第17話 伝えたくて
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「――あたし、いつ死んでもおかしくないんだ」
十月半ばのある日の夕方、温人と川沿いの土手の道を歩いていた春日の口から、何の前触れもなく、そんな言葉が飛び出した。
足を止めて唖然とする温人に、春日はいつもの表情で自分の身体のことを話し始める。
「これまで手術を二回受けたけど、どちらも応急処置。完治の方法は心臓移植だけ。でも、あたしの血液型は超の付くレアなタイプで、臓器提供者が見つかる可能性はゼロに等しい。もし合併症が起きたら打つ手はない。あたしは平凡で良かったのに、神様も余計なことしてくれるよな」
春日は、それまで言葉にできなかった、胸の内を一気に吐き出すと、何もなかったように笑顔を見せた。
春日の病気のことは、担任の教師からクラスメイトにもそれとなく伝わっていた。ただ、それはあくまで「心臓に疾患がある」という事実であり、春日が常に死と隣り合わせの状況にあることは誰も知らなかった。
春日から直接誰かに話すようなこともなかったが、温人には自分の口から伝えておかなければいけないと思った。
春日は、周りから「強気を絵に描いたようなタイプ」だと思われている。先生やクラスメイトはもちろん、親さえもそう思っているかもしれない。
それは、春日が人前で弱さを見せることがないから。陰でやりきれない思いを抱き、嘆き苦しんでいることを誰も知らないから。
春日の言葉を聞いた瞬間、温人は即座に彼女の辛い胸の内を感じ取った。
心の声がはっきりと聞こえたから。これまで聞いた、どんな声よりも苦しそうだった。これまで感じた、どんな叫びよりも悲しい響きだった。
笑顔を交えながら淡々と話す春日に、温人は胸が張り裂ける思いだった。
自分に何ができるのかを考えた。しかし、医者でもなければ聖職者でもない温人には春日を救う術が思い浮かばない。
ここで悲しい素振りを見せれば、春日の言葉を肯定したことになる。そんな様子を目の当たりにしたら、春日は現状を《《仕方のないこと》》として受け止めるだろう。やりきれない気持ちが膨れ上がり、絶望の淵に追いやられてしまうかもしれない。「そんなことは絶対にあってはいけない」。温人は自分自身に強く言い聞かせた。
「大丈夫だよ。春日さん」
温人は努めて満面の笑みを浮かべる。
春日の顔に驚きの表情が浮かぶ。
『何が大丈夫なんだよ? 何も知らないくせに適当なこと言うんじゃない! バカも休み休みに言え!』
これまでの春日だったら、そんな言葉でやり切れない思いをぶつけていただろう――が、春日の口からそんな言葉は出なかった。
温人の言葉が、何の蟠りもなく、春日の心にスッと染み渡っていったから。
なぜ大丈夫なのかなんてわからなかった。しかし、温人の笑顔を見ていたら、大丈夫だと思った。いつも泣いていた心が「大丈夫」と言っているような気がした。
『ずっと温人のそばにいられたらいいのに』
春日は心の中で呟いた。それは彼女の心からの願いだった。
「ありがとな。温人」
前を向いたまま、春日はポツリと言った。
温人は安堵の胸を撫で下ろす。さっきまで頭の中に響き渡っていた、春日の心の声が聞こえなくなったから。
オレンジ色を帯びた川面がゆらゆらと揺れる。夕暮れがすぐそこまで迫っている。
春日は夕暮れが好きではなかった。その先にある、真っ暗な闇に包まれるのが心細かったから。
しかし、その日は違った。オレンジ色に彩られた景色を見ていたら心が穏やかになるのを感じた。夕暮れが好きになれそうな気がした。
きっと隣りに温人がいたから。温人の笑顔があれば、何があっても大丈夫だと思えたから。
★★
「ねぇ、春日さん?」
十一月に入ったある日の昼休み、弁当を食べ終わった温人が春日に話し掛けてきた。
