言刃
いつも通りの風景だ。
取り留めの無い話で賑わう教室。目の前で楽しそうに笑う幼馴染の友人。黒板に大きく書かれた「死ね」という文字。
見慣れた風景だ。
後ろの扉を静かに開けて、彼が入ってくる。そこに引っかかっていた、画鋲の入ったケースが彼の頭に落ちてくる。彼が痛がる。これもいつも通り。
それを、耳障りなまでに甲高い声で笑う男女の集団。これもいつも通り。
さらにそれをグルリと囲んで、ニタニタと意地の悪いせせら笑いを浮かべる、部外者面をした僕達。これも、やっぱりいつも通り。
もちろん、目の前の友人も例外では無い。だが、僕は違う。きっとこの中でただ一人、僕は彼を哀れんでいる。助けようと思っている。
下唇をギュッと噛み締め、眼を薄っすらと潤わせた彼が、黒板の文字を懸命に消している。
ああ、動け、動けよ。簡単な事じゃないか。彼の隣に行って、一緒に黒板の文字を消してやる。それで「大丈夫だよ」と一声掛けるだけでいい。それだけで、彼は救われる。
だが、やらない。何もしない。ただ周りに同調して、指を指して彼を笑う事しか出来ない。今日も、何も出来なかった。しなかった。
次の日、落書きされた机をそのままに、彼はこの場所に来なかった。つまり、黒板の文字もそのままだ。
誰もそれを消さないまま、ついに先生がそれを見た。今までにも何度も見たことがあるだろうに、さも初めて見たかのように、怒り、叫び出した。なんて汚く、賢い奴だろう。
うるさいな、まだ叫んでいる。もうとっくに分かっているくせに。大体見れば、何となく見当はつくだろ。誰が"やる側"で"やられる側"で"傍観者"なのか。
どうやらずっと、僕の名前を叫んでいるらしい。
え？ なんで？
男女の集団と傍観者達の、獲物を見つけたハイエナのような鋭利な眼差しが、幾つも僕の心を貫く。
え？
━━教室って、こんなに遠かったっけ。
まるで登山をしているかの様に、階段を登るのが辛い。重い足をゆっくり持ち上げて、一歩ずつ踏みしめる様に登って行く。とても長い様に思えた階段も、気づいたら登り終えていた。もっと時間をかければ良かったとさえ思えた。
後ろの扉を開けようとしたその時。体が覚えていた。そのまま後ろの扉を通り過ぎ、前の扉を開けようとしたが、そこは男女達に通せんぼされていた。そこを退く様頼んだが、理不尽な理由で断られた。
これが何を意味するかは、明白だった。
観念して、後ろの扉に手を掛ける。蒸気が出ているのでは、と思うほどに背中が熱い。額から止め処なく脂汗が溢れる。息遣いが荒い。目を瞑って、静かに、扉を、開けた。
派手な音を立てて画鋲がぶちまけられる。首が熱い。痛い。痛い。が、それよりも、周りから放たれる甲高い笑い声と、ひっそりと聞こえるせせら笑いと、鋭利な視線の方が、画鋲よりも、深く、深く、刺さった。
鉛の様な空気を力任せに吸って、吐いて、無理矢理体を落ち着かせた。が、それも束の間。前の黒板に気づいて、すぐに息を詰めた。
無言で黒板消しを動かす。背後から、甲高い笑い声こそ聞こえないものの、ひそひそといやらしい小声が幾つも耳に飛び込んで来た。
それが苦しい。どうせ笑うなら、思い切り笑い飛ばして欲しい。中途半端に貶されると、それを無駄に深く勘繰ってしまう。自分にとって最悪の状況が、頭に波状的に押し寄せて来る。それは自分自身にとって最も辛く、残酷な事だ。
誰か助けろよ。目の前でこんなに人が苦しんでいるんだぞ。なんで声をかけないんだよ。理解出来ない。僕だったら━━自問してみたら、即答する事は出来なかった。
これは天罰なのかもしれない。彼に言葉をかけなかった事に対しての。ああ神様。もう一度だけ機会をくれませんか。きっと、きっともう過ちを繰り返しません。
当然そんなことを叫べる訳でも無く、ただただこれから日常となるであろう日常を送った。
ところが翌日。予想はいい方向に外れた。昨日よりもさらに重い足で階段を登り、扉を開けようとしたら、そこにあるべき物が無かった。もう消費されていたのだ。光を手繰り寄せる様に、微かな希望を抱いて扉を開ける。
そこには、考え得る中でおそらく最も最高な光景が広がっていた。彼が居たのだ。彼が居たのだ！ 背中から、画鋲が刺さった風船の様に熱が抜けた。足取りも軽い。僕は嬉々としてその日を過ごした。昨日の出来事は、全て悪い夢だったのだ。そう、悪い夢だったのだ。
━━あの悪夢の翌日の翌日から、彼はもうここには来なかった。落書きされた机も、いつの間にか無くなっていた。今、僕は平凡な日常を過ごしている。代わり映えの無い、至って普通の日常だ。彼の勇気ある行動を真似ようともしたが、僕の心にそんな勇気は無かった。あればこんな事にはきっとならなかった。
ああ、神様。もう一度だけ機会をくれませんか。
何故だかわからないが、はっきりと、もう返事は無いような気がした。
はっきりと。
