第25話 スウェーデンにて
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冬夜には、アメリカ留学の準備をする傍ら、やっておかなければならないことがあった。
それは、一九八四年にノーベル医学・生理学賞を受賞した「エドガー・グランフェルト」に会うこと。彼に会ってウィノナを探す手掛かりを得ること。
エドガーは今年で七十三歳。スウェーデン王立生物医学研究所の名誉研究員。ストックホルム郊外に妻と二人で暮らしている。
冬夜は、エドガーとアポイントを取るため、英文のメールを何通か送った。しかし、返事は返ってこなかった。
仕方なく研究所の窓口にメールで訊ねると、エドガーは病気で自宅療養をしているとのこと。冬夜はスタッフに頼んでメールを転送してもらうことにした。
数日が経った頃、エドガー本人からメールが返ってくる。
『病気を患っているため一時間しか会えないが、それでもよければ』
条件付きではあったが、冬夜は二つ返事でOKする。そして、三日後に会う約束を取り付ける。
十五時間という長旅の末、冬夜はエドガーの自宅に到着する。
セールスマンの飛び込み営業に近い訪問ではあったが、そんな冬夜をエドガー夫妻は笑顔で迎えてくれた。
しかし、《《例の事件》》と《《超人研究》》のことを口にした瞬間、エドガーの表情が俄かに険しくなり、和やかな雰囲気が一変する。
「あの件について話すことは何もない。ウィノナのことは何も知らない」
ひたすら同じ言葉を繰り返すエドガー。嘘をついている様子はなかったが、ある程度予想された結果だった。
仮にエドガーが亡命の片棒を担いでいたとしても「協力した」などとは口が裂けても言えない。また、当局がウィノナのことを必死に捜していたことを考えれば、二人が連絡を取り合うこともまずあり得ない。
「どんな些細なことでも結構です。共同研究を行っていたときのエレンブルグ博士の印象や考え方、好きな食べ物や口癖でも――」
「それを聞いてどうするんだね?」
必死に訴える冬夜に、エドガーは語気を強めた言葉を被せる。
ブルーの瞳から敵意のような感情がひしひしと伝わってくる。
「最近はなくなったが、ウィノナの失踪から数年はそんな話ばかりだった。マスコミも当局も頭から私を罪人のように扱ったよ。この手の質問はもううんざりだ。君の答えによっては、一時間を待たずに日本に帰ってもらう」
エドガーの表情や口調から、当時ウィノナのことでかなりひどい扱いを受けたことが窺える。隣りでは、エドガーの妻が目を伏せて憂鬱そうな表情を浮かべている。
エドガーの言葉どおり、有無を言わさず追い出されてもおかしくない状況だった。
不意に椅子から立ち上った冬夜は、直角になるぐらいに身体を折り曲げて深々と頭を下げた。
エドガー夫妻の顔に驚きの表情が浮かぶ。
「ボクはどんなことがあってもエレンブルグ博士に会わなればなりません。それは、彼女の研究成果があれば、大切な人の命を救うことができるからです」
しばらく沈黙が続く。
エドガーの顔が次第に柔和なものへと変わっていく。妻が彼の肩をポンポンと叩く。二人は顔を見合わせると、目を細めて小さく頷いた。
「冬夜くん、顔をあげて座ってもらえるかな?」
エドガーの穏やかな言葉に、冬夜はゆっくりと顔を上げる。
「君がウィノナを探す理由はわかった。ただ、《《例の研究》》が完成していなければ意味がないのではないかね? 私も、長い間、神経科学を研究してきたが、《《あの研究のこと》》は一度も聞いたことがない。ウィノナに会えたとしても、期待する成果が得られない可能性が高いと思うが」
「それでも構いません。既にボクはエレンブルグ博士の研究の進捗に応じたシミュレーションを行っています。進捗状況によってボクが《《引き継ぐ》》ものが変わるだけです。
イメージで《《仮置き》》している項目も多数ありますが、エレンブルグ博士に会って、到達点と方向性、それに、理論構成を教えてもらえれば、シミュレーションは完成します。研究途上であっても、時間を掛ければ形にする自信はあります。喩えるならジグソーパズルのピースを埋めるようなものです」
「それは無理だ」
エドガーは首を横に振って、冬夜の言葉を真っ向から否定する。
「研究内容がどんなもので、どんな状況にあるかもわからないのに、シミュレートするなんて不可能だ。運よくウィノナに出会えて研究内容を教示されたとしても、君のシミュレーションの前提条件と現状が合致する可能性は天文学的な確率だ。
日本の諺に『絵に描いた餅』というのがあるが、まさにそんな状況ではないのかね?」
「はい。おっしゃる通りです。でも、ボクはシミュレーションを何パターンか作っています」
「私が言っているのはそういうことじゃない。仮に十や二十のパターンを想定したとしても、《《桁が違う》》と言っているんだ」
「確かに、桁が違いますね……ちょっと失礼します」
冬夜はカバンからノートパソコンを取り出して画面を立ち上げ、それをエドガーの方へ向ける。
