第28話 ランチタイムのアクシデント
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年が明けた、二〇一五年一月二十日、冬夜は自身二回目のPT戦略会議に臨む。
その日は、温暖なロサンゼルスには珍しく、最高気温が十度を少し越えるぐらいで、肌寒さを感じるほどだった。
午前の会議は、予定通り十一時三十分に終了した。
ホプキンスが知り合いの研究者と車でランチに出掛けたため、冬夜は一人カフェテリアへと向かう。カフェテリアと聞くと、大学や企業の《《ちょっとした食堂》》をイメージするかもしれないが、NIHの《《それ》》は規模も中身も違う。
千五百人を収容できるイーティング・スペースがあり、価格がリーズナブルなうえに味も悪くない。さらに、海外から赴任したスタッフが数多く働いていることを考慮して、和洋中の料理が何種類も取り揃えられ、週替わりで世界の料理を楽しむこともできる。
国際色豊かなラインナップはスタッフの間で評判が良く、外部のビジネスマンも訪れるほどで、十二時を過ぎるといつも行列ができる。
ちなみに、日本人が多いせいか、和食はご飯と味噌汁のほか、納豆・海苔・焼き魚・漬物とかなりの充実ぶりが窺える。
時間が早いこともあって、カフェテリアは空席が目立つ。
トレイを手にして食材を物色している顔ぶれを見ると、冬夜と同じ会議に出席していたメンバーが何人かいる。
バラエティに富んだメニューに何を食べようか迷う冬夜。ふと「Weekly World's Cuisines(週替わりの世界の料理)」と書かれたパネルが目に入った。
前回の会議のときNIHのスタッフが「世界の料理はシェフの自信作」と言っていたのを思い出し、足が自然とパネルの方へ向く。
パネルの下のボードには、料理の説明が書かれた紙が貼られている。写真付きなのはわかりやすいが、横長のボード一杯に、提供されている二種類のメニューが交互にビッシリ貼られているのは、まるで選挙事務所に貼り詰められたポスターのようだ。
コーナーの端に視線を向けた冬夜は、銀縁の眼鏡を掛けた、ボブヘアの女性「ヘレナ・カーペンター」がいることに気付く。
ヘレナの隣りでは、同じ会議に出席していた、二人のスタッフが「何を食べようか?」などと楽しそうに話をしているが、彼女は話に加わる様子はなく真剣な眼差しでボードを眺めている。
カフェテリア内は、クリーム色を基調とした明るい塗装が施され、屋外に面した壁は全面ガラス張りで眩い陽の光が射し込む。外にはテラス席も設けられ、遠目に青い海を見ながら食事を摂ることもできる。
そんな開放的な空間のはずが、なぜかヘレナの周りだけは空気が重苦しく、ピリピリした雰囲気が漂っている。
冬夜はヘレナと話をしたいと思いながら、声を掛けるのが躊躇われ、足が別の方を向く。
トレイの上に食材を乗せて会計へ並ぶ冬夜。選んだのは、ご飯に味噌汁。それに、焼き魚に納豆。日本の朝食のようなメニューだったが、最近日本食を食べていなかったこともあり、見たら無性に食べたくなった。
不意に冬夜の前に並んでいた、二人の大柄な男性が列を離れる。急遽メニューを変更する事態が生じたようだ。
すると、偶然にも《《そこ》》にはヘレナが並んでいた。肩越しにトレイを覗き込んだ冬夜は、初めて目にする「あるもの」に目を奪われる。
白い円筒形の容器にパイ生地のようなもので蓋がされ、生地はドーム球場の屋根のように半球状に膨れ上がっている。
容器の上部にはところどころ何かがが吹き零れたような跡があり、一人用の土鍋を少しお洒落にした感じ。ただ、温暖なカリフォルニアには、見るからに似つかわしくない料理だった。
冬夜の視線に気づいたのか、ヘレナが驚いたように後ろを振り返る。
「こんにちは。その料理、何て言うんですか?」
目が合った瞬間、冬夜は控えめに尋ねる。
間髪を容れず、ヘレナは焦ったような顔をして、自分の身体でトレイを隠すように列から離れようとする――と、そのときだった。
足を滑らせたヘレナが前のめりになる。何とか踏みとどまったものの、トレイの上にあった、謎の食材がツツッとトレイを滑ってトレイの外へ飛び立っていく。
冬夜の中で「未確認物体《UO》」だった《《それ》》が「未確認飛行物体《UFO》」へと変わる。
そのとき、冬夜の身体は条件反射のように動いた。
伸ばした両手が器を素早く掴み取る――両手に激痛が走った。
例えるなら、熱湯が入った薬缶の側面を両手で掴んだとき、蓋を押しのけて熱湯が溢れ出したような感覚。円筒形の容器から零れた、熱々のシチューが冬夜の両の手を襲った。
『離すわけにはいかない』
