第23話 ターニング・ポイント
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「パズルみたいな質問だね。答えに辿り着くには、医師としての経験よりも閃きや論理的考察が重要みたいだ」
ブライトマンはおどけた口調で肩を窄めると、視線を逸らして遠くを見るような目をする。
会話が途切れたことで、カフェテリア内に流れているのが有名なクラシック音楽であることがわかった。
「冬夜くん、あえて問う。君は、その患者の《《心》》ではなく《《身体》》を救う術を求めている――そういう理解でいいかい?」
ブライトマンは視線を逸らしたままポツリと言った。
「はい。そのとおりです。すべては命あってのこと。心の救済では意味がありません。ボクが調べたところでは、人工心臓やiPS細胞の類は実践の目途が立っていません。だから、あえて博士にお訊きしました」
冬夜の言葉にブライトマンはふっと息を吐く。
次の瞬間、鋭い眼差しが冬夜に突き刺さる。それは、数多くの修羅場を潜り抜けて来た医師の眼差し――荒々しく、そして、どこか悲しいものだった。
「そんなものはない。それが循環器系を専門とする医師としての回答だ」
冬夜は言葉を失った。
表情こそ変えなかったが、ショックは計り知れないほど大きかった。最後の望みが断たれたような気分だった。
「ありがとうございました」
冬夜は努めて冷静に振舞った。二人に背を向けて、重い足を引きずるように自分のテーブルへと向かった。
「大造、《《こんな話》》を聞いたことはあるかい?」
背中越しに、ブライトマンが医学部長に話し掛ける声が聞こえた。
「|アメリカ国立衛生研究所《NIH》の脳神経チームでは、C大学のメディカルスクールと共同で、臓器不全に陥った患者を救うシステム「|Personality Transfer」の共同研究を行っている。あと少しで、実践の目途が立つらしいよ」
冬夜の足が止まる。知らず知らずのうちに訊き耳を立てていた。
「トミー、それは初耳だよ」
「そうか。じゃあ、ここだけの話にしておいてくれ。それを目当てにした連中が『C大学メディカルスクールに入りたい』なんて言い出したら大変だからね」
明らかに冬夜に向けられたメッセージだった。
Personality Transfer(人格移送)というネーミングは初めて聞くもので、その内容は見当が付かない。それ以前に、脳神経の分野は冬夜がこれまでほとんど触れたことのない領域。まさに雲をつかむような話だった。
不意に冬夜の脳裏にある言葉が浮かぶ。「何もしなければ事態は変わらないが、何かすれば好転する可能性がある」。まさにその通りだと思った。
冬夜は心の中で苦笑いを浮かべる。
なぜなら、その言葉は、目の前でビール瓶を片手に笑っている大河内健吾から繰り返し聞かされたものだったから。
★★
「冬夜、どうした? 何だかうれしそうじゃないか? ブライトマン博士から良い話でも聞けたか?」
テーブルに戻った冬夜に、健吾が上機嫌で話し掛けてくる。
ミハエルはと言えば、壁際で床にペタンと座りこんで項垂れている。何か小声でブツブツ言っているが、どうやら潰れているようだ。
「特にないよ。でも、一つ決めたことはある」
「そうか。お前のことだから、とんでもないことを考えてそうだな」
健吾はグラスに残ったビールを飲み乾して、テーブルの上のビール瓶に手を伸ばす。
「大したことじゃないよ。四月からアメリカのメディカルスクールに留学することにした」
「へぇ、アメリカに留学か。気をつけて行って……なに!? 留学ぅ!?」
健吾は驚いた様子で冬夜の顔を見つめた。ビール瓶を持った手が宙ぶらりんの状態で止まっている。
「お前、何考えてるんだ? 今度三回生になるんだろ? これから本格的に医療の勉強が始まるのに、どうして留学なんかするんだよ?」
健吾は動揺した様子で冬夜に詰め寄る。酔いがどこかに吹き飛んだようだ。
「やりたいことができたんだ。でも、最後に背中を押してくれたのは大河内くんだ。礼を言うよ。ありがとう」
「はぁあ!? 意味がわからねぇよ」
冬夜の言葉の意味が理解できない健吾は、眉をハの字にして口を半開きにする。
★★★
「健吾さん! 冬夜さん! 聞いてください!」
不意に背後からぎこちない日本語が聞こえた。冬夜と健吾の肩に誰かが抱きついている。
それは、潰れたと思ったミハエル。ポストの隣りに立っていたら、口に郵便物を突っ込まれそうなぐらい真っ赤な顔をしている。
「私はもともと医者になんかなりたくなかったんです! でも、祖父が医学者で、父が後を継がなかったから私が無理やり継がされたんです! 日本に留学して神経学の勉強をするよう言ったのも祖父です!」
ミハエルは瞳を潤ませながら、腹に溜めていた物を一気にぶちまけるように話をする。見た感じ、泣き上戸の気があるようだ。
「大河内くん、ミハエルさんの日本語が素面のときより流暢になっている気がするんだけど」