目次らしきページにはボタンが設置されており、クリックすることでそれぞれのページが呼び出せるようになっている。
冬夜が「001―001」のタグをクリックすると、英語で細かい文字がビッチリ書かれた、マトリックスの表が現れる。何かを作り出すための工程表と設計図がいっしょになったようなものだ。
「あくまで一例ですが、ページ数は九千百二十二ページあります。ページ数だけシミュレーションのパターンがあると思ってください。条件式は作ってありますから、二、三日もらえれば、さらに細分化して百倍程度まで増やすことも可能です。それぞれのケースにおける具体的手法や留意点は別のファイルに格納してあります。いくつかご覧になりますか?」
エドガーはマウスをクリックして、冬夜のシミュレーションをランダムに覗く。その眼差しは真剣そのもので、まさに食い入るように眺めている。
「わかった……もういいよ」
七つ目を閉じたところでエドガーは息を吐き出すように呟く。
そのとき、エドガーの脳裏にはある考えが浮かんでいた。「凡人は逆立ちしても天才には追いつけない。確か《《あのとき》》も同じことを思った。まるでデジャヴを見ているようだ」。
★★
次の瞬間、エドガーは声をあげて笑い出した。
その顔はとてもうれしそうだった。
「久しぶりに胸がわくわくしたよ。これは研究者にしか味わえない感覚かもしれないな。まるでノーベル賞を受賞する前――ウィノナと共同研究を行っていたときのようだ」
「ノーベル賞を受賞したときじゃないんですね?」
「ああ。あれは単なるセレモニーだ。この感覚は『天才』と出会うことでしか味わえないものだよ」
エドガーの表情と声のトーンが会ったときのそれとは明らかに違った。皺くちゃの顔には、好奇心に満ち溢れた、少年のような瞳と無邪気な笑みがあった。
「これを持っていくといい。私が持っていても、ノスタルジーに浸るだけの代物だ」
エドガーは本棚に立て掛けてある、ボロボロの封筒を冬夜へ手渡す。
中を覗くと、色褪せてボロボロになった原稿用紙の束が入っている。
「何ですか? これは」
「二十年前の骨董品さ。ノーベルアカデミーへ提出する論文の原稿をウィノナが校閲したものだ。ところどころ赤字で書かれた英文と、最後のページにロシア語で書かれたサインが彼女の肉筆だ」
冬夜は慌てて顔を上げて、エドガーの顔をジッと見つめる。
「なぜですか? なぜこんな大切なものを見ず知らずのボクに?」
「そうだな……君が同じ瞳をしているからかな? あのときのウィノナと」
「同じ瞳……ですか?」
「そう。感情を表に出すことはほとんどないが、その瞳はいつも私たちの視線の先の先を見ていた。
個人的な意見だが、あれは《《いつも誰かの幸せを願っているような目》》だった。君はウィノナとよく似ている。だから、君をウィノナに会わせたいと思ったんだ」
エドガーは目尻を下げて柔和な笑みを浮かべる。
「ウィノナ・エレンブルグと姫野冬夜――二人の《《天才》》が出会ったら何が起きるんだろう? そんなことを考えたらワクワクが止まらないよ」
「ボクのこと、ご存じだったんですか?」
「メールをもらったとき、調べさせてもらった。そうでなければ、どこの馬の骨かもわからない者とこんな風に会ったりはしない。もちろん今は馬の骨なんかじゃない。私は君に賭けたい気分だ」
エドガーは机の引出しを開けて古い写真を取り出す。
そこには、白衣を身に纏った、三人の男女の姿――ブロンドの長い髪を背中まで伸ばした、フランス人形のような美しい女性の両脇に、ニコヤカに笑う、二人の紳士の姿があった。
「彼女がエレンブルグ博士ですか?」
「ああ。当時は『氷の女王』(лед дама)と呼ばれていた。きっと今も面影は残っているだろう。この写真を持っていくといい」
写真を冬夜に渡しながら、エドガーは何かを考える素振りを見せる。
そして、躊躇いがちに言った。
「ウィノナが自由を得ることができたのは、両親の血筋が大きく関わっている。彼女の両親はユダヤ人でヘブライ語を彼女に教えた。日常会話であれば話すことができる。もしかしたら彼女を探す手掛かりになるかもしれない」
エドガーの妻が彼の肩をポンポンと叩く。
時計を指差しているところを見ると、そろそろ時間のようだ。
「ありがとう。冬夜くん。久しぶりに、とても有意義な時間を過ごすことができた。私は君に会えて幸せだった」
エドガーは右手を差し出して、冬夜と固い握手を交わす。
「ボクもです。グランフェルト博士。あなたには心から敬意を表します。本当にありがとうございました」
こうして、冬夜はウィノナの手掛かりを手に入れ、ストックホルムを後にした。
照明が落ちた飛行機の中、読書灯でウィノナの写真を眺める冬夜。「氷の女王」というネーミングが示すとおり、美しく冷たい雰囲気が漂っている。
ただ、エドガーは「彼女はいつも誰かの幸せを願っていた」と言っていた。外見と中身は違うと言うことだろう。
冬夜は読書灯を消して静かに目を閉じる。「ボクたちはどこか似ているのかもしれない」。薄れ行く意識の中でそんなことを思いながら。
つづく




