第3話 兄と妹(その1)
★
「冬夜、話しておきたいことがあるんだ」
夕食の後片付けを終えた、父親の夏彦がキッチンから現れる。
いつもとは明らかに違う、重々しい口調に、リビングのソファに座っていた冬夜は、読んでいた本を閉じて声の方へ目をやった。
「お父さん、何かあったの?」
夏彦は冬夜の正面にゆっくりと腰を下ろす。
その顔には思い詰めた表情が浮かんでいる。
「春日のことだ」
夏彦の言葉が耳に届いた瞬間、それが何かの呪文であるかのように、冬夜の身体は固く強張り心臓が早鐘を打つ。
これから夏彦が何を言おうとしているのか予想がついたから。現実を受け入れるときが来たことを悟ったから。
三日前に生まれた春日は、冬夜と年が十歳離れた妹。母親の秋穂とともに近くの大学病院に入院している。
冬夜の実の母親は彼が六歳のときに病気で亡くなり、秋穂は夏彦が二年前に再婚した相手。春日は冬夜にとって腹違いの妹となる。
両親から妹ができることを聞かされたとき、冬夜の身体は歓喜に震えた。大袈裟かもしれないが、これまで生きてきた中で《《二番目》》に幸せだと思った。
いわゆる継母が産んだ子供にそのような感情を抱くのはとても珍しい。
ただでさえ両親の愛情が弟や妹に注がれることで嫉妬心を抱く子供が多い中、それが実の父親と継母の間の子供ということになれば「自分が除け者にされてしまう」といった、強い警戒心が湧きあがってもおかしくない。
ただ、冬夜の気持ちに偽りはなかった。
秋穂が冬夜に対して深い愛情を注いでいたから。そして、冬夜もそれをしっかりと受け止めていたから。
継子話――意地悪な継母が心優しい継子を執拗に虐める童話や民話の類は、古今東西を通じ数多く存在する。
その影響もあってか「継母」という言葉はネガティブな意味で使われることが多く、ついつい悪い印象を抱いてしまう。
しかし、冬夜にとっての継母は実の母親と比べても遜色はなかった。いや、それ以上と言っても過言ではなかった。
冬夜が初めて秋穂と会ったとき、言いたいことをはっきりと口にする、歯に衣着せぬ物言いに面食らった。ただ、そう感じたのは最初だけ。しばらく付き合ってみると、秋穂の誠実さと優しさが実感できるようになった。
言葉に嫌味がなく、竹を割ったような、さっぱりとした性格に好感が持てた。いっしょにいると、心が温かい何かで満たされていく気がした。大雑把に見えて実は繊細で、いつも周りへの気遣いを忘れないところが素晴らしいと思った。
秋穂のことを知るにつれ、冬夜は彼女が自分の母親になってくれたことに心から感謝した。それが、冬夜にとって《《一番目》》に幸せなことであり、秋穂の子供が自分の妹になることをうれしく思う理由だった。
★★
そんな幸せ一杯の冬夜だったが、三ヶ月前のある夜、青天の霹靂のような衝撃を受ける。
夜中にトイレに起きたとき、階下から話し声が聞こえた。
音を立てないように階段の途中まで降りていくと、明かりが点いたリビングで両親が何かを話している。冬夜は息を潜めて聞き耳を立てた。
沈黙が続いたかと思うと言い争うような声が上がる。秋穂のすすり泣くような声も聞こえてきた。
三ヶ月後に新しい家族を迎えることで、両親は幸福の絶頂にいてもおかしくない。にもかかわらず、まるで通夜のような雰囲気が伝わってくる。
固唾を飲んで二人の会話に耳を傾けていた冬夜だったが、次第にその表情が曇っていく。途中から身体の震えが止まらなかった。
冬夜は自分の耳を信じることができなかった。
「心臓に重い先天性疾患」
「生まれてすぐに手術が必要。手術はあくまで応急処置」
「完治には心臓移植以外に方法はない」
「血液型はRh陰性のO型」
「臓器提供者が見つかる可能性はゼロに等しい」
「もし合併症を起こしたら打つ手はない」
「神様に祈るしかない」
断片的な情報ではあったが、小学四年生ながら聡明な冬夜には状況がはっきりと理解できた。
二人に気づかれないように部屋に戻ると、ベッドに飛び込んで頭から布団を被った。自分が聞いたことが何かの間違いであって欲しいと思った。朝起きたら悪い夢を見ていたことにして欲しいと思った。
冬夜の頭の中で、数々のシミュレーションが行われる。しかし、都合の良い答えに辿り着くことはできなかった。
堰を切ったように涙が溢れ出す。大粒の涙がポロポロと頬を伝った。いくら拭いても切りがなく、涙と鼻水で顔がグシャグシャになった。
何も知らずに生まれてくる妹が不憫でならなかった。何も悪いことなどしていないのに過酷な運命を背負わされる妹が可哀想でならなかった。
『生まれてこない方がいいのではないか?』
不意に頭の中でそんな声が聞こえた。
『そんなことは絶対にない!』
間髪を容れず否定した。なぜなら、冬夜の脳裏には、両親が涙ながらに語っていた言葉が鮮明に焼き付けられていたから。「春日は神様から授かった大切な子。どんなことがあってもしっかり育てる。希望がある限り何だってやる」
そのとき、冬夜は二つの誓いを立てた。
一つは、自分が春日の命を救うこと。もう一つは、春日を救うまでは絶対に泣かないこと。
「明日からは……絶対に守るから……」
冬夜は声を殺してむせび泣いた。一生分の涙を流すつもりで。
★★★
翌朝、冬夜はいつもより早く目が覚めた。
服を着替えて一階へ下りると、おそるおそるダイニングの扉を開ける。
「冬夜くん、おはよう。今日は早いのね」
いつもの黒いシェフエプロンを首から下げた秋穂が、ハムエッグの乗った皿をテーブルに並べながら、いつもの笑みを浮かべる。
「おはよう。冬夜」
リビングでは、ソファに座った夏彦がいつものように新聞を眺めながらコーヒーを飲んでいる。
「おはよう」
冬夜は二人に挨拶をしてダイニングのイスに座った。
トーストが焼き上がりコップにミルクが注がれる。
秋穂と夏彦がそれぞれ席につく。
いつものようにテレビのニュースを見ながらの朝食が始まる。
すべてはいつもの通りで、二人の様子を見ていると、昨晩のことが嘘のように思えた。
いつもの時間に家を出た冬夜は、いつもの道を小学校へと向かう。
川沿いの土手の道へ差し掛かったとき、川の両岸に数百メートルにわたって整備された、桜の木々が目に入った。一月半ばということで開花には程遠く、殺風景な景色が広がっている。
しかし、春日が生まれる頃には、ここから見える景色は華やかなものへと変わる。陽の光を受けて煌めきを放つ水面を柔らかいピンク色が縁取り、泡沫の美しさが見る者を魅了する。
『春日にも見せてあげたい。そして、心から美しいと感じて欲しい』
不意に足を止めると、冬夜は灰色の空を見上げる。
吐く息がゆらゆらと揺れながらどんよりとした空に吸い込まれていく。
いつ白い物が落ちてきてもおかしくなかった。
冬夜はグッと唇を噛んで一目散に駆け出した。
真っ白な息といっしょに、時折、言葉にならない言葉を吐き出しながら。
つづく