冬夜が健吾に耳打ちをする。
「いや、そのとおりだ。ミハエルは飲めば飲むほど頭が冴えてくる。ウォッカを飲んだときなんか、そりゃもう大変だった。前頭葉がなんだとかニューロン・ネットワークがなんだとか、わけのわからない話を一時間以上聞かされた。知り合って一ヶ月しか経っていないが、かなりヤバい奴かもしれない……仕方ねぇな」
健吾はチッと舌打ちをする。そして、ミハエルの方を振り返って両肩に手を置いた。
「ミハエル、わかった! わかったから少し落ち付け!」
ミハエルは動きを止めて、泣きそうな顔で健吾の顔をしげしげと眺める。
「お前の祖父さんはもうこの世にいない。お前を縛る人間は誰もいない。だから、お前は誰の命令にも従う必要はない。お前は自由だ――」
「健吾さん、それは違う!」
健吾の言葉を遮るように、ミハエルは大きな声で言った。
「祖父の教えは遺言みたいなものです。決して、逆らえません。でも、正直なところ、できることとできないことがあります。
人間の脳を改造して《《超人を作り上げる》》なんてできっこありません。八十年代のソ連で完成の域に達していたのは、天才神経学者『ウィノナ・エレンブルグ』がいたからです」
「ウィノナ……エレンブルグ?」
冬夜はポツリと呟いた。その名前はどこかで聞いたことがあった。
「知ってるのか? 『ウィノナ・エレンブルグ事件』のこと」
健吾はミハエルの肩からスッと手を放して冬夜の方に目をやる。
「よくは知らない。名前を聞いたことがあるぐらい」
冬夜が首を横に振る。すると、それが何かの合図であるかのように、健吾はゆっくりと話し始めた。
「国際政治の世界ではかなりの有名人だ。旧ソ連の神経科学者ウィノナ・エレンブルグは、スウェーデンの学者とともにノーベル賞を共同受賞するはずだった。しかし、授賞式の前日、彼女は忽然と姿を消した。
スウェーデン政府は終始ノーコメントだったが、あれは間違いなくアメリカへの亡命事件。スウェーデン政府とノーベルアカデミーがアメリカに手を貸してウィノナを逃がしたってわけだ。冷戦下でソ連と対立関係にあったアメリカにとって、ソ連の天才科学者の亡命は大歓迎だったはずだ。
個人的には、エレンブルグのノーベル賞受賞も亡命のために仕組んだものだと思っている。そうでもしないと、彼女を逃がすタイミングがないからな。『仕組まれたノーベル賞』だよ。あれは」
「でも、ミハエルさん……?」
健吾の話を黙って聞いていた冬夜が真剣な顔で尋ねる。
「なぜ、お祖父さんは、ソ連の研究内容をミハエルさんに話したんですか? 大河内くんの話からもそれは国家機密のはず。家族にもそんなことを話すとは思えません。自分の命だけではなく家族の命が危険に晒されるのは目に見えています」
「確かにそうだ……ミハエル、どうなんだ?」
冬夜と健吾が鋭い視線を向ける中、ミハエルは唇を噛んで口を噤む。何かを考えているようだった。
しばらくして、ミハエルは重い口を開ける。
「祖父は、晩年認知症を患っていました。そのとき、私は祖父から同じことを繰り返し聞かされました。当時の生々しい話をそのままに……ソ連が秘密裏に行っていたのは人体兵器の研究でした。詳しい内容はわかりませんが、脳の移植と潜在能力の引き出しを柱とする『超人研究』というものです。
当時ソ連はA国の内戦に軍隊を派遣していました。そのため、捕虜を使った人体実験を思うように行えたのです。その数は数百人とも言われています。そして、その研究を仕切っていたのが『ウィノナ・エレンブルグ』という三十代の女性です。
しかし、一九八四年のウィノナ失踪で研究は途絶え、その後、一九八六年にはチェルノブイリ原子力発電所事故が起き、一九八九年にはA国からの撤退を余儀なくされました。国家としての威信は失墜し、一九九一年にソ連は崩壊しました。
これにより、非人道的な研究や実験が行われていた事実は闇の中へ葬り去られました。二十年余りが経ち、当時のことを知る人間はほとんどいなくなりました」
「そんな話があったなんて……信じられないが、辻褄は合ってる」
健吾はウーロン茶をコップに注いで、立て続けに二杯を喉に流し込む。
隣りには、鋭い眼差しをある一点に向けて微動だにしない冬夜の姿があった。それは、冬夜の脳内でシミュレーションが行われているときの表情だった。
「大河内くん、今エレンブルグ博士はどこにいると思う?」
「普通に考えれば、アメリカのどこかで保護されてるだろうな。生きていれば六十前後か。田舎町で目立たないようにひっそりと暮らしているか、その頭脳が買われて国の研究施設に囲われているか……何とも言えないな」
「ありがとう。それで十分だよ」
冬夜はミハエルとブライトマンの顔を順番に見つめる。
NIHとC大学が共同研究を進める「Personality Transfer」。旧ソ連で進められていた「超人研究」。アメリカに亡命した天才神経学者「ウィノナ・エレンブルグ」。冬夜の頭の中で、一つのシミュレーションが形になりつつあった。
つづく




