知識を獲得し、思考を巡らし、言葉を話すといった、高度な機能を有する「大脳皮質」とがあり、前者が「馬の脳」、後者が「人の脳」と呼ばれている。「人の脳」を備えているのは文字通り人間のみであって、いわば知的生命体の証しでもある。
生物が身体を動かすメカニズムは、「大脳」における決定事項が電気信号となって発信され、それが神経細胞を経由して筋肉へと伝わり、脳がイメージした動きを実行する。その際、筋肉からの情報を受け取った「小脳」が動作をコントロールすることで、歩くor走る、噛むor飲み込むといった、動作の微修正が行われる。
なお、「馬の脳」には「海馬」と呼ばれる部分が存在する。日々覚えた情報はここにファイリングされ、その後、「人の脳」へ送られる。新しい記憶と古い記憶とでは存在する場所が異なっている。
★★★★
超人研究が始まったのは一九七四年。当時二十四歳だったウィノナが責任者として指揮をとった。
初めのうちは、人体実験の機会はほとんどなく、月に数体、事故や病気で亡くなった者の「死体」が運ばれてくるだけだった。
死体を解剖することで脳の構造に関する理解度は深まるものの、メスを入れても何のリアクションもないことから、大学の解剖学の授業に毛が生えたようなものだった。
しかし、一九七九年に状況が一変する。
ソ連がA国に軍事介入したことで、「死体」ではなく「生体」による実験が可能な環境――捕虜を被験者として使用できる環境が整う。
ウィノナはその状況に恐怖した。なぜなら、《《取り返しのつかないもの》》の完成がグッと現実味を増したから。
実験は、普通の人間が直視できるものではなかった。
麻酔と自白剤を施した被験者を手術台に縛り付け、電気メスで頭部を切開し、頭蓋骨の脳天部を取り外す。そして、脳が露わになった被験者と一対一の対話を行う。
その際、脳の様々な個所にメスを入れたり電気や薬品で刺激を与えたりすることで、被験者の言語や生体反応を具に観察し、データを蓄積して効果検証を行った。
実験を担当するメンバーは八人。責任者であるウィノナが被験者との会話と他のメンバーへの指示を行い、二人が呼吸・心拍・脳波・体温といった生理的データの確認、残りの五人が脳への刺激とそれに基づく変化等、気づいた点を記録した。
一回の実験は短いときは一時間で終了したが、長いときは十時間にも及んだ。ただし、一時間で終了したのは被験者が死亡したためであり、その後、別の被験者で実験は再開された。
実験場所は、国立医学アカデミーの地下二階。構造は病院の手術室と似ているが、行っていることは治療とは対極にあるもの。
約八十平方メートルの空間は、二十四時間、照明が煌々《こうこう》と灯り、四台の大型エアコンの不快な重低音が鳴り止むことはなかった。
死体とも生体とも取れる被験者の《《置き場》》を兼ねていたことから、血や体液の臭いが充満し、被験者が発する、言葉や叫び声、また、そのどちらでもない奇妙な音が飛び交った。
実験のサイクルは一日おきで、翌日はデータの整理や分析、計画策定などが行われた。
こんな環境に朝から晩まで押し込められていたら、普通の人間であれば神経がおかしくなってしまう。
実際、精神に異常を来してリタイアしたり、自ら命を絶った研究者の数は両手の指では足りない――それは、ウィノナとて例外ではなかった。
いつからか、自ら処方した精神安定剤を服用するのが日課となり、日が経つにつれ強力なものへと変わっていった。
脳が露わになった捕虜たちと《《普通に》》会話ができるようになったのは、精神安定剤を服用して三ヶ月が経った頃――五十人近い捕虜を自らの手で死に追いやった後のことだった。
つづく




