第11話 2つの扉
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ウィノナの個室から、激しく咳き込む音、何かを嘔吐す音、トイレの水が流れる音が絶え間なく聞こえる。
洗面所の脇で状況を見守っていたタチアナには、ウィノナが悶え苦しんでいる様子が手に取るようにわかった。
タチアナの背後からは《《相変わらず》》陽気な歌が聞こえる。
トイレの入口に一番近い、子供用の洗面台で、腰の曲がった老婦人が手を洗いながら歌を口ずさんでいる。
どこの国の言語なのかはわからない。歌詞も意味不明。ただ、瘦せ細っている割に老婦人の声はパワフルで、その声はトイレじゅうに響き渡っている。
「あたしゃ今年で《《八十三》》 連れは年下《《八十二》》 いつも二人で野良仕事 金は少しあればいい 元気であればそれでいい いつまで生きられるのかって? そんなの誰にもわかりゃしない 《《八十三》》と《《八十二》》 二人併せて《《百六十五》》 『一』『六』『五』は希望の数字 未来に続く希望の数字 忘れちゃいけない『一』『六』『五』」
念入りに手を洗いながら気持ち良さそうに歌う老婦人だったが、その声は次第に大きくなり、まるで難聴の老人がテレビを見ているときのような大音量に変わる。
「うるさい!」
「大きな声、出すんじゃねえ!」
「出る物も出なくなるわ!」
「ここはカラオケじゃないんだよ!」
「静かにしろよ!」
老婦人に対して、使用中の個室から罵声が浴びせられる。
タチアナはその言葉がほとんど理解できなかった。彼女がロシア語、英語、ドイツ語を理解できることを考えれば、飛び交っているのはそれ以外の言語。まさに国際空港ならではの光景だった。
トイレの中は喧騒に包まれ、少し前までの静かな雰囲気が一変する。
罵声は一向に止む気配がなかった。原因者である老婦人が、瑕のついたコンパクトディスクのように、意味不明な歌を繰り返し歌い続けているから。
「――二人併せて《《百六十五》》。『一』『六』『五』は希望の数字。未来に続く希望の数字。忘れちゃいけない『一』『六』『五』」
老婦人の発する《《騒音》》に痺れを切らしたのか、水を流す音とともに個室のドアが開き、用を足していた女性が次々に飛び出してくる。
どの顔にも怒りの表情が見て取れる。同年代ではあるが、その険悪な雰囲気を見る限り、顔見知りとは思えない。
タチアナのすぐ脇で、数人の老婦人による口論が始まる。みんな興奮しているようで、どの声も甲高く、異様に大きい。トイレの中の喧騒はさらにエスカレートする。
そのときだった。
乗り心地の悪い飛行機での長旅。空港での予期せぬアクシデント。生理的に受け付けない極悪な環境――いくつかの状況が重なり、これまでにない、大きなストレスを溜め込んだタチアナの中で「プチン」という音がした。それは、タチアナの理性が吹き飛ぶ音だった。
「やかましい! このクソババア! いい加減にしろ! ここはお前たちの家じゃないぞ! 他人に迷惑を掛けるんじゃない! 小便と糞が済んだならさっさと消え失せろ! 後進国の下等動物が!」
タチアナの口から飛び出したのは、普段口にしたことの無いような、乱暴で汚らしい言葉だった。
口論がピタリと止み、老婦人たちの視線が一斉にタチアナに集まる。
言葉の意味はわからないものの、黒服とサングラスを纏った、屈強な女が怒りを露わにしているのは理解できた。
蜘蛛の巣を散らすように、老婦人たちはそそくさとトイレを後にする。彼女らの本能が身の危険を感じたのだろう。
「常識知らずのクソババアが」
静寂が戻ったトイレの中で、タチアナは吐き捨てるように言った。
洗面所の鏡には怒り心頭の彼女の姿が映っている。マジマジと眺めると、その顔は恐ろしく醜いものだった。
「……何をやっているんだ? 私は」
タチアナは苦笑いを浮かべながら額に手を当てて頭を左右に振る。
次の瞬間、タチアナの顔から笑顔が消える。「しまった」という表情が浮かんでいる。ウィノナのことをすっかり忘れていたのに気づいたから。
さっきまで苦しそうな声が聞こえていたが、今は何も聞こえない。容体が落ちついたのであれば問題はないが、失神でもしていたら目も当てられない。
慌てて個室に掛け寄ってドアをノックする。しかし、返事は返ってこない。
「博士! エレンブルグ博士!」
ドアを激しく叩きながら名前を連呼したが、やはり返事はない。
焦りと不安からタチアナの唇がピクピクと震えている。
「ドアを開けます!」
タチアナはドアの取っ手を目掛けてキックボクサー顔負けの蹴りを放つ。
一発目で「メリッ」という音がして、二発目でカギの留め具がはじけ飛ぶ。
タチアナはドアを押し開く――が、そこにウィノナの姿はなかった。
狐につままれたような表情で、タチアナはサングラスを外す。
足元に何かが落ちている。それは、開いた状態のナンバーロック式の錠前。「1」「6」「5」の三ケタの数字が並んでいる。
間髪を容れず、タチアナは道具置き場に通じる壁を蹴り開ける。
そこには、掃除道具が無造作に置かれていた。ただ、先程隙間から見たものとはどこか様子が違う。道具が両隅に寄せられている。
タチアナは言葉を失った。道具置き場の壁に、もう一つ《《別の扉》》があったから。
床の上には、さっきと同じナンバーロック式の錠前が転がっている。《《誰か》》がその扉を通って壁の向こうへ抜けたような形跡があった。
扉を開けると、そこはたくさんの配管が走る長い通路。中は真っ暗で、トイレから漏れる明かりで数メートル先が何とか見える程度。不快な重低音が響き、壁や配管が小刻みに振動している。
初めて足を踏み入れる者は、一歩ずつ慎重に進まなければ危険を伴う場所。しかし、構造を熟知している者がいっしょであれば、スムーズに進めそうな場所。
タチアナは自分が嵌められたことに気づく。
「ウィノナ! 戻って来い! ウィノナ!」
タチアナの声が真っ暗な空間にやまびこのように響き渡る。
叫ぶように何度も名前を呼んだが、それに答える者は誰もいなかった。
タチアナはトイレの外にいるルドルフに事情を説明し、一階のロビーに待機している大使館員と手分けして空港内を隈なく探した。
しかし、ウィノナの姿はどこにもなかった。
同時刻、エアポートの端から飛び立つ一基のヘリコプターが目撃された。
正確に言えば、目撃されたのは、ヘリコプターではなく、闇夜を照らすサーチライト。何かが垂直に上昇して行く様子と回転翼の爆音からヘリコプターと認識された。
★★
この日を最後に、ウィノナ・エレンブルグが人前に姿を現すことはなかった。
ソ連政府はウィノナが西側へ亡命したことを確信する。
今回の一件はウィノナ単独で行えるようなものではなく、西側の人間が加担した、計画的犯行であることは明らかだった。
しかし、条約違反の人体実験、極秘事項である兵器開発が明るみに出るのを恐れた当局は「国際テロによる犯罪も視野に入れ、エレンブルグ博士の捜索に尽力する」といった声明を発表するに留めた。
一九八四年十二月九日。早朝のストックホルム・アーランダ空港。ノーベル賞の受賞を控えた、神経科学の世界的権威がまるで神隠しにでも遭ったかのように忽然と姿を消した。
米ソ冷戦の最中、世界に大きな衝撃を与えた、その出来事は「ウィノナ・エレンブルグ事件」として後世に語り継がれることとなる。
つづく(第2部へ)