「ずっと気になってたんだけど、どうして春日さんは『疾風の春日』なんて呼ばれてるの?」
春日はパック牛乳のストローを口から離して、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。《《そのこと》》はそろそろ訊かれる頃だと思っていたから。
「ちょうどよかった。明日の放課後、あたしといっしょに来いよ。見せてやるから」
「見せるって何を?」
「ついて来ればわかる」
春日の勿体ぶった様子に温人は首を傾げる。
しかし、春日は含み笑いを浮かべるだけで、それ以上何も言わなかった。
次の日の放課後、温人が連れられて行ったのは、春日が小さい頃から通う、剣術の道場。場所が中学校と家の間にあることから、春日はいつも帰る途中で立ち寄っていた。
誤解されがちではあるが、春日が学校に木刀を持ってくるのは決して護身のためではない。
「剣術は剣道とは違う。真剣を使って戦う武術だ。今は木刀だけど『高校に入ったら真剣を握らせてやる』って師匠が言ってた。ほら、テレビ番組なんかでやってるだろ? 藁を巻いた竹を真剣でこうやって真っ二つにするところ」
春日は、布が巻かれた木刀で空を切り裂くような仕草をする。
「いや。腕が未熟なら高校へ行っても握らせない」
そんな声とともに、背後から伸びてきた、丸太のような太い腕が春日の頭を鷲掴みにする。
「痛てててて! いきなり何するんだよ! 師匠」
「ふむ」
手の持ち主は春日の剣術の師匠・柿崎光。彼は春日の髪に触れた手で、自分の頭――髪らしきものはほとんど存在しないスキンヘッドを丁寧に撫でる。
「油断も隙もないんだから……他人の髪に触ったって自分の髪は増えないっての!」
「やってみないとわからん。死んだ祖父の教えだ」
「師匠の祖父さんもツルツルだったじゃないかよ。『効果がない』って言ってるようなもんだぜ」
バレッタを留め直す春日を後目に、温人は柿崎のことをしげしげと見つめた。
分厚い胸板。ピカピカのスキンヘッド。太い眉。ギョロッとした目。全身から湧き上がる威圧感が半端ではない。
しかも、自分たちのすぐ後ろにいたにもかかわらず、気配が全く感じられなかった。「只者ではない」と思った。
「じゃあ、道着に着替えてくる。温人、後でな」
小さく手を振ると春日は道場の中へ消えて行った。
春日の後ろ姿を眺めていた温人だったが、背中に突き刺すような、鋭い視線を感じる。
「ハルトくん……でいいかな?」
「は、はい。伊東温人と言います。よろしくお願いします」
不意に名前を呼ばれた温人は、背筋をピンと伸ばして緊張気味に頭を下げる。
「ふむ。私はこの道場の師範で柿崎光という。よろしくな」
柿崎は、右手でスキンヘッドを撫でながら、ギョロっとした目で温人を見る。
彼の名前は《《光》》。「名は体を表す」。そんな言葉が温人の脳裏を過る。
「温人くん、どうかしたか?」
「な、何でもありません」
温人は口元に力を入れて、顔がにやけるのをグッと我慢した。
「それで、温人くん? 君は春日とは親しいのか?」
「知り合ってまだ二ヶ月しか経っていませんが、クラスが同じで……一応友達です」
温人は躊躇いがちに答える。
「ふむ。友達か……春日がここに他人を連れてきたのは初めてだ。春日に友達がいることを聞いたのも初めてだ」
柿崎はスキンヘッドを撫でながら、温人の顔をしげしげと眺める。
「でも、僕が勝手に思ってるだけなのかもしれません。春日さんは、僕のことを友だちだと思っていないかも――」
「それはない」
温人の言葉に自分の言葉を被せて、柿崎は首を横に振る。
「今日の春日はこれまで見たことのないくらい、良い表情をしている。君は間違いなく春日の友達だ」
柿崎は自分の顔を温人に近づけると、今度は首を縦に振った。
「ど、どうも……」
温人は緊張した様子で言った。同時に、どこかホッとしたような気持ちになった。
つづく




