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Балансеры -バランサーズ-  作者: RAY
第3部 冬夜の前に道はない He says 'But I can create a path behind me'
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第32話 シミュレーション障害


 四月のPT戦略会議ストラテジーミーティングの日の夜、アパートへ戻った冬夜はデスクの椅子に腰を下ろして、マグカップのコーヒーを少し口に含んだ。

 その瞬間、昼間あったことが頭の中を駆け巡った。


 冬夜はデスクの浅い引出しを開けて一枚の写真を取り出す。白衣を着た、長いブロンドの髪の女性が二人の男性といっしょに写っている。冷やかな眼差しと透き通るような白い肌が幻想的な美しさをかもし出す。「氷の女王(リョート・ダーマ)という呼び名は的を射ている」。改めて思った。


「あなたは今、どこにいるのですか?」


 冬夜は写真をパソコンの隣に立てかけて、溜息を吐くように呟いた。

 ウィノナに会いたいのは、彼女の研究成果が春日を救うために必要だから。


「ボクたちは、縁がないのですか?」


 少し投げやりな言い方をして冬夜は再びコーヒーを口にする。

 不思議な気持ちだった。会ったこともないのにどこかで会っている気がした。見るからに「氷の女王」なのに温かい雰囲気が感じられた。スウェーデンでエドガーから彼女の別の一面を聞かされたからなのかもしれない。


 冬夜は何かを振り払うように頭を左右に振ると、カバンから昼間の会議資料が入った封筒を取り出した。

 入っているのは、両面印刷されたA4の紙が五枚とUSBメモリが一つ。六時間に及ぶ会議だけに資料ボリュームは二百ページを超える。ただ、そのほとんどは電子データ。紙で配付されたのは議事次第と前回の会議の議事録のみ。

 議事録の最後には、内容を確認したあかしとして出席メンバー十五人がサインをした一覧表が添付されている。


 冬夜は、パソコンに格納してある、前回の会議資料を立ち上げて、資料を見ながら議事録の内容を一つずつ確認する。後々疑義が生じそうな、曖昧な記述があれば詳細を調べておくためだ。

 それが戦略会議の事務局の仕事であり、四月から正式にNIHのメンバーとなった冬夜の担当業務。

 念のため資料を立ち上げたが、その内容は冬夜の脳内のデータベースにインプット済みであり蛇足のようなもの。確認作業は十分もあれば終了する。


 冬夜はコーヒーを飲みながら、議事録に付された一覧表に目を移す。改めて見てみると、錚々《そうそう》たるメンバーが名を連ねている。

 冬夜自身、今回で四回目の出席となるため、名前を見れば顔は思い浮かぶ。難しい研究論文もその場でインプットできることを考えれば、人の顔と名前を覚えるのは彼にとっては朝飯前。


 表の下から二番目に「Helena(ヘレナ) Carpenter(カーペンター)」のサインがあった。

 筆記体で書かれたサインは、癖のない、綺麗な文字。小さな子が字を覚えるときに使うお手本のようだった――「ある一文字」を除いては。


 不意に冬夜の表情がいぶかしいものへと変わった。

 視線の先にあるのは「Helena」の「H」の文字。


「これは……キリル文字の筆記体……?」


 英語のアルファベットのNに当たる文字がキリル文字では「H」と表記される。ヘレナの書いた「H」は英語のHとはどこか違う。どう見てもキリル文字の「H」だった。

 時間が静止したかのように、マグカップを持つ手が空中で止まった。


 ――再び時間が動き出す。

 冬夜はマグカップを荒っぽくデスクの上に置くと、一番下の深い引出しを勢いよく開けて、無造作に並んだ、紙ファイルと封筒を乱暴に物色する。

 探していたのは、スウェーデンでグランフェルトから託された、ノーベル賞論文の最終原稿。ウィノナが最終チェックを入れたもので、最後のページには、「Вайнона(ウィノナ) Эренбург(エレンブルグ)」のサインが書かれていた。


「あった!」


 大きな声とともに、冬夜はウィノナのサインが書かれた原稿を引っ張り出す。そして、ヘレンのサインが書かれた一覧表とそれとを見比べた。

 三十年余りの時間ときを隔てて書かれた二つの「H」は、冬夜の目には《《同じもの》》に映った。


「……見つけた」


 身体が震えた。声が上擦うわずっているのがわかった。

 それもそのはず。冬夜は探し続けたウィノナをついに見つけ出したのだから。


★★


 しかし、次の瞬間、冬夜の脳裏を「ある不安」が過ぎる。

 頭の中で自問自答が始まる。


 冬夜はヘレナに対して、自分がウィノナの研究成果を必要とする理由を丁寧に説明した。にもかかわらず、彼女は自分がウィノナであることを隠し続けた。それは「自分の正体を誰にも知られたくない」といった意思表示に他ならない。


 三十年もの長きに亘り、ウィノナはヘレナとして生きてきた。外見や経歴まで変えて「自分ではない誰か」として生きてきた。そう簡単にできることではない。しかし、あえて《《そう》》してきた。なぜか?――そうせざるを得なかったから。そうしなければ、命に関わるような事態に陥ったから。


 だとしたら、いくら「文字が似ている」などと言っても、ヘレナは真実を話してくれるはずなどない。「人違い」の一言で押し通そうとするだろう。

 さらに、冬夜のことを警戒して距離を置くようになる。場合によっては、目の前から消えてしまうかもしれない。そうなれば、微かな希望は完全に消え失せてしまう。


 冬夜はどうすればヘレナが自分に協力してくれるかを必死に考えた。

 しかし、答えは導き出せなかった。冬夜の脳裏に浮かんだ「あること」がシミュレーションの障害となっていたから。


『ウィノナが執拗に過去を隠そうとするのは、過去の自分――「たくさんの人をあやめた自分」を自分だと認めたくないからではないか?』


 そんな中、無理に「超人研究」について聞き出せば、ヘレナは悲しみに打ちひしがれ精神が崩壊してしまうかもしれない。いや、その前に自ら命を絶ってしまう可能性だってある。


『ウィノナを悲しませてはいけない』


 それが、冬夜の導き出した答えだった。

 同時に、心の中で激しい葛藤が渦巻いていた――春日とウィノナとの間で。


 つづく


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