苦痛に顔を歪めながら冬夜は心の中で呟く。同時に、何かが床に落下した音が聞こえた。
そこには、冬夜のランチが無残に散らばっていた。ご飯の島が浮かぶ、味噌汁の海に焼き魚が泳いでいる。さらに、納豆のネバネバの雨が付近を覆う。まさに「地獄絵図」と呼ぶにふさわしい光景だった。
★★
「――本当にごめんなさい。火傷をさせてしまって」
医務室のイスに座って両手で氷の入ったビニール袋を握る冬夜に、ヘレナが申し訳なさそうに話し掛ける。
「気にしないでください。カーペンター博士を驚かせるようなことをしたボクが悪いんです。ボクの方こそ申し訳ありませんでした」
冬夜はペコリと頭を下げる。
不意に自分の名前を呼ばれたヘレナは不思議そうに首を傾げる。
「キミは私のことを知っているのか?」
「はい。PTの戦略会議に出席していましたから。先月も出席しました。C大学メディカルスクールの六年生でホプキンス教授の研究室にいます。卒業したらNIHでお世話になります」
「そういうことか。メディカルスクールの六年生ということは、キミは二十三歳なのか? かなり若く見えるが」
「まだ二十歳です。C大学には飛び級で進学しました」
「飛び級か……」
ヘレナはポツリと呟いて視線を窓の方へ向ける。
医務室の担当医によれば、火傷の程度は軽いもので、二、三日はひりひりするものの特に薬をつける必要はないとのことだった。
担当医に丁寧に礼を言うと、二人は医務室を後にする。
「まだ午後の部には時間はある、カフェテリアに戻ろう。ダメになった、キミのランチは私が弁償する。本当に申し訳なかった」
再びヘレナは冬夜に詫びを入れる。
口では謝罪を繰り返してはいるが、表情は会議のときと同じポーカーフェイス。
「気になさらないでください。火傷も軽傷ですし、被害に遭ったランチも日本の朝食みたいなものですから。一食ぐらい抜いても問題はありませんし」
「そういうわけにはいかない。それでは私の気が済まない。いっしょにランチをしよう。ええと……」
「姫野冬夜です。呼ぶときは『冬夜』で結構です」
「では、冬夜。カフェテリアへいこう。改めて自己紹介をする。私は『ヘレナ・カーペンター』。『ヘレナ』でいい。博士なんて呼ばれても自分のこととは思えないから」
「わかりました。では、ヘレナさん。遠慮なくご馳走になります」
冬夜は何もなかったかのように、ヘレナといっしょにカフェテリアへ向かった。
★★★
「それはそうと、さっきトレイの上に乗っていた料理は何ですか?」
何の変哲もない《《ハヤシライス》》を乗せたスプーンを口に運ぶヘレナに、冬夜が思い出したように尋ねる。
その瞬間、ヘレナの手が止まる。表情こそ変わらないが、話を蒸し返されたくなかった節がある。
「あれは、ガルショークだ」
「ガルショーク?」
冬夜が初めて耳にする響きだった。
「どこの国の料理ですか?」
「ロシアだ。キノコが入ったクリームシチューを壺に入れてパイで蓋をしてオーブンで焼く。料理名のガルショークはロシア語で『壺』という意味だ」
「そうなんですね。勉強になりました。でも、どうしてガルショークを止めてハヤシライスにしたんですか?」
再びヘレナのスプーンを持つ手が止まる。
「あのときはガルショークの気分。でも、今はハヤシライスの気分。それだけだ。深い意味はない……もうこんな時間か、そろそろ戻らないとな」
腕時計にちらりと目をやると、ヘレナはショルダーバッグを肩にかける。そして、食べ掛けのハヤシライスとスプーンが乗ったトレイを手に、そそくさとテーブルを後にする。冬夜は慌てて彼女の後を追った。
「ヘレナさん」
冬夜は、廊下を歩くヘレナの隣に並び掛ける。
「またお話をさせてもらってもいいですか?」
「話? 話したって面白いことなんか何もない」
間髪を容れず、ヘレナは真っ直ぐ前を向いたまま答える。
「確かにそうですね。ヘレナさんのような優秀な方がボクみたいなのと話をしても面白くないです。言い方が悪かったです」
「そうじゃない」と否定しようとするヘレナの正面に、冬夜は素早く回り込む。進路に立ち塞がって深々と頭を下げる。
「お願いします。ボクにヘレナさんの知っていることを教えてください」
予期せぬ出来事にポカンと口を開けるヘレナ。廊下を行き交う顔見知りのスタッフが何か珍しいものでも見るかのように眺めていく。
どんなときも表情を変えないヘレナが驚いた顔をしていたから。
「……わかった。わかったから顔を上げろ。早く行かないと遅刻する」
ゆっくり顔を上げる冬夜を後目に、ヘレナは再び歩き始める。
そして、廊下の曲がり角で冬夜が付いてきているのを確認すると、背中越しにポツリと呟いた。
「後で私のパソコンのアドレスを教える」
つづく




