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Балансеры -バランサーズ-  作者: RAY
第3部 冬夜の前に道はない He says 'But I can create a path behind me'
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第29話 共鳴


 黒塗りの車が二階建ての瀟洒しょうしゃな洋館の前に止まる。

 それを待っていたかのように、洋館の中からエプロンドレスを身にまとった黒人女性が現れた。落ち付きと気品が感じられる彼女の名前は「ドロシー・マンハッタン」。年齢は五十代前半。

 後ろのドアを開けようとする運転手に、ドロシーは両手を自分の身体の前に重ねて軽く会釈をする。


「ドロシー、ただいま。これお土産。『レディM』のミルクレープ」


 車中からお洒落な紙袋がにゅっと顔を出した。

 続いて、灰色のスーツを身にまとったヘレナが降りてくる。


「おかえりなさい。ヘレナ……あら、珍しい」


 紙袋を受け取ったドロシーはヘレナの顔をしげしげと眺める。


「会議がある日は、いつもお土産を買ってきてるけど?」


「『珍しい』って言ったのはそっちじゃないの」


 ドロシーは「違う違う」と言うように右手を左右に振る。


「会議から戻ったヘレナが、そんなうれしそうな顔をしているのは初めてだから、何か良いことでもあったのかと思って」


 門を入ったところで、ドロシーは眉毛を上下に動かしながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 一月ではあるが、玄関に続くアプローチの両側に置かれたフラワーポットには、溢れんばかりの花々が咲き誇り、石畳の通路を美しく彩っている。


「別に何もない。いつもと同じ退屈な会議だった」


 ヘレナは視線を逸らして、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。


「そう」


 玄関の施錠をしながらドロシーは気のない返事をすると、紙袋を手にそそくさとキッチンへと向かった。


「それ以上、かないの?」


 背中から聞こえた、ヘレナの言葉に、ドロシーは口を押さえてぷっと噴き出した。


「やっぱり聞いて欲しいんじゃない。困った人ね」


 振り向きざまにそう言うと、ドロシーは白い歯を見せる。


「アッサムティーを入れるわ。少し遅いティータイムにしましょう」


 ヘレナは、ロサンゼルス郊外の閑静な住宅街に一軒家を構え、彼女の身の回りの世話をするドロシーと二人で暮らしている。二人は三十年来の付き合いで、ヘレナが親しく話をするのはドロシーとだけ。

 ヘレナは国から老齢年金を支給されているほか、NIHからコンサルティング料の名目で毎月八千ドルの報酬を受け取っている。ただ、報酬のほとんどはNIHを通して医療財団に寄付しているため、蓄えらしきものはほとんどない。日本流に言えば「宵越しの金は持たない」タイプ。


 はたから見れば、何不自由なく、のんびりと老後を送っているヘレナだったが、いつも満たされない「何か」を感じていた。それが何であるか、自分でもよくわからなかった――が、冬夜と出会ってその正体が少し見えたような気がした。


 親子以上に年が離れた冬夜と話をした瞬間、ある感情――喜怒哀楽を自由に表現できた、遠い昔に抱いていた感情が、心の底から湧きあがってくるのを感じた。

 お茶を飲みながら、ドロシーに冬夜のことを話したが、自分の気持ちについては話さなかった。いや、恥ずかしくて話すことなどできなかった。


★★


 PT戦略会議ストラテジー・ミーティングの翌日、冬夜はヘレナから教えてもらったアドレスにメールを打つ。

 内容は、前日食事をご馳走になったお礼とこれから神経科学について教えを乞いたいという依頼。

 メールを送ると五分も経たないうちに返事が返ってきた。


「私は神様ではない。教えられるものと教えられないものがある。内容によっては教えられる」


 当たり前の内容に味もそっけもない文章だったが、冬夜は前向きな返事がもらえたことをとてもうれしく思った。


 ここ二回の戦略会議は、間違いなくヘレナ中心に回っていた。

 発言の回数こそ少なかったが、発言の内容はとても濃いものだった。

 課題への対応策や計画の進め方を決定するのに、ヘレナの意見を聞くことで「お墨付き」をもらっているように見えた。


 冬夜は、渡米して四年間、神経科学について必死に勉強した。「これ以上できない」と思えるくらい勉強した。

 数百に及ぶ学術論文を読み漁り、その内容を余すことなく脳内のデータベースにインプットした。そして、その情報を基に頭の中で様々なシミュレーションを展開し、最適な回答を導き出すことを考えた――春日を救う方法を探し出すために。

 PTがあと数年で実用化されることから、途中までは道筋を立てることができた。しかし、それから先はまだピースが埋まっていない。あくまで、現存すると《《仮定したもの》》を使ってのシミュレーションに過ぎない。神経科学について、もっと知識が必要だった。


 幼い頃から冬夜は「天才」と呼ばれてきたが、自分のことを一度たりとも天才だと思ったことはない。

 それは、冬夜の中にある、天才の定義が「無から新しいものを生み出すことができる存在」だったから。そして、自分がその定義に当てはまらないことをはっきりと認識していたから。


 冬夜がヘレナに興味を抱いた理由は二つ。

 一つは、もともと冬夜は、旧ソ連でウィノナが行っていた「脳移植に関する研究」がPT(人格移送)につながっていると考えており、PTを熟知している者を辿っていけば自ずと「潜在能力の引き出し」に辿りつくと考えたこと。

 そして、もう一つは、研究者として、ヘレナ・カーペンターに純粋に惹かれたこと。


 初めてヘレナと会ったとき、冬夜は彼女の一挙手一投足に目を奪われた。

 その言葉や発想は冬夜の心に響くものがあり「ヘレナの教えを乞いたい」という思いがふつふつと湧き上がった。


 もちろん、自分が渡米した目的を忘れたわけではない。

 これまで冬夜は春日を救うために全身全霊を傾けてきた。今もその気持ちに変わりはなく、一秒でも早く春日を救うすべを見つけたいと考えている。

 冬夜がヘレナに抱いた思いは、それとは別の次元に位置するもの――天才と称される彼の本能が求めるものであり、知的好奇心を満たそうとする求知心の表れ。


 同時に、冬夜はある妄想を抱いていた。


『ヘレナがウィノナだったとしたら――』


 その外見からは、二人が同一人物だというのはまずあり得ない。

 ウィノナの写真を見てもその容姿はヘレナとは全く違う。

 ウィノナがブロンドの髪とブラウンの瞳、それに透き通るように白い肌であるのに対し、ヘレナは真っ黒な髪と瞳に茶褐色の肌。

 ウィノナがファッションモデルのようなスレンダー体型であるのに対し、ヘレナは小太りのぽっちゃりタイプ。年齢的なものはあるにせよ、面影らしきものは全く見られない。

 ただ、冬夜がそんな妄想を抱いたのは、単なる希望的観測からではない。


 ウィノナは、言わずと知れた、神経科学の世界的権威。

 冬夜の中にある、ウィノナのイメージは、ノーベル賞の受賞論文とスウェーデンでエドガーから聞いた話から形作られているが、彼女のことを「希代の天才」と位置づけていた。同時に、ヘレナについても「天才」というイメージを抱かずにはいられなかった。


 外見こそ似ても似つかぬ、へレナとウィノナ。

 しかし、冬夜は二人の姿がダブって見える瞬間を幾度となく経験する。


 つづく

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